ICPC地区予選総集編

夢が始まった場所。

2012年

すべては2012年の地区予選から始まった。僕がこの大会に出ることになったのも、かなり偶然だった。

競技プログラミングを始めたのは高校時代。先生がクラスへ勧誘に来て、国際大会に出たすごい選手が数万ドルの全額奨学金をもらい、プリンストン大学に合格した、という話をしていた。当時の省大会の参加費は30元ほど。先生はこれを一言でまとめた。「30元払って、30万元稼ごう」。

それで始めて、すっかりハマり、全国大会で銀メダルを取り、上海交通大学への推薦入学も決まった。

上海交通大学に来る学生がどれほど強いかは分かっていた。僕よりはるかに上の人ばかりだ。その中でもICPCチームは世界一を何度も取った超強豪。大学では競技を続けるつもりなどなかった。どう考えても無理だと思っていた。

転機は2012年、アメリカへ来たときだった。上海交通大学で2年、ミシガン大学で2年学び、両方の学位を取る2+2プログラムで、僕は3年生からアメリカへ移った。ミシガン大学は2011年世界大会で学校史上最高の2位、金メダルを取ったばかりで、その実績が計算機科学科の建物に大きく掲示されていた。

僕は見ただけで気に留めなかったが、ルームメイトはそこに勝機を見つけた。上海交通大学は強い。でもミシガン大学はそうでもないのでは? 調べると、2011年世界大会の強さは二人の化け物級選手に支えられていた。一人は引退後に僕たちの学生コーチとなり、もう一人は中国IOI代表経験のある一学期だけの交換留学生だった。二人ともその後は世界大会に出る資格がなく、抜けた途端にチームは崩れ、2012年は世界大会にも進めなかった。

ルームメイトは2011年地区予選の問題と順位表を読み、結論を出した。「これなら俺でもいける」。

三人一組の大会なので、彼は僕を誘った。そして一言で僕を落とした。「もう一度、夢を追ってみたくない?」

2011年の問題を出し、「これ簡単、次も簡単」と六問続けて見せた。全部サービス問題に見えた。そして言った。「ほら、これで世界大会に行けるじゃん」。

僕は参加することにした。

この年のチーム選抜は二転三転し、最後には完全に折れた。

校内選抜前、僕たちはコーチにチーム編成を聞いた。二人で組みたいが、先に固定できないか。公平のため無理で、順位どおり上位三人、その次の三人で組むという。これは点数調整が必要なのでは?

もっとも、練習ではずっと僕たちが1位と2位だったので、調整する意味もなさそうだった。

ところが本番で崩れた。ルームメイトはそれまで好調すぎて油断し、難問に時間を使いすぎ、簡単な問題を大量に残した。しかも選抜は週末の二日間から好きな日を選ぶ方式だった。僕たちは初日に出て、彼は失敗しても2位だったので大丈夫そうに見えた。ところが二日目、練習に一度も来なかった未知の強敵が二人現れ、あっさり彼を抜いた。

計画は爆発した。僕はその二人の中国人留学生と組むことになる。僕は別に構わないが、ルームメイトにはつらい。友達のオーディションに付き添ったら、友達だけ受かった、というよくある話そのものだった。

結果は僕が7問で1位、二人が6問、ルームメイトが4問。差が大きすぎて、誰かが自分から辞退しない限り覆せない。

結局、誰も辞退しなかった。僕は二人と組んだ。以後、一人を問題読み担当、もう一人を「おまけ担当」と呼ぶ。前者はその後二年間、世界大会で問題を読む役になるが、この時点ではまだ普通に実装もしていた。

おまけ担当は高校時代かなり有名で、2008年中国情報オリンピック優勝者の曹欽翔と並び称されたこともあるらしい。それほどなら、どれだけ強いのかと思う。

そして彼は、とんでもない規模で僕たちを困らせた。

地区予選前、今年はワイルドカードが一枠来ると聞いた。僕たちは通常三校が進出し、今年は四校になると思っていた。上位はカーネギーメロン、ウォータールー、トロントの三校。前二校は世界大会のメダル圏付近に何度も入り、トロントにもその年は元IOI代表がいたと聞いた。

この三校は地域だけでなく北米全体でもトップ級で、ウォータールーとCMUは世界大会で北米首位をよく取っていた。後にMITへ中国出身の強豪が多数入って、北米の勢力図は大きく変わった。

当時の世界大会全体を見ると、北米は比較的弱く、アフリカ、アラブ、南米よりは強いが、欧州やアジアとは平均レベルに大きな差があった。つまり僕たちは、弱い地域の中の最強地区にいた。

でもワイルドカードがあるなら問題ない。三強を除けば次は僕たちで、残りの学校はその年ほとんど競争にならなかった。

気楽に構え、唯一の目標は4位を守ること。大学の練習に少し参加しただけで、追加練習はしなかった。二人とはまだあまり親しくなかった。

本番は全九問で、最初の八問は明らかに簡単だった。ただし多少の実装量はある。世界大会基準ならゼロ同然だが、当時の僕たちの実装力も普通で、簡単な問題にかなり時間がかかった。CMUは1時間半で六問、3時間ほどで八問を解き、スコアボード凍結前に全完した。

僕と問題読み担当は4時間以上かけ、どうにか六問を実装して通した。その間、おまけ担当は最後、つまり最難関の問題から読んだ。普通は難易度順ではないが、たまたま最後が最難関で、彼はたまたま後ろから読んでいた。

幾何の問題だった。少しでも経験があれば、地区予選のこの種の幾何は、最強チームの早すぎる全完を防ぐための難問だと分かったはずだ。ところが彼は自信満々で「いける、難しくない」と実装を始めた。序盤に60行ほどを書き終え、最後までデバッグできなかった。当然だ。公式解法は場合分けだけで200行以上。60行で通そうというのは無理がある。

序盤のPC時間を大量に使った。中盤で幾何を諦め、七問目へ。普通の為替換算と最短路だったと記憶している。罠は浮動小数点だと誤差で落ち、64ビット整数で分数を管理する必要があること。彼は浮動小数点を使い、また失敗した。

一時間後、問題読み担当が分数で書き直したが、やはり通らない。結局どちらも解けなかった。後で見ると、配列一つの初期化漏れだった。最初に0を入れれば通った。

僕が一度も読まなかった八問目は簡単な最大流だった。見ていれば解けた。でも現場では読む機会すらなく、PC時間は残り二問のデバッグに消えた。

最終成績は六問。CMUは全完し、ウォータールーとトロントも3時間前後で八問まで進んだが、全完には届かなかった。

反省会で、おまけ担当は自分が実質何もしていないことに気づいた。二問書いて両方失敗、得点への貢献ゼロ、PC時間だけ大量消費。

ルームメイトは二軍で、さらにひどい経験をした。アメリカ人のチームメイトの名前を中国語音写すると、あまり賢そうに聞こえなかった。大会前は気にしていなかったが、試合後ルームメイトが激怒し、それ以来「まさに名は体を表す人」と呼ぶようになった。

どうせ参加賞状態のチームだと分かっていたので、ルームメイトも本気ではなく、多くの時間をその人になんとかコードを書かせることに使った。アルゴリズムは何を説明しても伝わらず、コードは何を書いても動かない。見ているだけでつらかったらしい。

僕たちは全体8位。上にはCMU四チーム、ウォータールー二チーム、トロント一チーム。この並びを見ると、進出しても少し気まずかったかもしれない。

一か月待った末、進出できないと分かった。実は通常枠は二つで、三つ目がすでにワイルドカードだった。強い地区なので毎年そこまでは来るが、四つ目はない。

災いの中に福もある。進出しなくてよかったのかもしれない。行っても完全に参加するだけになっていただろう。おまけ担当はそのシーズンを最後に出場資格がなくなった。僕、問題読み担当、そしてルームメイト改め数学担当の三人は、ちゃんと練習し、世界大会を単なる旅行にしないと決めた。

まずい。旅行したかっただけなのに、どうして急に夢まで持ってしまったのか。

当時の僕は、世界大会との縁がこの先どれほど続くか知る由もなかった。

シーズン後半の2013年初め、三人と大学の仲間で多くの練習をした。CMUと僕たちの学生コーチは友人で、ともにUSACO委員だったため、CMUの合宿にもよく参加し、アメリカIOI代表に混じってボコボコにされた。三人で公式戦にはまだ出ていなかったが、非公式戦はかなり経験した。ただ、非公式だと役割分担が適当で、書きたい人が書く。当時はまだ問題読み担当と数学担当の区別もなかった。

十年以上前のメールを掘り返し、副コーチが送った太古の写真を一枚見つけた。

2013年

2013年。また点数調整を考える時期が来た。半年以上、真面目ではあるが死ぬほどではない練習を続け、基礎力は前年よりはるかに上がっていた。

今年は伏兵がいるのか。分からない。実際にはいなかったし、大学の状況を考えればいないはずだった。三人とも中国の省大会一等賞レベル。大学からプログラミングを始めた学生に負ける理由はない。

校内選抜は無事に上位三人。実装が非常に速い新人がいて、七問中三問を二人より速く書いた。ただ、速いだけで最終的には四問。僕たちは全員五問以上だった。

地区予選で僕たちの目標は進出、コーチの目標はウォータールー撃破。ミシガン大学は世界大会でウォータールーを上回り銀メダルを取ったことがあるのに、地区予選では一度も勝っていなかった。強豪だからこそ、コーチはずっと目標にしていた。

実装の分担は相変わらずほぼランダム。問題読み担当も二問以上を書き、ひどいバグを自力で見つけてシミュレーション問題を通した。数学担当は最後のIという簡単な問題で、途中の値が18桁を超えて多倍長整数が必要か悩み続けた。同じ大学の別チームが通したのを見て、不要だと確信した。彼らの実力は知っている。多倍長整数など絶対に書けない。そこで交代し、一瞬で通した。

幾何のGは見た瞬間に捨てた。何だこれ、人間が解く問題か? 結果的に大正解で、リファレンス実装は300行近い。後にCodeforcesへ公開され世界中の強豪が挑戦したが、十年たっても五時間以内に通した人はいない。

最大の波乱は最大流のE。モデル化だけでも難しく、問題読み担当と僕が解法を思いついたときはかなり興奮した。実装して提出、TLE。最初の線形探索を二分探索に変えて提出、またTLE。

しかもかなり遅そうで、提出から結果まで毎回五分かかった。

もう手がなかった。線形探索なら毎回グラフを作り直さず、元のグラフで増加路を一本ずつ探せるとは理論上知っていた。でも書けない。たぶんそれが正解だった。

残り12分、適当な最適化と定数倍改善を入れ、ひたすら提出した。判定が遅く、全部キューに詰まった。

終了約五分前、七分前に出した提出が通った。その後にも何本出したか分からない。AC表示を見た瞬間、三人で叫び、会場中に聞こえたと思う。誰かが拍手し、さらに人が加わり、会場の選手たちから大きな拍手をもらった。

とても温かい会場だった。スコアボード凍結後のACは表示されないので、みんな何が起きたかすら知らなかったのに。

僕たちは7問、首位と同じ題数の2位で進出。そしてウォータールーを倒しただけでなく4位へ押し出し、世界大会進出まで阻止した。後で分かったが、最後の問題が通らなくても進出でき、学校順位も2位のままだった。学校順位とは各校の最高成績チームだけを比べた順位だ。実はかなり安泰だった。

その年の練習も前年とほぼ同じ。時間が合えばチーム練習、合わなければ各自練習。問題読み担当と僕は大学院のアルゴリズムを履修した。大半の学生には大学院で最難関級の授業で、後に僕が博士課程で五年間TAをして、その難しさをさらに理解した。

ところが当時の二人はこれを楽な授業として取った。教室の後ろで世界大会の問題を話し、授業はほぼ聞かず、二人ともA+だった。

このシーズンは北米招待大会NAIPCにも出た。前年のシカゴ大学招待大会が改称したもので、北米の世界大会進出チームを招く非公式戦。当時は進出と無関係だったが、北米制度の再編後、徐々にNACへ発展し、正式な選抜体系に入った。

当時のNAIPCは豪華だった。会場はホグワーツのような大図書館の閲覧室。現地開催の体験もよく、賞金も世界大会級を目指し、優勝1万2000ドル、2位6000ドル、銀賞3000ドルだった。

僕たちは4位で銀賞、3000ドルを獲得。競技人生で最初で最後の賞金だった。いい時期に当たった。その後賞金は急落し、数年後には金賞が250ドルのAmazonギフトカードになった。初年度に今後十年分の予算を使ったのか。

全21チームで、僕たちの地区の進出三校は3、4、6位。北米では本当に強い地区だった。

大会内容はほとんど覚えていない。3時間ほどで最後の一問を通した後、何も分からず残り二時間を過ごした記憶だけだ。

世界大会前、僕は卒業のため上海交通大学へ戻り、二人はアメリカに残った。それで終わり。まともな練習はしなかった。

2014年

新シーズン。前年の世界大会の反省から、今度こそしっかり練習する。さすがに緩すぎた。

いや、どうして年々本気になっているのか。

人間の欲には限りがない。一度手に入れると、もっと欲しくなる。最初は世界大会へ旅行したかっただけなのに、今度はメダルを狙い始めた。

選抜には新事情があった。僕は大学を卒業し博士課程へ。同学年の上海交通大学出身者も大勢ミシガン大学の大学院へ来て、強い選手も多かった。さらに数学担当が、国立台湾大学から来た大学院生が世界大会金メダル経験者でCodeforces赤、つまりトップ級だと調べた。僕たちは「赤レートの化け物」と呼んだ。

彼が出たら、三人のうち一人は確実に落ちる。

幸い説明会で会い、もう出場資格がないと分かった。ほっとした。

上海交通大学から来た他の強者も出ず、三人でまた上位を独占して組めた。

地区予選は波乱だらけだったが、結果に疑いはなかった。前年に大きな「ウォータールー」を喫し、長年の世界大会連続出場記録を僕たちに止められたらしいウォータールー大学は、雪辱を誓って戻り、8問で優勝。次の二校が7問、その次は5問。上位三校が断然強かった。

問題は不気味な難しさだった。前年世界大会の超難問路線を真似たのか、開始20分間は誰も通さず静まり返った。地区予選どころか世界大会でも異常だ。ウォータールーの初ACが42分、2位と僕たちは一時間後。中難度から始まり、簡単な問題がない。22位以下は一問、42位以下はゼロ。普通の参加者には最悪の体験だったと思う。

当時印象に残った問題はない。後で見直すと最後の幾何Iが非常に良く、計算幾何で前処理し、最大流で解く本物の世界大会級だった。もちろん現場では即捨てた。ウォータールーは凍結後に通し、優勝にふさわしかった。

僕たちは3位で少し不安になった。保証枠は二つで、3位はワイルドカード頼み。でもこの結果なら、さすがに僕たちの地区へ来るだろう。

無事にワイルドカードを得て進出した。

NAIPCにも出て6位、銀賞。ただし賞品は前年と比べものにならず、一人150ドルのAmazonギフトカード。この大会、一年で破産したのか。

この年は大量に練習した。世界大会でいい成績を取りたい。

2016年

前年は関わらなかった。学生コーチがまだいて、僕の出番がなかったからだ。ところが博士5年目の彼は、学位をやめて起業すると決めた。

僕は本当に驚いた。中国人的な感覚では理解しにくい。5年目で卒業間近なのに、なぜやめるのか。つらくても少し耐えれば卒業できるし、埋没費用が大きすぎる。

でもアメリカ人はもっと自由だ。やりたいから起業した。

大学には空白が残った。教授のコーチと副コーチは普段、学生の練習をほぼ管理せず、学生コーチが担当していた。彼が去り、僕が入った。まさに緊急登板だった。

まず選手探しから苦労した。前年は僕たち三人が引退し、地区予選は悲惨。二軍が最高で12位、次が三軍、四軍、一軍は30位以下。順位どおりに組む校内選抜でも、大事故は起こるらしい。

人材がいないので自分で探した。夏に入門アルゴリズム授業のTAをしていたので、成績上位者全員へ参加を勧めた。進出できるほど強くは見えなかったが、いないよりましだ。

学期開始後、練習会を作り、上位者へ順に連絡し、上海交通大学の後輩から競技経験者も発掘した。必死に説得して参加させた。

最終的に中国の省大会一等賞経験者を三人見つけた。進出を狙えるはずだった。

現実は容赦ない。実装力不足で本戦進出を逃した以前に、校内選抜で三人一緒にすらなれなかった。

練習では常に上位三人で安心していたが、本番で大事件が起きた。

本当の兄弟である二人のアメリカ人を、兄と弟と呼ぶ。二人が1位と3位へ入った。2012年の伏兵と違い練習にはずっと来ていたが、ここまで上位は初めて。本番で覚醒したらしい。

僕の三人は2、4、5位。どう組むのか。本人たちは三人でいたい。特に一人は英会話が非常に苦手で、外国人と組めば双方つらい。

教授コーチは上位三人を主張し、僕は本人の希望も聞こうと主張。何度も揉め、最後は兄弟が同意すればよいとなった。

兄弟は同意した。本人たちもこだわりはなかったのだろう。上位に来ただけで予想外で、世界大会進出など考えていなかったはずだ。

1、3、6位が一軍、2、4、5位が二軍となった。

ここで6位の重要人物が登場する。僕は彼を「香港記者」と呼ぶ。中国人で香港の大学に通い、一学期だけ交換留学に来ていた。本物の記者ではなく、競技界の噂なら何でも知っている情報通だからだ。どこへ行っても西側の記者より先に着く、という昔の有名な冗談そのものだった。

選抜後、練習法と必須アルゴリズムを聞かれた。大学でプログラミングを始め、競プロはその学期からで基礎は薄い。でも速成法はあった。長年この地区へ出て、問題傾向は分かっている。ほぼ毎年最大流が出て、年々簡単になっていた。校内選抜にも最大流を二問入れ、解ける人を探していた。

他は無視して最大流だけ勉強しろ、と言った。

これが大当たりだった。兄弟は最大流を全く知らない。香港記者が本番でその問題を解いたから題数が足り、最後10分の逆転で2位進出できた。なければ10位以下だっただろう。

ただ当時、僕は二軍へより多く時間を使った。個人的に呼びやすく、呼べば来る。一軍は公式練習くらいしか来なかった。

三人の実装力には驚かされた。TAのオフィスアワーに誰も来ず、基礎練習へ呼んだ。単純な単一始点最短路。それを省大会一等賞三人が90分たっても書けない。僕は心が折れた。自分も初年度はこの程度だったのか?

練習でも簡単な問題を通せず、本番でも実装力不足で落とし、一軍に完敗した。

一方、兄の実装力は非常に高く速い。香港記者によると、速いだけでなく構造も厳密で、OOPを守り、ばらばらの関数やグローバル変数でなくクラスを作る。コード量が増えて速度を落とすため競技では珍しいが、バグ時には圧倒的に探しやすい。

一軍は無事進出し、僕は大喜び。また世界大会旅行だ。開催地がアメリカだと知り、今度はがっかりした。

香港記者は次学期に帰国し、チーム練習はほぼなし。オンライン練習もしたらしいが、効果はお察しだ。上海交通大学時代の僕たちも「練習した」とは言っていた。

他は残っていた。アルゴリズムの基礎が弱い、というよりほぼないので、補講を始めた。

完全なボランティアで、主な目的は兄弟に基本アルゴリズムを叩き込むこと。世界大会へ行くのに、定番を何も知らないのはまずい。

ここで別のアメリカ人が目に入った。彼には「アメリカ2号」という呼び名をつけることにする。校内7位で三軍の先頭だったが、当然、結果には満足していなかった。

兄弟の出席率は6割ほどだが、アメリカ2号は毎回来た。時間がなく内容が多いので授業は非常に速く、三、四週後にはほぼ誰も来なくなった。一度、彼だけを相手に一コマ全部講義した。

一学期で、自分の知識を全部渡した気がする。どれだけ身についたかは分からない。

2017年

また新しいシーズン。

前年同様、人を集めて回った。ただ、アメリカ2号が多くのアルゴリズムを学び、兄の実装速度もさらに上がったらしいので、今年は少し自信があった。

説明会で北京大学卒の大学院生二人に会った。前年の三人と違い、二人とも北京大学ICPCチーム経験者。一軍ではなくても二、三、四軍にはいた。競技経験だけでなく正統なICPC経験があり、実装速度も保証されるはず。僕は興奮した。上海交通大学四軍にも入れなさそうな僕から見れば、北京大学二軍なら地区予選くらい余裕で、面倒を見る必要もない。

実際、何もしなかった。

ところが校内選抜で二人とも崩れた。大会自体は非常によく作れたと思う。全問題に二人以上の正解者がいて、全12問を解いた人はいない。優勝9問。理想的な結果だった。

唯一の後悔は数学問題。導出が巧妙なので入れたが、実際は結論を知っていれば瞬殺、知らなければ手がかりゼロで、現場で導いた人はいなかった。これはよくなかった。

問題数と差が十分で、最後まで大逆転が続いた。元数学担当をオンライン観戦に誘い、最後30分を見た。残り15分、アメリカ2号が堅いアルゴリズム力で9問の首位。残り4分、兄が例の数学問題を思いつき8問で2位。それまでは「あの数学問題のせいで兄が一軍を逃したら残念」と話していたが、自力で逆転した。

上位三人は兄、アメリカ2号、そして初めて見るアメリカ3号。北京大学の二人は4、5位。主にペナルティが高く、僕の数学問題にもやられたらしい。アメリカ人は知っていたが、二人は知らなかった。あの問題がなければ二人とも一軍だったかもしれない。

この編成には満足した。一軍は兄とアメリカ2号がいれば地区予選の実力は十分で、新人の実力は大して重要でない。二軍も北京大学の二人がいれば、冗談抜きで三人目が誰でもよさそうだった。上位五人は断然強く、5位が8問、6位は5問だった。

本戦で一軍は期待に応えた。兄が強すぎた。問題は他の人が読んだが、コードは全部彼。一人で1時間14分に六問を書いて通し首位へ。その後失速しても二問追加し、地区の学校順位2位で世界大会進出。

二軍も同じ題数でペナルティが高いだけ。一軍がいなければ学校順位3位で、おそらく進出できた。

今年はそれで終わり。北京大学の二人は来年も出ると言い、次はもう安泰だと思った。

世界大会が中国開催だと知ってまた無言になった。無料の海外旅行を全くさせてくれない。大学のお金で帰国すると思うことにした。

2018年

また新シーズン。

北京大学の二人は続けて参加した。そもそもまだ出られるのか、真剣に議論した。一般には大学入学から五年以上だと出られないと思われていたが、当時ルールを読み直した僕たちは、入学年条件と生年月日条件は「または」で、どちらかを満たせば資格を得られると理解した。

アルゴリズム授業のTAを利用し、上海交通大学出身の博士課程の後輩も見つけた。競技経験はあるがICPC経験はない。問題ない。実装は北京大学の二人に任せ、彼は分析専任でいい。かなり説得して、また中国人三人のチームができた。開催地は早くからポルトガルと決まっていたので、四人のチャット名は「ポルトガル旅行団」。世界大会の結果はどうでもよく、地区予選を抜ければ旅行できる。

ところが校内選抜で大事故。北京大学の一人目、上海交通大学の一人、北京大学の二人目が8、5、4問で1、3、5位。5位を一軍へ入れるのは難しい。2位はアメリカ3号で6問。要するに1位だけ断然強く、残りはみんな補助役だった。

5位の彼は自業自得だった。開始一時間ほどから最難関に挑み、最後まで通せず、データが間違っているとまで疑った。後で解法を教えると自分の方法が違うと分かった。どうしてそんな試合運びをするのか。

北京大学の二人目はその場で諦め、一人目、上海交通大学の一人、アメリカ3号が一軍に。ポルトガル旅行団は正式に解散した。

この一軍も少し頑張れば世界大会へ行けたはずだが、地区予選でまた簡単な問題を実装できなかった。学校順位3位にはなったが、1位9問、2位8問、彼ら5問で、ワイルドカードは出なかった。

本当に自分たちとの戦いだった。どう転んでも3位なのだから、少しまともにできればワイルドカードを取れたかもしれない。

ポルトガル旅行団は完全に解散した。

僕のコーチ人生もここで終了。同じ地区予選会場へ六回通い、選手として二度進出、コーチとしてさらに二度進出させた。十分に輝いた時期だったと思う。

このときの僕はまだ知らない。僕と世界大会の関係に、まったく新しい章が始まろうとしていた。

ICPC世界大会 2014

初めての世界大会は2問で終了。悔しさを抱えたまま、翌年の再挑戦を決めた。

初めてのICPC世界大会だったので、ものすごく楽しみにしていた。当時はまだ大会名もACM-ICPC World Finalsだった。

世界大会までの予選については、ここでは省略する。毎年ミシガン州グランドラピッズで戦っていたので、詳しくは地区予選総集編を参照してほしい。

それにしても、ロシアのビザは本当に大変だった。今まで行った国の中でも、取得が難しい部類に入る。申請には大会側が発行した招待状の原本が必要だった。そもそも大会側に正式な招待状を発行する資格が必要だし、そのうえ原本を国際郵便で送ってもらわなければならない。届いた招待状はいかにも正式なもので、茶色がかった黄色い特殊な紙に、読めない文字、通し番号、僕の名前、署名、印章が並んでいた。それがロシアからアメリカまで海を越えて届く。途中でなくなったらどうするのかと言われても、たぶん諦めるしかない。結局、旅行会社にビザ申請と航空券の手配をまとめて頼んだ。記憶では、ビザだけで一人300ドル以上かかった。大学が負担してくれたのは本当に助かった。

大会前、僕は中国、二人のチームメイトはアメリカにいて、チーム練習はほとんどできなかった。ビデオ通話をつないでオンライン練習を2回ほど試したが、正直ほとんど練習にならなかった。僕が中国へ戻る前も、それぞれ学業が忙しく、三人で練習できたのは数回だけ。あとは各自でやるしかなかった。要するに、ほぼぶっつけ本番だった。

この世界大会への旅は、欠席届を出すところから始まった。大学で正式に休みを取る日が来るとは思っていなかったし、それがこんなに面倒だとも思わなかった。

僕は上海交通大学ミシガン学院の2+2プログラムに所属していた。最初の2年を上海交通大学、その後の2年をミシガン大学で過ごし、最後の学期に上海へ戻って卒業プロジェクトに参加すると、両方の大学の学位を取得できる。上海へ戻らなければ、ミシガン大学の学位だけになる。実際、将来アメリカで働くつもりの学生の多くは、上海へ戻らず、その学期をアメリカでのインターンに使っていた。就職にはそのほうが明らかに役に立つ。そのため、この課程で両方の学位を取る割合はかなり低かった。僕の記憶では――あまり正確ではないかもしれないが――8割未満で、上海交通大学の中でもかなり低いほうだったと思う。

当時の僕は、ちょうど上海交通大学へ戻って最後の卒業プロジェクトに取り組んでいた。必要な単位はすでにそろっていて、その学期は卒業プロジェクトしかなかった。上海へ戻ったのは、将来どこで働くか決めきれていなかったので、とりあえず両方の学位を取っておこうと思ったからだ。とはいえ、実際にはアメリカで働く可能性がかなり高かった。そのため僕自身は妙に気楽で、仮に上海交通大学を卒業できなくても、それほど困らないと思っていた。中国へ戻って友達とひと夏遊んだことにすればいい、くらいの気持ちだった。

背景はここまで。大会の日が近づいてきた。大学生なら授業を休むことくらい珍しくない。これは中国だけの話ではなく、ミシガン大学でも出席を取る教授は少なかった。だからこそ、黙って休むのは普通なのに、正式に欠席を申請すると、とんでもないことをしたような扱いになるのが不思議だった。

もともと欠席届を出すつもりはなかった。その週の授業は2回だけなので、そのまま休めばいいと思っていた。ところが運悪く、卒業プロジェクトの2回目の発表が同じ週にあり、最終成績の5%を占めていた。その5%を失うこと自体は気にしていなかった。単位を落とすことはないと思っていたからだ。ところが、指導教員の取りまとめ役に相談すると、「発表を一度でも欠席したら卒業プロジェクトは不合格だ」と言われた。

さすがに驚いた。5%の発表を休んだだけで、なぜ科目全体が不合格になるのか。シラバスや採点基準など、見つかる資料を全部確認したが、そんな規則はどこにも書かれていなかった。最終発表ならまだ分かるが、これは2回目で、このあとさらに2回ある。なぜそんな判断になるのか、まったく理解できなかった。当時の狭い見方では、僕の申し出が先生の面子をつぶしたと受け取られたのではないか、としか思えなかった。

困り果てて、これは世界大会という重要な大会なので、大学から正式な欠席許可を取れば認めてもらえるかと聞いた。先生は、正式な許可があれば考えると言った。仕方なく、欠席手続きを始めることになった。

まず学生担当の先生に相談した。最終的に何人の署名が必要だったかはもう覚えていない。たしか3人くらいだったと思うが、最初に学生担当の承認が必要だった。大会に出るため休みたいと説明すると、指導教員よりは穏やかだったものの、考え方は似ていた。「なぜ休むのか」「卒業プロジェクトは大事ではないのか」「どうしても行かなければならないのか」と聞かれた。僕の答えは一貫していて、どうしても行く、だった。上に書いた通り、アメリカで働くなら上海交通大学の学位は自分にとってそれほど重要ではなく、なくても構わないと内心では思っていた。もちろん口には出さなかったが、そのせいで態度だけは非常にはっきりしていた。絶対に行く、と。

その強い態度に押されたのかもしれないし、上海交通大学での最初の2年間、学院内GPA2位で学業優秀賞を取っていたため、「真面目な学生」という印象が定着していたからかもしれない。最終的に先生は欠席を認め、「しっかり戦って、大学の名誉のために頑張ってこい」と言った。

ただし、僕が代表していたのはミシガン大学だった。上海交通大学の競技プログラミングチームはもともと非常に強く、僕の助けなど必要ない。そもそも僕が入れるとも思えない。もちろん、その場では何も言わなかった。僕が上海交通大学代表ではないと知ったら、先生はどう思っただろう。

こうして正式な欠席許可と偉い人たちの署名を手に入れ、もう一度指導教員と話した。最終的には、5%を減点するだけで、科目を不合格にはしないことになった。

本当に大変だった。内向的な僕にとって、この一件だけで一年分の社交エネルギーを使い切った気分だった。

これで心配事はなくなった。いよいよ大会へ出発だ。

僕は上海から一人で飛び、チームメイトとコーチはアメリカから向かった。先ほど書いた通り、上海へ戻って卒業する代わりに、アメリカでインターンをする学生も多い。チームメイトの一人もそうだった。彼の夏季インターンは、アメリカのテック企業では標準的な12週間。全部で12週間しかないのに、そのうち丸々1週間を休まなければならなかった。彼にとっても簡単ではなかったはずだ。話を聞く限り、彼も「どうしても休ませてほしい」と押し切ったらしい。リターンオファーを逃すかもしれないリスクを負いながら、何とか1週間の休みを取った。

飛行機はモスクワ乗り継ぎだった。ロシアの別の都市へ行くなら、だいたいモスクワを経由するものらしい。乗り継ぎ自体は順調だったが、入国審査で係官に行き先を聞かれた。僕が「Yekaterinburg」と答えると、相手は「Екатеринбург?」。僕はもう一度「Yekaterinburg」。相手もまた「Екатеринбург?」。しばらくこの繰り返しだった。

誇張ではなく、本当にこんなやり取りだった。僕は英語で話し、相手もほとんど英語だったが、都市名だけはロシア語の発音だった。エカテリンブルクは英語とロシア語で発音、特にアクセントの位置がかなり違う。僕には相手が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。

最後には、向こうも僕の行き先を理解したらしく、無事に通してくれた。

エカテリンブルクに到着し、ホテルでチームメイトと合流した。そして三人そろって気づいた。誰も変換プラグを持っていない。

三人とも海外が初めてだったわけではない。もちろんアメリカには行っている。ただ、アメリカでは長く暮らすので、必要なら現地で変換プラグを買う。一方、今回のように本当に変換プラグが必要な国へ短期旅行するのは、三人ともたぶん初めてだった。だから誰一人、持ってくることを思いつかなかった。

代表を一人決め、フロントに借りられないか聞きに行くことになった。その代表が僕だった。当時は英語もあまり得意ではなく、socketpowerchargerなどと順番に言ってみた。するとフロントの人が笑って、「欲しいのはadapterじゃない?」と言った。正直、adapterという単語を知らなかったが、響きからしてたぶんそれだと思った。

こうして変換プラグを一つ借りた。その後の一週間、三人は毎日一つの部屋に集まり、順番に端末を充電した。

大会までの数日間に何をしていたかは、もうほとんど覚えていない。コーチが街の観光地へいくつか連れて行ってくれた気はするが、どこだったかは完全に忘れた。チームにはロシア語を話せる人がいなかった。副コーチは、記憶が正しければ元々ロシア出身だったようだが、何らかの事情でアメリカへ移ったらしい。本人によると、もう一度ロシアへ入ると、今度は出国が難しくなるかもしれないとのことだった。かなり遠回しな言い方で、これはあくまで僕がそう理解したという話だ。彼が一緒なら、もう少し街を見て回れたかもしれない。

そして、ついに大会当日を迎えた。この年の問題セットは、とんでもなく難しかった。ジャッジ、つまり問題を選び準備する人たちが、touristのチームに全完されて時間前に終えられることを恐れ、意図的に難しくしたという噂まで流れた。touristはゲンナジー・コロトケヴィッチのハンドルネームで、当時、世界最強の競技プログラマーとして広く知られていた。前年、彼のチームは全完まであと一歩だった。公式の大会後解説によると、最難関問題には本番直前に3つの極端なテストケースが追加されており、それがなければ前年に全問を解いていたという。

噂の真偽も、なぜここまで難しくなったのかも分からないが、とにかく2014年の問題セットは大事故だった。ずっと後に僕自身が世界大会のジャッジとなり、問題選定の仕組みを知ってからは、なおさらこの年に何が起きたのか分からなくなった。当時の関係者にも何人も聞いたが、返ってきたのは「その年、何か特別なことあったっけ? 覚えていない」という答えばかりだった。つまり、あの噂はたぶん作り話だ。ジャッジたちにとっては特別でも何でもない普通の世界大会で、単に難易度調整が大きく外れただけなのだろう。

話を大会に戻そう。

Kのファーストソルブは17分だった。15分の時点で、僕たちはすでに何かがおかしいと感じていた。例年なら10分前後で最初の正解が出るはずなのに、この年は15分たってもスコアボードが静かなままだった。Kが解かれたあとも状況は良くならず、むしろ異常さがはっきりした。普通なら、最初に解かれた問題には全チームが集まり、1時間もすれば何十チームも通す。ところが今回は、ほとんど誰も続かなかった。僕たちもKを読んだが、まったく解けず、黙り込んだ。データ構造の問題だとは思ったものの、どう使えばいいのか見えない。適当な最適化を書いて8回不正解を出し、最後まで通せなかった。必要だったのは区間最小値クエリ、RMQだった。当時の僕たちは、こんな基礎的な手法さえ名前を聞いたことがある程度で、誰もきちんと使えなかった。当然、発想にも出てこなかった。

膠着状態が続き、28分にようやくDを解くチームが現れた。僕たちも読み直し、これはいけるかもしれないと思った。最初に読んだときは、簡単な問題には見えず、本当に解けるか確信がなかった。ただ、誰かが通したなら、少なくとも解ける問題ではある。チームメイトの一人がDに取り組み、それから約1時間後、僕たちもACを出した。これがこの大会での最初の正解だった。

35分にはCのファーストソルブが出た。計算幾何の問題で、一見すると解けそうだが、場合分けが多く、通すのが難しいタイプだった。僕たち三人は全員、計算幾何が苦手で、幾何が出るとだいたい僕が勢いで書く担当だった。予想通り、Cは場合分けだらけで、終了までに6回提出したが通らなかった。本番中は正解にかなり近いと思っていた。ところが大会後、自分たちのコードと公式データで試すと、正解からはほど遠かった。計算途中は実数なのに、出力は整数。整数に限りなく近い値が出たとき、状況によって切り上げ、切り捨て、丸めを厳密に使い分ける必要がある。計算幾何初心者の三人に理解できる話ではなく、この問題を通せる可能性はなかった。

68分、Iを解くチームが出た。僕たちも読んだが、やはり解けない。ただ今回は少し違った。ファーストソルブのチームを見て、「え、あのチームがIを通した? なら何か無理やり通す方法があるはず」と思った。とはいえ、うまいヒューリスティックは思いつかない。結局、最も乱暴な方法、全探索+時間調整を使った。プログラムは総当たりで探索し、制限時間ぎりぎりになる前に止め、その時点で見つかっている最善解をそのまま出力する。結果として、この方針は正しかった。念のため、固定された入力順を狙い撃ちされないよう、処理前にデータをランダムに並べ替えた。最初の4回は、停止する時間の設定が悪く、早く切り上げすぎるなどして不正解。パラメータを調整した5回目で、ようやくACした。Iを最初に解いたチームは、結局この1問だけで大会を終えた。世界大会史でもかなり珍しい1問だけの成績だと思う。

ほかの正解が出た問題は、僕たちにはほとんど関係なかった。読むたびに、分からない、となって静かに次へ移った。

Bは、多重ナップサックの最適化が必要なナップサックDPだというところまでは分かった。しかし、その最適化を誰も覚えていなかった。実際には、既存の最適化の考え方から、さらに新しい式を導く必要があった。現地でそこまでたどり着く力は、明らかに僕たちにはなかった。

一番悔しかったのはEだ。読んでもまったく方針が見えなかった。実際には、問題全体のロジックがDFA最小化とほぼ同じだった。僕とチームメイトの一人は、そのわずか1年半前に授業で一緒に習っていたのに、二人とも思い出せなかった。本来なら絶好の問題だったのに、本番では結びつかなかった。

Aにも挑戦した。公式参加チームだけでなく、非公式チームを含めても、大会中に解いたチームはゼロだった。僕たちが手を出したのは、ほかにできることがほとんどなかったからでもある。アルゴリズムというより構築とひらめきの問題で、チームメイトは大会中盤から3時間考え続け、2回提出したが通らなかった。大会後、コーチに「あの提出、本気だったの?」と聞かれた。もちろん本気だった。実はAには解法があったのだが、スコアボードに正解が一つもないのを見て、全チームが尻込みしていた。後でジャッジに聞いた人によると、ジャッジ側はAを全問題中もっとも簡単だと考え、ファーストソルブが出たあと大量に解かれると予想していたらしい。これほど大きな認識のずれも珍しい。n mod 4の余りごとに4通りあり、どのケースでも最適解はnになる。チームメイトは3ケースまでnを導けていて、最後の1ケースだけn+1までしか縮められなかった。世界大会でのファーストソルブ、ひょっとすると唯一の正解を取る機会を、あと少しで逃した。本当に惜しかった。

結局、僕たちは2問で大会を終えた。

大会後は、誰もが何とも言えない空気だった。世界大会でここまで難しい問題セットは前例がないように感じられ、touristの全完を防ぐためだったという噂もすぐ広まった。場外のtouristチームは7問を解き、ペナルティも少なく、成績だけなら1位だった。もちろん非公式チームなので順位には入らない。しかも8問以上まであと少しだった。Aには一人が1時間取り組んでも解けず、少なくとも単純な問題でなかったことは分かる。Jは非常に巧妙で、方向性は見えるのに導出が苦しく、実装量も膨大だった。Petrは後のブログで、コードを書き終えたところで辞書順最小という条件を忘れていたことに気づき、そこで断念した、という趣旨の出来事を紹介している。

そして順位確定のリゾルブでは、劇的な大逆転が起きた。スコアボード凍結前、モスクワ大学は6問で大きくリードし、2位は4問だった。この難易度を考えれば、優勝はほぼ決まりに見えた。ところがサンクトペテルブルク大学が最後の1時間で3問を通し、同じ7問、ペナルティ39分差で逆転優勝した。最後の問題は8回の不正解のあと、大会終了2分前にAC。これ以上ないほどぎりぎりの逆転だった。

そんな話はさておき、僕たち三人はひどく落ち込んでいた。そして全員で、来年もう一度挑戦しようと決めた。

ICPC世界大会 2015

2度目の世界大会。簡単な問題はすべて解いたものの、少し悔いが残った。

前年の成績があまりにもひどかったので、この年は本気で準備することにした。

チーム内の三人の役割は、すでにはっきり分かれていた。僕は実装系の問題と、いろいろ変わったアルゴリズムの担当。この一年で、半平面交差やACオートマトンなど、それまで名前すら聞いたことのなかったアルゴリズムを大量に覚えた。名前からしていかにも難しそうだが、実際よく使う。僕の練習方法は、過去の地区予選の問題をひたすら解くことだった。これなら、よく使うアルゴリズムをだいたい一通りカバーできる。

数学担当は、数学、動的計画法、貪欲法などを担当した。とにかく数学が少しでも絡めば彼の仕事だ。彼はCodeforcesとTopcoderのコンテストに出て練習していた。この二つの問題はICPCとはかなりスタイルが違う。どの問題にも多少は数学が絡み、コンテスト時間の都合で実装量もあまり大きくできない。その分、数学寄りのアルゴリズムを学ぶにはちょうどよかった。

問題読み担当は、まったくコードを書かず、変わった知識を広く集める担当だった。僕たちからの要求は、「実装できなくてもいい。でも何でも知っていてくれ」。彼はオンラインジャッジを開き、順番に問題を読んでいった。分からなければ解説を読み、見慣れない技法に出会ったら覚える。僕たちにも必要そうなら共有する。そういう練習だった。

個人練習だけでなく、チーム練習も前年とは比べものにならないほど増やした。大会に集中するため、最後の学期は三人とも履修を下限まで減らし、しかも楽な授業ばかり選んだ。僕と数学担当は修士1年、問題読み担当は学部4年だった。最初は週1回、学期末が近づくと週2回、休みに入ってからは毎日1回。1回のコンテストだけで5時間かかり、そのあと解けるはずだった問題を全部復習して解き直すと、それだけで一日が終わる。それでも足りない日すらあった。

練習を重ねるうちに、僕たちの自信はどんどん膨らんでいった。Codeforcesで5時間のバーチャルコンテストをしていると、その年の世界大会に出るチームの多くが、同じセットを練習していることに気づいた。バーチャルなので開始時間は別々だ。清華大学、北京大学、上海交通大学、それにヨーロッパのチームとも何度も同じ問題で競った。たくさん参加すれば、強いチームにも調子の悪い日はある。つまり、僕たちは見かけた強豪のほぼすべてに、一度くらいは勝っていた。そこで出した結論は、「運と調子さえよければ、絶対に勝てない相手なんているのか?」。考えてみると、その年のtouristのチームくらいしか思い浮かばなかった。目標はメダルだった。

そして本番で分かったのは、「運と調子さえよければ」という条件が思った以上に厳しいことだった。実際の僕たちは、普段通りより少し悪い程度の出来だった。

もっと深刻な問題もあった。Codeforcesで練習したセットの大半はロシアの合宿コンテストだった。ロシアには非常に強いチームが多く、touristが所属するサンクトペテルブルクのITMO大学も、すでに何度も優勝していた。しかし、その合宿の問題は世界大会とかなりスタイルが違う。Codeforces本体に近く、数学の比重が高い一方で、実装量は少ない。簡単に言えば、その練習で鍛えられたのはほとんど数学担当だけで、僕の純粋な実装力はまるで伸びていなかった。残念ながら、それに気づいたのは大会後の反省会だった。

この年は選手三人、コーチ、そして前年ロシアへ行けなかった副コーチも一緒に飛行機でモロッコへ向かった。大会前の数日にあった観光イベントは、もうほとんど覚えていない。当時は頭の中が大会のことでいっぱいだったのだと思う。

覚えているのは、とにかく外が暑かったことだ。外へ出るだけでつらく、ずっと冷房の効いた部屋にいたかった。道で陽気な人に会うと、こちらが暑そうなのを見て、暑いな、と話しかけてくる。そのあと何かを延々と話していたが、僕にはまったく分からない。最後に遠くを指さして、「the great Sahara!」と言った。そこだけは聞き取れた。近くにサハラ砂漠があることを自慢していたのだろう。

特に印象に残っている出来事がある。ロシア出身の副コーチは、本当に怖いもの知らずだった。マラケシュ中心部の市場で、露店のタトゥー屋に出会った。なぜタトゥー屋が路上に店を出しているのかは聞かないでほしい。一目で怪しく、まともな商売には見えなかった。すると副コーチが突然、「腕に虎でも彫ろうかな」と言い出した。店の人に絵を描いてみろと言われ、彼が腕に描いたのは、デフォルメされた猫だった。

僕たち三人の考えは完全に一致していた。それ、本当に彫ったら腕は無事なのか……。結局、理由は分からないが、副コーチはタトゥーを入れなかった。最後には本人も、さすがに怪しいと気づいたのかもしれない。

市場では搾りたてのオレンジジュースも売っていた。その搾り機は、見るからに無駄が多い。まずオレンジを真ん中で切って二つの半球にし、片方を皮が下になるよう機械に置いて、手で押しつぶす。ジュースが出たら、その半分はもう終わり。目で見ても歩留まりが悪そうだった。ただし、ジュースは本当においしかった。無駄が多いぶん、皮はもちろん、果肉を包む薄皮までほとんど混ざらない。苦味がまったくなく、ひたすら甘かった。

それまで、こんな機械は見たことがなかった。ところが数年後、中国へ帰ったとき、空港で同じ方式をもう一度見かけた。今度は自動販売機そのものの完全自動版だ。お金を入れると、その場でオレンジを三つ切り、押しつぶしてジュースにする。ところが、その機械は精度が悪かったらしく、途中で止まり、僕のオレンジを一つ勝手に持っていった。出てきたジュースはコップの3分の2だけ。当然、文句を言う相手もいない。さらに数年後に中国へ戻ったときには、その機械はもう見かけなかった。材料費は高い、機械は壊れる、苦情は多いで、事業ごとなくなったのかもしれない。

話を戻そう。三人で、現地でもう一度模擬コンテストをするか相談したが、結局やめた。直前にそこまで苦労して練習しても、何の意味があるのか分からなかった。

そして本番当日。会場に着くと、風船が13色あった。つまり問題は13問。これも前例のない数だった。これだけあれば、一問くらいは信じられないほど簡単な、ほとんどボーナス問題があるはずだ。そして実際、その通りだった。

開始5分でAに正解が出た。読んでみると、やはりサービス問題だった。僕たちも追いかけ、11分でACした。

次の問題を探した。Bは幾何で、一目見て無理そうだったので即座に捨てた。FとMは実装問題で、それほど難しくはなさそうだが時間がかかる。Dは微積分が必要そうな数学問題に見えた。問題読み担当は、Cが簡単なネットワークフローだと見抜いた。僕も確認して問題なさそうだったので、すぐ実装を始めた。

28分、29分、30分に、F、C、Dの正解が続けて出た。やはりCは簡単なネットワークフローだと確信した。35分で書き終えて提出。WA。気まずい。コードを2回読み直したが、間違いは見つからず、そのまま詰まってしまった。

そこで、問題読み担当にCのデバッグを任せ、僕はFの実装を始め、数学担当はDの式を導き始めた。開始から1時間ほどで、Cに抜けているケースがあることを見つけてくれた。そのケースを追加してコードを直し、63分でACした。

Fは実装に30分以上かかり、さらにサンプルに合わせて20分ほどデバッグした。やはり実装力が足りなかった。93分で提出してWA。そのあとコードを印刷し、紙の上でデバッグを続けた。

数学担当はDを書き始めた。彼はそれまで幾何問題をほとんど実装したことがなかったので、円周率の定数は十分長く書くこと――僕は以前これで失敗していた――そして計算量を気にしなくていいところではdoubleではなく全部long doubleを使うこと、と伝えた。その間に僕はFのバグを見つけ、少しだけ端末を借りて修正し、102分でFを通した。

Dは112分、一発でACした。

これで4問。顔を上げてスコアボードを見ると、状況はすっかり変わっていた。39分、47分、53分にはL、J、Iの正解が出ており、115分と118分にはEとHも解かれた。この時点で、全体では9問に正解が出ていた。首位は、僕の記憶では東京大学で、すでに7問。2時間で7問も前例がなかった。以前聞いたカーネギーメロン大学のコーチの分析では、2時間で9問に正解が出る展開なら、メダルには10問、金メダルには12問が必要になる。

数学担当はLを読み始め、僕はIを実装した。Iは単純な区間マージの問題だった。複数の区間グループがあり、すべてのグループに覆われる部分の合計長を求める。最初に考えたのは線分木、それも端点が実数なので座標圧縮した線分木だった。ただ、すでに多くのチームが通しているのに、全員がそんなものを書いたのだろうか。どう考えても大げさだ。それでも世界大会ならあり得るか、と考え直した。結局、考えすぎだった。すべての空白部分を区間として扱えば、少なくとも一つの区間に覆われる長さを求める問題になる。それを全体の長さから引けばよく、ソート一回で終わる。

ところが僕たちは、会場で座標圧縮した線分木と格闘し始めた。正直、それ自体はそれほど複雑ではない。126分には最初のWAを出していた。ただ、この形では一度も書いたことがなく、境界条件や実数の等値判定など、間違えそうな場所はいくらでもあった。そこから長いデバッグが始まった。この大会で一番詰まり、最も時間を無駄にした問題だった。だいたい30分ごとに提出し、4回WA。269分でようやくACした。取りかかってから通すまで、3時間以上かかったと思う。

僕が紙の上でIをデバッグしている間、数学担当はLを書いた。それほど複雑な問題ではなく、173分で一発ACだった。

そして、この大会で最も不思議だったのがJだ。一見、数学問題だった。読み終えた数学担当が、「巨大な整数同士を高速に掛け算するアルゴリズム、何か知ってる?」と聞いた。僕たちは二人とも知らないと答えた。必要なのは高速フーリエ変換、FFTだった。練習ではFFTの問題に一度も出会わなかったので、誰も実装できない。数学担当は必要なアルゴリズムを正確に突き止め、足りないのはFFTだけだった。ではどうするか。表を埋め込んで提出しよう。

入力は整数一つだけなので、事前計算した表をコードに直接入れるにはぴったりだった。問い合わせは表を見て答えればいい。計算してみると、その表はどうにかソースに収まりそうだった。どの間隔で値を保存するかによって、ファイルサイズが変わる。100個ごとに一つ保存するなら、提出するプログラムは約100KB。ただし問い合わせがその間に来ると、実行時に最大100個分を計算する必要がある。50個ごとなら200KBになるが、計算は50個で済む。提出できるソースファイルの上限も知らなかったので、とにかく一度試すことにした。

こうして、巨大な表との長い戦いが始まった。本来なら、それほど面倒ではないはずだった。しかし大会用ノートPCの性能があまりにも低かった。100KBのファイルをチームメイトが保存しただけで固まり、危うくフリーズするところだった。カーソルが30秒も回り続けて、ようやく保存完了。毎回、今度こそ完全に止まるのではないかと怖かった。大量のデータを一度にコピー&ペーストすると、また固まりそうなので、操作にも細心の注意が必要だった。普段なら、少し書くたびに保存するのはよい習慣だ。しかし今回は完全に負担だった。まだ変更が終わっていないのに、チームメイトが癖で保存のショートカットを押す。その直後には毎回、思わず悪態が出て、「なんでまた押したんだ」と自分の手を責める声が続いた。

その後の2時間は、僕が座標圧縮線分木を少し直し、チームメイトが巨大な表を少し直す、その繰り返しだった。交代で端末を使い、交代で提出し、交代でWAを出した。

スコアボード凍結前には、メダル圏の最低ラインがすでに8問になっていた。僕たちは2問に詰まったまま、どうすればいいか分からない。目標はメダルなので、新しい問題も開かなければならない。僕と数学担当が忙しい間に、問題読み担当がEを調べ、簡単な貪欲法で解けそうだと言った。僕はすぐにその貪欲を書いたが、2回続けてWA。彼にもアルゴリズムが悪いのか、実装が悪いのか分からない。これで3問同時に詰まった。すると数学担当がちらっと見て、「この貪欲、絶対違うでしょ」と言い、30秒で反例を出した。Eは完全に分からなくなり、僕たちは再び2問だけに詰まった状態へ戻った。

表を埋め込んだJは、大会終了4分前の最後の提出で、どうにかACした。これで僕たちの大会は終わった。

一つだけ自慢できるのは、Jを表の埋め込みで解いたこと、そして会場でそれをやったのが僕たちだけだったことだ。公式の大会後解説にも、この問題は表を埋め込んで解くことができ、実際に会場で一チームがその方法を使った、とわざわざ書かれていた。その一チームが僕たちだった。

当時の僕は、もしかすると作問者も表を埋め込めるとは思っておらず、僕たちの提出を見て初めて気づき、その一節を解説に追加したのではないか、と考えた。それから10年後、自分がジャッジになり、当時の人たちと接し、問題準備に求められる基準も知った。今から考えると、ジャッジは最初からこの方法を分かっていて、それでも許可していた可能性が非常に高い。

最終成績は7問。ペナルティを無視すれば同率28位、ペナルティ込みではちょうど50位。7問を解いたチームの中では最下位だった。

大会後、僕たちはコーチに、「簡単な問題は全部解いたので、最低限の仕事はした」と話した。ただ、IとJにあまりにも長く詰まり、ほかの問題へ使う時間がまったく残らなかった。Iで考えすぎず、JでFFTを使えていれば、それぞれ少なくとも1時間は節約できた。その時間があれば、純粋な実装問題のMは解けたかもしれない。純粋な数学問題のHも、数学担当ならかなり可能性があったと思う。

でも現実に「もし」はない。少し悔いが残った、としか言えない。tourist率いるITMOチームは全問を解き、満点で優勝し、時間内に全完して早く退場するという偉業を達成した。世界大会でそれを成し遂げた史上初、そして今も唯一のチームだ。順位確定のリゾルブでは会場中が沸き上がった。誰もが伝説の瞬間を見たかったのだと思う。

一人の選手がICPC世界大会に出場できるのは、最大2回まで。これで僕のICPC選手としてのキャリアは正式に終わった。

ICPC世界大会 2017

初めてコーチとして参加した世界大会。

この年の世界大会の開催地には、かなりがっかりした。もう選手ではないので、世界大会へ行っても基本的には観光して、試合を見て、イベントを楽しむだけだ。だから当然、どうせなら旅行先として魅力のある場所で開いてほしい。前年のタイ・プーケットはよかった。今年はというと……この場所を前から知っていた人、全員手を挙げてみてほしい。実際にマウント・ラシュモアへ行ったことがなければ、ここにあると誰が知っていただろう。

今回の旅費は大学持ち。これだけで気分がいい。一つだけ残念だったのは、その夏は大学で研究をしていて、本来なら受講者の多い授業のTAをして、当時の僕にとってはかなりの大金を稼げるはずだったことだ。ところが担当教員に相談すると、その授業のTAは一人しかいないので、いきなり一週間休む人は採れないと言われ、断られた。仕方なく別の小さな授業のTAになり、もらえる金額は半分になった。でも迷う余地はない。世界大会へ行くほうが絶対に大事だ。

この年の大学チームは、僕が「アメリカ人兄弟」と「香港記者」と呼んでいた三人だった。どうやって予選を勝ち抜いたのか、そしてなぜそんな呼び名なのかは、地区予選総集編を参照してほしい。

今回はようやく、落ち着いた気持ちで一日観光に参加できた。主催者が連れて行ってくれたのは、この辺りで一番有名なマウント・ラシュモア。僕は香港記者と一緒に回った。さすが香港記者、目ざとい。なんと一人で歩いているtouristを一瞬で見つけた。少し迷ったあと、迷いを振り切って突撃し、写真をお願いして、無事に撮影成功。香港記者はずっとtouristの大ファンだったので、これは大勝利だ。写真を撮り終えると、touristはまるでゲームの瞬間移動とダッシュを同時に使ったような速さで消えた。これ以上ほかの人に捕まって写真を頼まれたくなかったのだろう。僕は撮れなかった。大損だ!

というわけで、ここには代わりに岩肌むき出しのマウント・ラシュモアを載せておく。当時の自分の写真を見ると、まだ若かったのに、もうこんなに若かったとは驚きだ。

その次は、クレイジー・ホース記念碑を見学した。これは何と言えばいいのか。確かに彫刻ではある。僕が聞いた話では、由来はだいたいこうだった。4人の大統領像が完成したあと、先住民の酋長が納得せず、「自分たちにも偉大な英雄がいる。そちらの大統領像より大きな像を彫る」と言ったという。完成予定の像は高さ172メートル、幅195メートル。楽山大仏の2倍以上で、馬の頭だけでも4人の大統領の頭より5メートル以上高い。完成すれば世界最大の人工彫刻になる。1948年に始まってから60年以上、酋長と7人の息子たちはまさに少しずつ山を削り続けてきたが、完成したのはクレイジー・ホースの顔だけだった。話によると、この計画に関わる人たちはアメリカ政府の資金を受け取らず、自分たちの民族的英雄の像を独力で完成させたいと考え、すべて民間の寄付で進めている。そのため資金が足りないらしい。

今の完成度はというと……写真の通りだ。手前にあるのは売店前に置かれた完成予想模型、遠くの山が実際の進み具合。この完成度、本当に10%もある?

大会当日になっても、僕にはまったくプレッシャーがなかった。選手たちにも、あまり緊張はなさそうだった。自分たちの実力は本人たちが一番分かっている。世界大会で正式な順位さえつけばいい。順位のつかないHonorable Mentionでなければ、それで十分だった。

ところが結局、Honorable Mentionになった。三人は63分で3問を通したあと、残りの4時間は取り組み続けたものの、新しいACは一つも増えなかった。そしてITMOは、今回も何の意外性もなく優勝した。

会場での僕は何もすることがなく、知り合いもいなかったので、ひたすら歩き回っていた。そのうち、上海交通大学関係者の小さな観戦グループを見つけ、かなり長い間、その後ろに座って問題の議論を聞いていた。正直、5時間は長いと思っていたが、時間は驚くほど早く過ぎた。何の変化もないスコアボードをぼんやり眺め、自分でも何を見ているのか分からないことがあった。それでも見ているうちに、2時間が消えていた。

大会終了後、夜になると、主催者が山を背景にした「ライトショー」へ連れて行ってくれた。わざわざかぎ括弧をつけたのは、これをライトショーと呼ぶのか? と言いたいからだ。山の中で適当に100人集めてレーザーポインターを持たせれば、同じくらいのものができるのでは? あまりにもショボかった。派手な光と音の演出をよく見る中国人の僕だから物足りなかった、というだけでもない。同じチームのアメリカ人コーチまで、何とも言えない顔になり、途中で会場を出ていった。その様子は、まるでこのショーがアメリカの恥だとでも思っているようだった。

ICPC世界大会 2018

コーチとして2度目の世界大会。

今年の世界大会の開催地には、去年以上にがっかりした。僕がコーチをやった二年間、開催地が一回はアメリカ、もう一回は中国ってどういうこと? 旅行先としてなら、僕はラピッドシティより北京のほうが圧倒的にいいと思う。でも北京にはもう何度来たか分からない。北京で学校に通ったことすらないのに、地下鉄2号線は少なくとも十周くらい乗った気がする。

世界のほかの場所へ行きたいんだけど!

まあいい。大学のおごりで、無料で中国へ帰れたと思うことにした。

今年のチームもアメリカ人三人だった。ここでは便宜上、アメリカ1号、2号、3号と呼ぶことにする。今回は予選突破までかなり順調で、アメリカ1号がほぼ一人で大暴れしてチームを引っ張った。詳しくは地区予選総集編を参照してほしい。

アメリカ2号は、前年からずっと僕のアルゴリズムの授業へ来ていた。かなり努力家で、僕が知っていることは全部教えた。僕の知識自体はそれほど多くないが、アルゴリズムの守備範囲だけで言えば、世界大会の銀メダル圏あたりで出る問題にも十分対応できる広さはあった。どれだけ身についたかは、あとは本人次第である。

アメリカ3号は、うーん、この三人の組み合わせでは役割がかなり小さかった。実装速度ではアメリカ1号にまったく勝てないので、キーボードを担当する出番はまずない。アルゴリズムの知識範囲ではアメリカ2号に負ける。その結果、このチームでは彼ならではの出番があまり残っていなかった。

運営が用意したホテルはものすごく豪華だった。僕たちの部屋は35階。記憶が正しければ、宿泊客が行ける最上階で、景色もかなりよかった。

運営は万里の長城への観光ツアーを用意していた。僕は即不参加。なぜでしょう。

そのあと大学のメンバーだけで小さなグループを作り、故宮へ行くことになった。僕はそれにもついて行かなかった。

正直、今回は一緒に行くべきだったと思う。でもその日は予定があったので、彼らだけで行かせた。「北京歓迎你」の時代から北京に蓄積されてきた英語力を信じることにしたのだ。出発前、副コーチに「お金ある?」と聞いたら、「ない」と言う。「WeChatは?」「あるけど、決済が使えるかまだよく分からない」「それでよく外へ出ようと思ったな?」

そこで手持ちの現金を全部、500元ちょっと渡した。まあ、一日遊ぶには足りるだろう。少なくとも入場料くらいは払えるはずだ。あとは好きに何とかしてくれ。

そういう遠出とは別に、僕は彼らを北京大学周辺の食べ歩きエリアにも連れて行った。ここで、英語が母語ではない僕の限界がはっきり出た。副コーチがミルクティーを飲みたいと言う。店は全部中国語で、追加できるトッピングは山ほどある。こんなの英語で何と言えばいいんだ! 結局、僕が言えたのは、「甘いよ。適当に選んで」だけだった。

競技当日も、僕は相変わらずかなり気楽だった。

とはいえ、去年よりは少し緊張していた。去年は完全に遊びに来たようなものだったが、今年はこのチームの成績に少し期待していたからだ。特に、アメリカ1号の実装速度は驚異的で、アメリカ2号のアルゴリズム力もしっかりしていた。

結果も期待どおりだった。4問を解き、公式順位では56位タイ。4問のチームは40以上もあったが、その大集団の中ではかなり前のほうだった。もし4問の全チームを通常のICPCのペナルティ順でさらに並べれば、総合60位くらいだったはずだ。僕が選手として初めて出た世界大会よりもいい成績だった。

残念ながら、北京大学は優勝できなかった。ホスト校のチームだけあって明らかに強く、全力を尽くしていたと思う。

そして北京を離れる時、最後に面白いことがあった。地下鉄の駅でスーツケースを引きながら人を待っていると、英会話スクールの営業らしい人が近づいてきて、「英語を勉強しませんか?」と聞いてきた。当時の僕は本当に若く、見た目も完全に学生だった。というか、実際まだ学生だった。

「英語は習いません。でも、先生は募集していますか?」

すると彼は、「うちは講師の採用基準がものすごく厳しくて」と長い説明を始めた。僕はあまり聞いていなかった。

最後に、なぜか彼は僕に「どこに住んでいるんですか?」と聞いた。単なる礼儀だったのか、営業として最後にもう一度粘りたかったのかは分からない。

「サンフランシスコです」

彼は黙った。三秒ほど固まってから、「からかってるんですか……」と言い、そのまま去っていった。

最初にわざわざ声をかけてきたの、そっちだからね!

Facebookインターン中のロンドン滞在

Facebookでのインターン中にロンドンへ渡り、ビザとパスポート配送の騒動を乗り越えて街を巡った。

この年、僕は Facebook(現在のMeta)でインターンをしていた。インターン期間中、僕たちのチームには全員でイギリスへ行く年1回のオフサイトがあった。入社したばかりの頃、メンターに「行く?」と聞かれ、僕は少し考えると答えた。

インターンで何より大事なのは、終了後にフルタイムのオファーをもらうことだ。期間は全部で12週間しかない。そのうち1週間をイギリスで遊んで、成果を何も出さずに終えることになる。オフサイトとはいっても、会議に出るのは正社員だけで、インターンは外をぶらぶらするしかない。それがオファーにどれくらい響くのか、まったく分からなかった。

同じチームのインターンは4人で、中国人が3人、アメリカ人が1人。僕ともう一人はアメリカのビザがまだ有効だったが、残る一人は切れていた。彼の場合、アメリカを一度出たら、戻る前にまた米国ビザを取らなければならない。いつ帰ってこられるか分かったものではない。

現実的に行けるのは3人。では行くのかというと、みんな「行かない、行かない。オファーへの影響が大きすぎるし、危険だ」と口々に言っていた。アメリカ人が何を考えていたのかは聞かなかったが、とにかく彼も行かなかった。

僕も最初から行くと決めていたわけではない。ところが出発の2週間前、メンターがまた「行かないの? 本当に行かない? 大丈夫だから行こうよ」と誘ってきた。チーム全員が1週間イギリスへ行くので、僕たちが残っても時差は8時間。ろくに指導は受けられず、その週は結局自分たちだけで仕事をすることになる。そこまで熱心に誘われたら、じゃあ行こうかな、となった。

そもそも当時の僕にとって、就職面接はほとんど遊びみたいなものだった。僕は競技プログラミングの選手だ。他の人が恐れるコーディング面接も、僕にとっては簡単な問題を高速で解くだけ。少なくとも当時の僕は、よほど面接官に予想外のことをされない限り、受けたい会社を受けて落ちることはまずないと思っていた。だからフルタイムのオファーを、ほかの人ほど重くは見ていなかった。それで行くことにした。

次はイギリスのビザだ。いちばん印象に残っているのは、とにかく高かったこと。会社の負担なしでは気軽に手を出せない。記憶では5年間有効のビザを申請し、ドル換算で800ドル強だったと思う。申請を始めたのが出発の2週間前だったので、特急料金にさらに数百ドル。全部でたしか1300ドルくらいかかった。ここまで高いビザもなかなかない。

ただ、イギリスのビザは、お金を払い、必要書類をきちんと提出すれば、手続き自体はとてもスムーズだった。申請してから領事館がパスポートを発送するまで、合計1週間。これなら飛行機に間に合うはずだった。

ところが、ここで最大のトラブルが起きた。僕は並列計算を研究する博士課程の学生だったが、非同期システムの整合性問題が自分にどれほど大きな迷惑をかけるのか、この日初めて思い知った。

その日、追跡画面ではパスポートが午前中に届くことになっていた。そこで一日中、家で待っていた。荷物が置かれる可能性があるのは二か所。玄関前か、マンションの管理用宅配ロッカーだ。どちらに入るかは分からないが、中身はパスポート。念のため、届いたらすぐ回収するつもりだった。

午前10時半ごろ、スマホの画面を更新すると、配送状況が「配達中」から「配達済み」に変わった。配達場所は玄関前。ところがドアを開けても、外には何もない。配達員がまず下で配達済みにして、それから持ってくるのかもしれない。あるいは何か別の事情か。そう考えて5分待つことにした。5分たっても何も起きなかった。僕は、なくされたと思った。

そこでネットから荷物紛失の申告をした。すると配送状況は「異常」に変わり、そのままずっと異常になった。

その日の午後、近所の配送会社の営業所へ行った。事情を説明すると、今日配達できなかった荷物が戻ってきたら調べると言われた。午後6時になっても何も起きない。今度は配達員に連絡すると言う。夜7時すぎまで待ったが、配達員はもう仕事を終えていて連絡がつかなかった。すると職員は、突然とんでもない話を始めた。僕のケースは配達失敗なので、荷物はいったん保管センターへ戻り、ほかの荷物と一緒に飛行機へ乗る。それからアメリカをぐるっと一周し、まず東海岸にある本部の保管センターへ行き、現地の荷物と一緒にもう一度仕分けされ、また飛行機で西へ戻ってきて、最終的には翌朝僕の家に届くという。

ちょっと待て。そんな話があるか。誤配のたびに全部そんな旅をしていたら、配送会社なんて翌日には破産するだろ。

誇張ではない。今でもよく覚えているが、彼は本当にそう説明した。しかも大げさな身ぶりまでつけて、いかにも本当らしく。でたらめにも限度があるだろう……。

そこで得た結論は、ここでは何の結論も得られないということだった。この口から出まかせの人は、明らかに何も知らない。翌日また来るしかなかった。その時点でもう夜8時近い。営業所から家へ戻る頃には、心身ともに疲れ切っていた。

翌朝早く、また配送会社の営業所へ行った。何も起きていない。ネット上はまだ異常表示で、何が起きたのか誰にも分からない。職員は、もう一度配達員に連絡するとしか言えなかった。そして朝は、仕事中の配達員に結局つながらなかった。僕はいったん会社へ行き、午後にまた戻った。職員が再び電話をかけ、最後の最後でようやく配達員につながった。配達員は、荷物はもう届けたが、ネット上の状態は変更できないと言った。その時も表示はまだ「異常」のままだった。

配達員の確認を得て、僕はまた家へ戻った。玄関前には何もない。意味が分からない。では、まさか宅配ロッカーにあるのか? ロッカーに荷物が入ったというSMSは一度も届いていない。

宅配ロッカーへ行き、住民カードをかざすと、一つの扉が開いた。僕のパスポートは、本当にそこに入っていた!

ものすごくうれしかった。ようやくパスポートを手に入れた。これなら飛行機に間に合う。その時点で出発まであと4日しかなかった。

あとから、この事件をじっくり検証した。僕はコンピューター科学を学び、しかも並列計算を研究している。この背景が事件の分析に思わぬ形で役立った。

配達員の証言と状況を合わせて、僕なりに推測すると、たぶんこういうことだったのだと思う。その朝、配達員は大量の荷物を持って宅配ロッカーの前に到着した。車にいる間にすでに僕の荷物をスキャンしていたため、システム上は「配達済み」になった。次に一つずつ荷物をロッカーへ入れ、荷物をスキャンし、さらにロッカー側のコードを読む。正常なら、状態は「宅配ロッカーへ配達済み」に変わり、ロッカーから受取人へ通知が自動送信される。

ところが、その途中で僕が割り込み、荷物を未配達、つまり異常状態に変更してしまった。そのあと配達員が僕の荷物をスキャンしようとしても、もう受け付けられない。ではどうするか。彼は荷物をロッカーに入れ、ロッカーのコードを読み、通知を送ろうとしたのだろう。しかし一つ前の処理が失敗しているので、ロッカーと僕の荷物を関連付けられない。最終的に、実物のパスポートはロッカーの中、配送システムは異常表示、僕には通知が一切届かない、という状態が完成した。

その後に営業所の人が話していた「荷物がアメリカ一周旅行をする」という説明は、完全なでたらめだ。根拠ゼロ、荒唐無稽にもほどがある。

あとでこの話をメンターにしたところ、彼も僕の推測はかなり合理的で、本当にそうだった可能性が高いと言った。ほかに何がある?

無事にパスポートとビザを手に入れ、これでイギリスへ行ける。

それより前に、Facebookの社内サイトでイギリス行きの飛行機とホテルを予約していた。もちろん会社負担だ。当時、社内システム上で僕に表示されたヨーロッパ便の上限は8000ドルで、ちょうどビジネスクラスの往復が買えた。長距離国際線のビジネスクラスはこれが初めてだった。

ホテルもかなり豪華だった。社内サイトで最初に勧められたものをそのまま選んだ。ロンドン中心部にあり、会社の建物から200メートルも離れていない。料金は1週間に満たない滞在で8700ドル。平均すると1泊1000ドルを超える。社内のホテル予約サイトには、システムの推薦を選ぶよう明記されていた。別のホテルで料金が基準を超えると、精算で問題になるかもしれないという。それなら、そちらが勧めるならこちらも遠慮なく予約する。こうしてそのホテルは、僕が泊まった中でも最も高い部類に入るホテルになった。

出発当日、同じ時期にインターンをしていた人たちが見送りに来てくれた。みんなで辛い火鍋を食べた。あれは食べるべきではなかった……。

飛行機はビジネスクラスで、横になって眠れる。ただし、それでイギリス到着後も元気だったわけではない。着いた頃には頭が爆発しそうで、偏頭痛がかなりひどかった。ホテルに入ると、予想どおり手持ちの電源プラグは使えない。会社がすぐ近くだから、着いたら直接アダプターを取りに行けばいいと考えていた。しかし、これほど頭が痛くなるとは思っていなかった。電源なしでは困るので、結局ひどい頭痛を抱えたまま会社へ行き、自動販売機からアダプターを一つ受け取った。

ロンドンのFacebookオフィスは、ベイエリアの本社とは少し違う。キャンパスではなく、一つのビルの中に何フロアも入っている。ロビーはこんな感じだった。スポンサーのロゴは、やはり大きくなければならない!

アダプターだけ取ってすぐ逃げた。頭が痛すぎた。

翌日には、ほとんどベッドから起き上がれないほどの痛みになった。当時は理由が分からず、8時間の時差による頭痛だと思っていた。その後、国際線に乗る回数が増え、時差ぼけも何度も経験するうちに、自分なりのパターンが見えてきた。たぶん原因はあの火鍋だったのだと思う。

午後になって痛みが耐えられる程度になると、どうしても観光を諦められない僕はベッドから起き上がり、名所巡りに出発した。

最初に向かったのはベーカー街221B、シャーロック・ホームズで有名なあの住所だ。入口に立つ制服姿の人は大人気で、たくさんの人が一緒に写真を撮っていた。

入口には長い列があったが、行った時間がよかったのか、それほどひどくはなかった。中はかなり充実していて、原作の場面や部屋を再現した展示が多く、蝋人形まである。イギリス人も本当にシャーロック・ホームズが好きらしい。

次にやって来たのはマダム・タッソー・ロンドン。イギリスのマダム・タッソーだ! 前に見たのは英語の教科書の中だった。

その次は、キングス・クロス駅の9と3/4番線へ行った。実際のホームにあるわけではなく、駅の公共スペースにある壁際に、写真撮影用として設置されている。

撮影待ちの列はものすごく長く、しかも進むのが遅い。現地のスタッフがローブを着せ、杖を渡し、走っているように見えるよう裾を持ち上げてから写真を撮ってくれる。そのため、一人ずつかなり時間がかかる。僕は人が入れ替わる隙に、誰も写っていない状態を撮影し、そのまま逃げた。

これで今日の予定は終了。この日の名所は全部歩ける範囲にあった。頭がまた爆発する前に、急いでホテルへ逃げ帰った。

その後の数日間は会社で静かに仕事を進め、ロンドンにいるリモートのメンターにも会った。

ちょうどワールドカップの時期だったので、会社の食堂にある大画面で試合を一つ見た。これはFacebook時代からの伝統でもあり、ベイエリアの本社でも食堂の大画面で一日中ワールドカップを流していた。

そしてまた週末。ようやく頭痛が消えた。

起きて最初に向かったのは大英博物館。

展示内容はやはりかなり豊富だった。その中でも重点的に見たのが、ネットで人気の「顔をはたかれている小人」だ。

次にナショナル・ギャラリーへ行った。正直、僕は美術鑑賞にあまり興味がなく、見る目もまったくない。それでも、ここには僕でさえ驚くほど見事だと思う絵が何枚かあった。単に描写が非常に緻密で、理系の僕の頭に刺さっただけかもしれない。

これでこの日の予定は終了。博物館は大きく、さすがに何時間も見て回った。

さらに次の日、ロンドンで博士課程に在籍していた高校時代の同級生に会い、少し遠い場所まで案内してもらった。

まずはビッグ・ベン。

あまりにも有名なので説明は不要だろう。当時は改修工事中で、足場が何重にも巻かれ、ゲームで建物をアップグレードしている途中のように見えた。観光客へのせめてもの配慮なのか、時計の文字盤だけは見えるようにしてくれていた。普通の工事なら、こんな足場の組み方はしない気がする。

次はウェストミンスター宮殿。これも英語の教科書からそのまま出てきたような建物だ。

ウェストミンスター大聖堂。

バッキンガム宮殿。

ロンドン・アイ。

ロンドン・アイからテムズ川とロンドン市街を見下ろす。

最後にタワー・ブリッジへやって来た。

記念撮影。仕上がりは最高だった。

これでこの日の予定も終了。

その日の夜、僕はフィッシュ・アンド・チップスを食べてみたいと言った。イギリスを代表する国民食なのに、何日も滞在してまだ一度も食べていなかった。同級生が何軒もレストランを回ってくれたが、どこも置いていない。最後の店の人は少し小馬鹿にしたような顔で、「もっと気軽な小さな店でも探したら」と言った。その表情はまるで、「まともなレストランでそんなもの出すわけないだろ」とでも言いたげだった。

最終的に、僕たちは本当に庶民的な小さな店(実際にはちゃんと店舗のあるレストラン)でフィッシュ・アンド・チップスを見つけた。さすが本場の味。全然うまくない!

最後に、帰りの飛行機の食事も見せておこう。ビジネスクラスは人生でまだ2回目で、1回目は往路。慣れていない僕は、出てくる料理を片っ端から撮影した。

これでイギリス・ロンドンの旅は無事に終了した。

ICPC NAC 2020

第1回 North America Championship(NAC)に参加。

まさか今年も僕がいるとは思わなかっただろう。正直、僕自身も思っていなかった。

前年にはもう卒業できる状態で、この年は大学にすらいなかった。でも2016年と同じ問題が起きた。僕が抜けると、学生コーチがいきなり不在になる。赤レートの化け物が後を引き継いだものの、システム関係でいくつか問題があり、また僕が呼び戻された。ミシガン大学には独自のジャッジシステムがある。昔の学生コーチが自分で構築したもので、本当に強すぎる。見た目は簡素でも機能はしっかりしていて、僕たちは何年も使い続けていた。

この年、僕は大して力を入れていない。選手が誰なのかもほとんど知らず、地区予選の現場にも行かなかった。ただ、一つ大きな違いがあった。北米選手権、NACが始まったのだ。それまでは地区予選から直接世界大会進出チームを決めていたが、この年から途中にNACが加わった。各地区予選の上位何チームかがNACへ進み、僕たちの地区では確か上位五チームくらいだった。

この年が第1回NACだった。僕の記憶では、当時は地区予選にもまだ直接進出枠が残っていて、優勝チームはそのまま世界大会へ行き、残りの枠をNACで決めていた。数年後には地区予選の直接枠が完全になくなり、全チームがNACを通る制度になった。その後、以前なら四チームを世界大会へ送っていた中部の地区が、NACでは全滅し、一校も進出できない年すらあった。当時の地区別枠数は参加規模など複数の要素に左右されていた。一方、NAC制度が始まってからの僕たちの地区は、毎年ほぼ安定して三チーム、時にはそれ以上を送り込んでいた。どの地区が実はそれほど強くなかったのか、かなり分かりやすくなった。

僕たちの地区は予選上位五チームがNACへ行ける。いや、簡単すぎないか? プレッシャーなんてほぼゼロだった。

結果、本当に何の苦労もなく進出した。僕も大学について行き、第1回NACへ参加した。選手の一人と相部屋だったので宿泊費は無料。参加費があったのかは知らないが、何にせよ大学が払っていた。ただし往復の航空券だけは自腹だった。名目上、僕はもう大学の人間ではなかったからだ。

イベント全体のスケジュールは世界大会によく似ていて、前後を含めるとほぼ一週間。ただ、僕は就職したばかりで休暇も少なく、この大会に深く関わっているわけでもない。そこで途中の一日から合流した。

普通なら、公式の到着時間内であれば空港に迎えがいる。でも僕の到着は明らかに遅すぎたらしく、空港には誰もいなかった。地下鉄の駅にも誰もいない。一人で地下鉄に乗り、大会会場まで向かった。

大会が用意したホテルはこんな感じだった。

なかなか格好いい。

そして大会当日。会場はやたらと広かった。

僕の感覚では、NACに参加したチームはそれほど多くなく、せいぜい五十数チームくらいだった。これほど広い会場は必要なさそうだ。そこで主催者側も何かしら配置を工夫し、会場全体が埋まっているように見せていたのだと思う。

大会中はほとんどの時間、大学の学生コーチ、つまり赤レートの化け物と問題について話していた。そしていつもと同じ感覚だった。五時間は長そうに見えるのに、現場にいると本当に一瞬で過ぎる。

結果は……まあ、どうでもいいか。そもそもチームに誰がいるのかすら、僕はよく分かっていなかった。多少関わりがあったのは、アメリカ3号がまだチームにいたことくらいだ。

結局、僕たちは世界大会へ進めなかった。まあ予想どおりだ。こんなに簡単に進出できるなら、僕がそれまでコーチとして苦労していたのは一体何だったのか。

ただ、ずっと後になって振り返ると、この年については特に悔いもない。このシーズンに対応する世界大会は、その後パンデミックによって大幅に延期された。仮にミシガン大学が進出していても、僕はアメリカのビザの事情で現地へ行けなかったはずだ。状況はバングラデシュの年とかなり似ている。詳しくはエジプト世界大会の記事を参照してほしい。

ICPC世界大会 2022 & 2023

初めて現地でジャッジとして世界大会に参加した。

何年ぶりかで、僕はまた世界大会の会場に足を踏み入れた。ものすごくワクワクすると同時に、いろいろ感慨深くもあった。まさに心は高鳴り、手は震えるというやつだ。歳月は容赦ない。初めて世界大会に出てから、もう12年。プログラミングに初めて触れてからは17年も経っていた。

実を言うと、世界大会でジャッジの仕事をするのはこれが初めてではない。前年にバングラデシュで行われた大会――時系列で言えば前々年だが――でもジャッジをしていた。ただし現地には行っていない。「心は高鳴り、手は震える」くらい楽しみにしていた人間なので、行けるなら当然行きたかった。でも行けなかった。僕のようにビザでアメリカに滞在している人が海外へ出る場合、目的地のビザよりアメリカへ戻るためのビザのほうが面倒なことが多い。特に中国国籍だとそうだった。僕も、2018年にロンドンへ行ったときのインターン仲間と同じ問題にぶつかった。アメリカを出たら、戻るための有効なビザがなかったのだ。

しかも今回はコロナ禍のせいで、中国へ戻ること自体がかなり難しかった。当時の中国はまだ全面的に開放されておらず、帰国すれば何日か分からない隔離が待っていた。さらに当時は、アメリカの就労ビザが行政審査に回される可能性もかなり高かった。すべて順調でも、帰国してから戻れるまで最低一か月。大会の日程まで足せば一か月半になる。働いている身でそこまで長く休むのは、さすがに無理だった。

近隣国でアメリカのビザを取る手もあった。カナダやメキシコへ行けばいい。そこで調べてみると、当時ネットで見つけた情報では、みんな同じことを考えていたせいか、カナダの面接予約は一年先まで埋まっているらしい。さすがに言葉が出なかった。メキシコも半年先と言われていたが、運がよければ三か月以内、もっと近い枠が出ることもあるらしい。ただし実際に予約画面へ入るまで分からない。

そこで運試しをすることにした。とはいえ、この運試しは誰でも気軽に参加できるものではない。まず書類を全部埋める。そして何より、日程選択画面を見る前に料金を払わなければならない。この支払いがかなり面倒で、現地の人に代わりに払ってもらうしかなかった。どう見ても詐欺に遭いやすそうな仕組みだ。ネットで「代理支払いのプロ」らしい人を探して頼んでみた。すぐに支払いは成功した。少なくとも、ここでは騙されなかった。

ところが面接の予約状況はどうにもならなかった。メキシコ国内でビザを扱う領事館を全部調べたが、どこでも僕のようなケースを受け付けているわけではない。メキシコ人向けの手続きしかせず、外国人の面接は扱わないところもあった。使えるところはどこも半年以上先まで埋まっていて、大会には到底間に合わない。

二週間、黙々と更新し続けたが、何の進展もなかった。ネット上の予約代行に頼み、ツールで24時間更新し続けてもらわない限り、空きを取るのは無理そうだった。ここで諦めた。ビザ代はアメリカ大使館への寄付だったと思うことにした。

ビザ以外にも、在留資格に関わる問題があった。当時、僕のアメリカ永住権の順番は表Bならもうすぐ、表Aだとまだ一年ほど先だった。知らない人向けに簡単に説明すると、永住権申請にはまずPD、つまり「優先日」がある。ざっくり言えば、表Aは永住権の枠がいつ使えるようになり、最終承認を受けられるかを決める。表Bはいつ先に申請書を提出できるかを決める。ただし本当に表Bで提出できるかどうかは、その月にUSCISが表Aと表Bのどちらを使うと指定するか次第だ。普通は表Bのほうが表Aより先に進んでいて、ときにはかなり差がある。表Bが決めるのは提出時期だけなので、いつ永住権を受け取れるかを意味するわけではない。しかも順番は後退することもある。ある月に一気に進んで申請が殺到し、その後止まったり逆戻りしたりするのも珍しくない。

よく聞かれるのは、表Aが来ていないなら、表Bが来てもどうせ承認されないし意味がないのでは、という話だ。理屈だけならそうだ。でも現実には、永住権の審査はとにかく長い。今はかなり速くなったと聞くが、僕たちのころは申請してからカードを受け取るまで一年以上待つのも普通だった。もっと遅い時期もあった。運悪く処理の遅いルートに入れば、二年待ちもあり得た。

表Aが来ていなければ、使える移民ビザ枠がないので最終承認はされない。ただし、その前の審査まで何もできないわけではない。その月に表Bの使用が認められ、自分の順番も来ていれば、先に申請を出してUSCISに処理を始めてもらえる。前段階の手続きがほぼ終われば、表Aが来るまで待機できる。後から表Aが自分の優先日に届き、ほかの条件も満たしていれば、比較的すぐカードを受け取れる可能性がある。表Aが来てから申請を始めるより、どれだけ速いか分からない。僕の言い方なら、「二日遅く出して、二年長く待つ」だ。

僕の場合、表Bがもうすぐ自分の優先日に届きそうだった。その月にUSCISが表Bを認め、僕も条件を満たしていれば、申請を出せるはずだった。ところがその時期にアメリカを離れると、当時の提出に影響が出て、戻ってからでないと手続きできない可能性があった。この話はさらに複雑なので省略する。帰国したころに表Bが後退していたら、後悔してもしきれなかっただろう。

そういう事情を全部考えて、僕は2022年、つまり2021年世界大会の現地参加を諦めた。この年は初めて世界大会の問題作成とレビューに関わったが、かなりスリリングな体験だった。問題を提出するときは解法も出す必要がある。しかし担当問題が送られてきても、解き方は教えてもらえない。全部自分で仕上げてから、元の作問者と答えを突き合わせる。もし担当がランダムなら、全員が全問題を解けないといけないということになる。要求水準が相当高い。幸い、その前の二年間でかなり実力を上げ、Codeforcesで赤になっていた。そうでなければ、たぶん解けなかった。準備中の機密管理もものすごく厳しく、メールもファイルもすべて暗号化。いつ誰かに傍受されてもおかしくない、という前提だった。メール一本送るだけでスパイ映画である。

担当問題のために図も描いた。ものすごくダサかったが、解像度さえ足りていれば誰も直す気はなかったらしい。別の問題では、隠しデータに『原神』の七元素アイコンを描くというイースターエッグも仕込もうとした。結局「役に立たないデータ」という理由で削除され、しかもポケモンのタイプだと勘違いされた。

時は2023年。大会は本来11月にシャルム・エル・シェイクで開かれる予定だった。そう、見間違いではない。最初からルクソールだったわけではない。ところが、その後何が起きたかはみんな知っている。2023年10月7日にイスラエルとハマスの戦争が始まり、中東の安全状況は急速に悪化した。シャルム・エル・シェイクはガザのすぐ近くではないものの、多くの参加者の移動、安全、航空便の手配に影響が出たため、11月の計画は最終的に中止された。開催日は未定になった。

ICPCが参加者に新しいメールを送り、2024年4月14日から19日という日程を確定したのは、2024年1月19日になってからだった。その時点では会場が「ナイル川沿いの有名な都市」に変わることだけが明かされ、後にルクソールだと正式発表された。

この主催者、エジプトに来るたび何か起きる。2011年世界大会も当初はエジプトのシャルム・エル・シェイクで、2011年2月28日から3月4日まで開かれる予定だった。問題が起きたのは大会のおよそ一か月前。2011年1月25日、エジプトで大規模な反政府デモが始まった。後に「エジプト革命」、そして「アラブの春」の一部と呼ばれる出来事だ。カイロなどの都市は急速に深刻な混乱へ入った。2月1日ごろには、主催者はエジプトでの開催は不可能だと判断し、世界大会の延期と他国への移転を決めた。場所と日程は後日発表。最終的に大会はアメリカで開かれた。

そして今回、よく似た展開がまた起きた。もちろん主催者にどうにかできる話ではない。それでも「開催地選びがうますぎる」という評判は、掲示板ですっかり定着していた。かなり叩かれていた。これは普通のイベントではなく競技大会だ。延期されれば選手の状態、特に優勝を狙えるチームへの影響は大きい。

しかもコロナのせいで、世界大会はすでに一年以上遅れていた。進行を取り戻すため、2022年と2023年の世界大会を同時開催する予定だったのに、今度はまとめて延期。2022年世界大会を2024年にやるのである。「国際大学対抗プログラミングコンテスト」なのに、選手の中には卒業して働き始めて二年という人までいた。予選を通ってからどれだけ経ったかも分からない。そこから呼び戻して競技させる。これ、本当にちゃんと戦えるのか?

選手たちは不満をぶつける先が必要だった。結果、主催者はかなり叩かれた。

あらゆる困難を乗り越え、世界大会は最終的に2024年、ルクソールで開催された。

僕はエジプトの到着ビザを利用できたので、入国ビザは問題なかった。このころには僕も無事アメリカの永住権を取得しており、アメリカへ戻る心配もない。ただ、正直かなり行きにくい。飛行機をいくつも乗り継ぎ、時間も長い。もうこの老体にはなかなかつらかった。

エジプト入国後はカイロで乗り継ぎ、ルクソールへ向かう。まさかエジプト旅行がカイロにいるうちから二発も洗礼を浴びせてくるとは思わなかった。今回の乗り継ぎでは、なぜか三回も保安検査を通った。どうして空港の外へ出たのかは聞かないでほしい。本来は制限エリア内で乗り継げたのに、案内表示に完全に惑わされ、歩いているうちにそのまま空港の外へ出てしまった。

三回の内訳は、空港に入るときの軽い検査、搭乗券を見せて待合エリアへ入るときの本格的な検査、そして各搭乗口にあるもう一度の本格的な検査だった。

問題は最後の検査で起きた。担当者は一人だけで、かなり大きな裁量を持っていた。「絶対的な権力は絶対に腐敗する」とは言うが、まさか自分がその実演を見ることになるとは。

検査を通るとき、担当者はスーツケースを開けろと言った。そして蒸気アイマスクを指して、これは何だと聞いた。目の疲れを取る温かいアイマスクだと答えると、持ち込み禁止だと言う。この時点では、まだ事態の本質に気づいていなかった。珍しいものだから見たことがなく、安全のために止めているのだろう、と単純に考えていた。

彼はアイマスクを脇へ置き、今度は電動歯ブラシのケースを指した。これは何だ。電動歯ブラシだ。持ち込み禁止。もう頭の中は疑問符だらけだった。歯ブラシも持っていかれた。

最後にAppleのイヤホンを指して、これは何だと聞く。見れば分かるだろう、イヤホンだ。すると、これも持ち込み禁止。イヤホンも横へ置かれた。もう完全に意味が分からない。

そこで彼も、僕がまだ察していないことに気づいたらしい。一言だけ聞いてきた。その瞬間、全部分かった。

「金はあるか?」

なるほど、これはもうほとんど強盗ではないか。でも僕に何ができる。ようやく理解した顔でポケットから金を出そうとすると、彼はいきなり僕の手を押さえ、「何をしてる」と言いながら、金ごと机の上のリュックへ押し込んだ。さらにあきれた。賄賂を求めるのがまずいことは分かっているのか。監視カメラを避けたいのか?

リュックの中で現金を探し、10エジプト・ポンド札を一枚出した。彼は露骨に不満そうに「ノー、ノー、ノー」と言い、100ポンド札を指した。どうしようもないので100を渡した。すると満足そうに笑い、「友よ、これでもう全部問題ない」と言う。イヤホンを手に取り、「これは問題ない」とリュックへ戻した。歯ブラシもアイマスクも同じように突然問題がなくなった。そして僕を通した。

そのときはかなり動揺していて、また何か起きるのが怖く、とにかく早く離れたかった。入国時に米ドルをエジプト・ポンドへ替えておいて本当によかった。もし現金がなかったらどうなっていたのか。ドルを指して「これは持ち込み禁止」と言われ、そのまま取られたら、僕に何ができただろう。

搭乗口のそばに座り、ネットで調べると、エジプトの空港で似た経験をしたという書き込みがかなり見つかった。保安検査員に金を要求されたという人も多かった。ネット上には、一人で行動していて助けてくれる人がいなさそうな旅行者を狙う、と主張する人もいた。右も左も分からない場所で、上司を呼べと要求して議論するのか。その上司がどちらにつくかも分からない。最悪、そのまま入国を拒否されたらどうする?

少なくともその日、金を要求されたのは僕だけではなかった。座っていると、少し離れたところで中国人女性二人が、今さっき自分たちも金を取られたと話しているのが聞こえた。

まだ終わりではない。空港のトイレでも面倒なことがあった。手を洗う場所には普通に石けんとペーパータオルが置いてある。すると清掃員らしき人が、石けんを手に持って僕の前へ差し出してきた。これは使わなかった。手を乾かそうとすると、今度はティッシュの包みを差し出してきた。つい二枚取ってしまった。出ようとしたら、彼はトイレの入口をふさぎ、手を出してチップを要求した。そのとき口にしたのは「tip」の一語だけで、あとは何も言わない。これは彼が知っている唯一の英単語で、この商売のためだけに覚えたのではないか――そんな疑いまで浮かんだ。

また金を取られる。どうしろというのだ。トイレの中で殴り合いでも始めるのか……。

ここまで来ると、僕の中でエジプトの印象は最低ランクまで落ちていた。ネットで見かけた、「エジプトに行かなければ一生後悔し、行けば行ったで一生後悔する」という皮肉な旅行ジョークが、この二件の直後には妙に説得力を持って聞こえた。

当時ネットで見つけられた数字を少し調べてみた。エジプトの大学の正教授の月収を約2万エジプト・ポンドとしている資料もあった。ドルにすれば約400ドルで、アメリカの普通の博士課程学生の六分の一ほどだ。ここで完全な仮定の計算をしてみる。この保安検査員が月20日働き、一日にたった10人から一人100ポンドずつ取れたとしたら、それだけで副収入が大学教授の月収を超える。これ、さすがにおかしくないか? ちゃんと取り締まるべきじゃないのか?

ルクソール行きの飛行機は無事に到着し、その後は幸い何も起きなかった。主催者が用意した宿は、ナイル川沿いの「豪華リゾート」だった。わざわざ括弧をつけたのは、本物の豪華リゾートという言葉から想像するものとはそれなりに差があったからだ。それでも、現地としてかなり頑張って用意してくれたのは伝わってきた。

ホテルは川のすぐそばにあり、部屋からナイル川の夜景が見えた。

リゾートだけあって、なんと敷地内に動物園まであった。そして今年の問題には、動物園を舞台にしたものが一問あった。そこで僕たちは動物園へ行き、その問題の挿絵用に写真を撮った。ちなみに下の写真ではない。

主催者が用意した休養日の観光は、ナイル川の船旅から始まった。正直、かなりよかった。小さな船に乗って風に吹かれるだけなら、大した話には聞こえない。でも足元を流れているのが、伝統的に世界最長とされてきたナイル川だと思うと、急にテンションが上がる。

その後はカルナック神殿を見学した。映画の中の謎めいた風景がそのまま現実に出てきたようで、いつミイラが飛び出してきてもおかしくない雰囲気だった。

主催者の公式日程とは別に、ジャッジ陣で忙しい合間を縫ってプライベートツアーを組み、王家の谷と王妃の谷、それから周辺のいくつかの場所へ行った。

エジプトの古代文明遺跡は、本当に数え切れないほどある。

あっという間に大会当日。現地の配信スタジオは屋外にあり、雰囲気はよかった。ただ、一目見ただけで蚊が多そうだった。

競技会場は臨時で建てた巨大な施設だった。エジプト全土を探しても、二大会、合計260以上のチームを一度に収容できる常設会場は見つからなかったのかもしれない。だから建てるしかない。イメージとしては、不透明な二重構造の巨大ビニールハウスだ。外側から中間層まではスタッフ用のエリアで選手は入れず、一番内側が超巨大な競技会場になっていた。

何はともあれ、空調だけは本当に完璧だった。会場内はかなり涼しい。外の気温を考えると、これがなければ競技どころではなかっただろう。

ジャッジはコンテストシステムのスタッフと同じ部屋を使った。オフィスと言っても、大学のコンピューター室くらいの広さがある。この二組が同室なのは伝統らしい。大会運営と提出のジャッジを一緒に支えるので、何か問題が起きたとき、その場ですぐ相談できる。

二つの世界大会は、問題と番号をそれぞれ独立させていた。同じ問題が含まれていても別々の番号が振られているため、相手側のスコアボードを見ても、どの問題がどれに対応するのか正確には分からない。問題選びにもかなり気を使った。各大会だけに出る問題を十分違うものにして、少なくとも両大会の優勝チームを単純比較しにくくしたかった。もし問題構成も試合展開もほぼ同じで、片方の優勝チームがもう一方より一問多く解いていたら、「弱い側の優勝チームは、強豪が反対側に集まっていたから運よく勝っただけ」と言われかねない。優勝したのにそんなふうに笑われたら、たまったものではない。

以前コーチとして世界大会に来たときと同じで、五時間と聞くと長そうなのに、スコアボードを眺めているうちに二時間が消える。時間はかなり速く過ぎていった。

大会中、問題の解説動画を一本収録してほしいと頼まれた。この動画は今も世界大会の公式YouTubeチャンネルに残っている。

この五時間のジャッジ生活は、実に退屈だった。というのも、ジャッジや作問者の仕事の大部分は大会前に終わっている。本番中に仕事が山ほど出てきたら、それは何かが起きたということだ。大会中に一番多くやったのは、チームからのclarificationを受け取り、英語の文法を議論し、最後に「回答できません」と返すことだった。中でも一番面白かった質問はこれだ。「キーボードの0を押すたびにパソコンがシャットダウンします。まだ助かりますか?」

幸い、これは前日のリハーサルで起きた問題で、すでに直っていた。本番中だったら、そのチームは確実に大騒ぎしてスタッフを呼びまくっていただろう。

最後に、大逆転で優勝した北京大学、おめでとう。276分にSを初めて通した瞬間、ジャッジルームは全員で歓声を上げた。292分にXを通すと、さらに会場が爆発した。もちろん、爆発した「会場」はジャッジルームだけだ。現地のスコアボードは凍結されていて、順位発表までは何も見えない。

それに比べると、もう一方の世界大会の優勝は、僕にはかなり普通に見えてしまった。問題の難しさがだいたい同じなのに一問少なく、完全にかすんだ印象だった。避けたかった比較は、結局起きてしまった。

閉会式と順位発表は、3500年以上の歴史を持つ神殿前の屋外広場で行われた。ルクソール西岸の有名なハトシェプスト女王葬祭殿で、崖の下に建っている。舞台は神殿の真正面に設置され、古代エジプトの神殿と背後の崖がそのまま背景になった。かなり迫力がある。昼間にも見学した場所だが、夜は手前の照明が強すぎて、肉眼なら背景がかろうじて見えても、写真にはほとんど写らなかった。閉会式ではその場で夕食も出た。今夜の料理はこんな感じ。超巨大な鍋で全部煮込んだように見える。

残念ながら僕たちジャッジは結果を先に知り、もう歓声も上げ終わっていたので、順位発表はかなり退屈だった。しかも選手にその場で自分の順位を予想させるのが、見ているこちらまで気まずくなるほどだった。選手たちの表情は、配信画面から今すぐ消えたいと言っていた。北京大学はペナルティが大きかったため、逆転のドラマは銀メダル圏の発表中に終わった。10問で一気に首位へ上がってからは、もう落ちなかった。

大会翌日は、みんなそれぞれ帰宅。僕はカイロで一日遊ぶことなどまったく考えず、そのまま飛行機でアメリカへ戻った。エジプトまで来たのにピラミッドを見なかったのは、本当に残念だった。

後で聞いた話だが、ジャッジ団のアメリカ人の一人は大会翌日、午前3時の便でカイロへ飛び、日帰りツアーに参加し、夜8時の便でアメリカへ帰ったらしい。しかもこの人、もう60歳だ。どれだけ体力があって、どれだけ自分を酷使できるんだ。僕はなぜそんな手を思いつかなかったのか。

この一件で、僕の旅の考え方は一気に広がった。それからはどこへ行っても、まず「せっかく来たんだから、ついでに何かできないか」と考えるようになった。旅行なんて、そもそも自分から苦労しに行くようなものだ。予定を全部固定する必要はない。そのときの気分で、適当に変えてしまえばいい。

ICPC世界大会 2024

年に一度の世界大会に、今年三度目の参加。

この年の9月も、年に一度の世界大会に参加した。今年三度目である。本来なら今年一度、去年二度のはずだったのだが、エジプト大会まで今年に移ってきたのだから仕方がない。

ジャッジとして世界大会に参加するのは、これで三回目。前よりずっと落ち着いていて、もう日常行事のような気分になっていた。

当時、カザフスタンは中国国籍者に対してビザなし入国を認めていた。今回は今までで一番スムーズだろうと思っていたら、国際線がまたしっかり勉強させてくれた。

もともと買っていたのは、Lufthansaの往復便だった。サンフランシスコからフランクフルトで乗り継ぎ、そのままアスタナへ向かう。ただ一つ気になったのが、フランクフルトで空港内の電車に乗ってターミナルを移動する必要があり、その時に入国が必要なのか分からなかったことだ。これほど大きな国際ハブなら、国際線乗り継ぎエリアは完全に分離され、電車も自由に使えるはず。そう思って航空会社と空港の公式サイトを隅々まで見たが、「絶対に大丈夫」と断言できる説明は見つからなかった。読んだ限りでは、独立した「国際線乗り継ぎエリア」があり、そこから出なければ入国は不要、という意味に見える。最後まで確信は持てなかったが、信じることにした。

ところが、もっと大きなトラブルはそのあとだった。出発の三週間前、帰りのアスタナ発フランクフルト行きが欠航になった。これで旅程全体が使えなくなる。普通なら別の時間の便へ振り替えればいい。でも、その日はその一便しかない。翌日の便にすると、その先のフランクフルト発アメリカ行きも一日おきなので、フランクフルト空港に24時間以上滞在することになる。さすがに無理だった。

このルートはもう使えず、全部取り直すしかない。料金は全額返ってきたが、とにかく面倒だし、出発日が近づけば航空券はだいたい高くなる。調べ直してみると、僕のパスポートとビザの状況では、ヨーロッパ経由に使える便が見つからなかった。イギリス経由は空港を移動する必要がある。当然、僕はイギリスのビザを持っていない。ポーランド経由はワルシャワ空港で20時間待ち、しかも前後が別の航空会社。入国が必要か分からないが、当然シェンゲンビザもない。航空券を見ているだけで気が滅入ってきた。イスタンブール経由など時間のいい便もあったが、直前すぎてもう残っていなかった。

どうする。もう行けないのか?

いったん冷静になって考えると、アスタナとサンフランシスコの時差はちょうど12時間ほど。なら、逆方向もありでは? そこで東回りで世界を一周する便を探してみた。すると、ちゃんとあった。最適な場所は中国での「乗り継ぎ」だった。Googleの検索結果にはまったく出てこない。そもそもこれは乗り継ぎですらないからだ。別々の航空券なので、おそらく一度入国する必要がある。僕はアメリカ―中国往復と、中国―カザフスタン往復を別々に検索した。すると時間が見事に合う。中国への入国なら僕には何の問題もない。その場で決め、すぐ予約した。

北京空港に命を救われた。これがなければ、今回の世界大会には行けなかったと思う。

こうして苦労の末、ようやくアスタナへ到着した。ほかの人と話してみると、あの欠航便を予約していた人はかなり多く、みんな取り直していた。ただ、アメリカのパスポートならヨーロッパでの乗り継ぎはずっと楽で、僕ほど面倒なことにはなっていなかった。

今年の新しい出来事といえば、Codeforces世界ランキング1位だったGennady Korotkevich、つまりtouristがジャッジ陣に加わったことだろう。ジャッジに必要なのは問題を解ける強さであって、「速く」解く強さではない。そのため、オンラインコンテストに出ないジャッジもいれば、レーティングがそれほど高くないジャッジもいる。すると、ジャッジがフォーラムで大会中の状況を説明していても、「で、あなた誰?」と聞かれることがたまにある。これからはもう、その心配はなさそうだった。

もう一つ、今年は初めてAIで問題のイラストを作った。仕上がりはかなりよかった。

大会の数日前、忙しい合間に一日だけ時間を作り、アスタナ観光へ出かけた。といっても、主に歩いてアスタナ・グランド・モスクへ行っただけだ。

ネットの写真と本当にまったく同じだった。内部は非常に精巧に造られている。人が一人も写っていない写真を撮るのも、なかなか大変だった。

歩いて戻る途中、街中でこういうポスターをたくさん見かけた。文字は読めないが、絵を見る限り、カザフスタンの伝統スポーツ大会らしい。素朴な疑問なのだが、鷹を調教するのも競技なのだろうか?

今回の世界大会の開会式は、大統領センターのメインホールで行われた。警備は空港並みに厳しい。ほぼすべてのバッグを開けて確認するため、運営からのおすすめは「バッグを持ってこないこと」だった。ただ、日程上、それまでのイベントに参加した選手は、コーチに預けてホテルへ持ち帰ってもらわない限り、バッグを持たずに来るのは難しい。結局、多くの人がバッグを持ってきた。

僕は前のイベントにまったく参加していなかったので、かなり早く着いた。会場にはまだ誰もおらず、歓迎演奏のバンドだけがいた。

そのあと、選手たちが次々とバッグを持ってやって来るのを眺めていた。保安検査は一時間たっても終わらなかった。

開会式については省略する。何度参加したか分からないくらいなので、結局どれも似たような内容に見えてくる。

本番の前日には、運営主催の見学イベントもあった。行き先は科学館のような施設。外から見るとこんな感じで、球形の建物の中が何層にも分かれているのが見える。まずエレベーターで最上階へ上がり、展示を見ながら一階ずつ下りていく方式だった。

館内の説明文は、ほとんどがカザフ語、ロシア語、英語の三言語。スタッフにも三言語を話せる人が多く、かなりすごい。ここで昔の大学の副コーチに会った。彼はロシア語が分かる。僕は、ロシア語とカザフ語はどれくらい違うのか聞いてみた。僕には文字が似て見えた。どちらも読めないから、そう見えただけかもしれない。彼によると、かなり違う完全に別の言語で、自分にはカザフ語は読めないとのことだった。

大会会場はこんな感じだった。

会場内には、遊べる設備や技術展示がたくさん用意されていた。これも昔からの伝統だ。大会前後は選手が暇な時に遊び、本番中はコーチや関係者が遊ぶ。ホテルの下には、ゲルのようなスペースまであり、中はこんな感じだった。

暇な時にここで横になったら、そのまま一日過ごせそうで、なかなか気持ちよさそうだった。

ここまで来れば大会も順調に進むと思っていた。ところが最大の事件は、競技前日の夜に起きた。

その夜、ホテルでシャワーを浴び、もう寝る準備をしていた。シャワー中に電話が三回来ていたが、全部出られなかった。終わって確認すると、「大変なことになった。問題に不具合がある。すぐ来て」とのこと。僕が呼ばれたのは、その問題の作成者だったからだ。どの問題かは言わない。全問題を知っている読者なら、自分で推測できるかもしれない。

発端はこうだった。通常、競技前日に問題を実況解説者へ共有し、内容と解法を先に把握してもらう。事前に解説動画を収録できるし、本番中もより詳しく分析できるからだ。この問題の解法は、最初に場合分けを行い、貪欲法によって二つのケースだけを考えるものだった。ところが解説を収録しているうちに、どうもおかしいという話になった。「なぜ二つだけなんだ?」

そこで厳密に確認するため、誰かが全パターンを列挙して最適解を求める総当たりプログラムを書いた。その結果が、公式データの答えと一致しなかった。総当たりのほうがさらに良い解を見つけていた。

終わった。全列挙が正しいに決まっている。公式データが間違っていて、リファレンス実装も全部間違っている。

この時点でもう午後9時近く。競技開始まで約12時間だった。すぐに応援が呼ばれ、僕たちも大勢が下へ集められた。そして分かった。この問題、本当に間違えやすい。解いた人全員が、別のケースを当然のように見落としていた。しかも全員が独立に、同じように思い込んでいた。

中心メンバーが考えていたのは、今の状態からどう問題を直せばすぐ救えるか。残りの僕たちが考えていたのは、問題文を変えずに救えないか、だった。

以前の世界大会でも、似た出来事があった。当時の僕はジャッジではなく、あとから公式の大会後分析を読んで知った。その説明によると、競技前夜、ある問題が完全に間違っていて修正不可能だと判明した。しかし問題冊子はすでに印刷され、ホチキス留めされ、封までされていた。そこでその夜、全冊子の封を開け、ホチキスの針を外し、間違った問題を抜き、別の正しい問題を入れ、もう一度留めて封をし直したらしい。作業はほぼ一晩中続き、最後には全員がホチキス外しの達人になっていたそうだ。

今回は、そこまで深刻ではなさそうだった。見落としたケースが有効なのは、特定の入力範囲だけ。制約を半分にすれば、そのケースを考える必要は完全になくなる。しかも元の制約の書き方なら、数字を半分にしても、問題そのものの誤りではなく単純な印刷ミスの訂正にしか見えない。会場全体に一度案内するだけで、大会を混乱させずに問題を修正できる。

中心メンバーは関係者へ次々に電話し、翌朝この対応が必要になるかもしれないので準備してほしい、と連絡していた。

その間、残った僕たちは、問題を変えずに何とかできないか話し合っていた。すると、本当に何とかなりそうだと分かった。確かにケースを見落としていたが、どうやら一つだけ。つまり、それを追加しても解法の計算量は変わらない。そこで何人かがプログラムの修正を始めた。この時点でもう午後10時だった。

20分後、最初の一人が修正を終えた。さらに5分後、僕も完成した。その後も次々と実装ができ、中には最初から全部書き直した人もいた。各プログラムを突き合わせると問題なし。さらに総当たりプログラムで作ったデータでも試し、やはり一致した。これで正しい解法を得られた。危機は無事に乗り越えた。

そのあとは、新しいリファレンス実装ですべてのデータを再実行し、新しいケースに合わせてテストも大量に追加した。全部終わった時には午後11時半。よかったのは、案内を出す必要がなく、問題文も一切変えずに済み、本番へ何の影響も出なかったこと。悪かったのは、この問題がかなり難しくなったことだ。このケースは本当に思いつきにくい。本番で不正解になっても、実装のバグなのか、ケースを見落としたのか判断しにくい。必要なら、貴重なコンピューター時間――三人で一台しか使えない――を使って総当たりを書き、照合することになる。

そして翌日。競技は予定どおり始まった。作問者として見ていると、この問題は最初に想像していたよりはるかに難しいらしい。最後の追加ケースはひとまず置いておいて、普通なら多くのチームが提出し、そのケースで落ちると思っていた。現実には、そもそも提出すらほとんど来ない。正解が出たのは三時間後で、全体でもトップ3に入る難問になった。

僕たちはこの問題への提出を一つずつ注意深く見ていた。当時、初回提出したすべてのチームがあのケースを見落としており、一発で通ったチームは一つもなかった。やはり、とんでもなく間違えやすい問題だった。

逆に言えば、前夜にこのケースを発見していなくても、大会はたぶん普通に進んでいた。誰も気づかず、影響を受けるチームもいなかっただろう。最初の不正解を受ける前に、そのケースへ気づいたチームが一つもなかったからだ。ずっとあとになってデータが公開されてから、ようやく誰かが掘り返しに来たかもしれない。

競技中、暇になったジャッジが問題をAIに解かせていた。僕の記憶が正しければ、完全なプログラムを書いてそのまま正解できたのは二問か三問ほどで、しかも最も簡単な問題ではなかった。この頃のAIの競技プログラミング能力は、まだ強かったり弱かったりで安定せず、さらに伸びる必要がありそうだった。それが、わずか一年後にはICPC形式の問題セットを丸ごと解くようになるなんて、誰が想像できただろう。

最後に、北京大学の再びの優勝、おめでとう! ペナルティで約300も差をつけたのは、さすがの強さだった。

一番惜しかったのは清華大学だ。初の世界一まで、あとテストケース一つだった。外から順位表だけを見れば、二問で不正解が出ていて惜しかった、くらいに見える。でもジャッジ側からは、そのうち一問が最後のテストケース一つだけで落ちていたことが分かった。何度見ても、そのデータに特別なところは見当たらない。それでも最後まで原因を見つけられなかった。あの失敗の原因を直して通していれば、もう一問多く解いて、そのまま優勝だった。本当に、あと一歩だった。

ブエノスアイレスから始まる南極への旅

長くて不安だらけのビザ申請を乗り越え、南極へ向かう前にブエノスアイレスを3日間歩いた。

今回の南極への旅は、アルゼンチンの首都から始まった。

国際的な慣例に従えば、海外旅行はまずビザから始まる。そして今回、アルゼンチンのビザにまた盛大にやられた。

僕たちが申請した当時の制度では、中国のパスポートでも条件を満たすアメリカやシェンゲン圏のビザ――ほかにも対象国はいくつかあった――を持っていれば、簡略化された入国制度を利用できた。ところがアメリカのグリーンカードは対象外だった。さすがに意味が分からない。アメリカのビザを持つ人はアルゼンチンに居残らないけれど、アメリカ永住者のほうが居残る可能性が高いと思っているのか? 僕にはまったく合理的に見えなかった。

とはいえ制度は制度なので、アルゼンチンのビザを取るしかない。申請自体はそこまで複雑ではない。旅行計画、ホテルと航空券、残高証明など、求められるのはいつもの書類だ。問題は、当時アメリカで申請する僕たちの場合、旅行のおよそ90日前になるまで提出できなかったことだ。飛行機の到着は2025年1月12日なので、実際に申請できるのは2024年10月14日ごろ以降の営業日だった。

それだけならまだよかった。当時ネットで調べたところ、中国国内で申請する場合はもっと早く出せるうえ、半年、場合によっては一年有効のビザが出る可能性もあるらしかった。一方、アメリカでは出発のおよそ90日前にならないと申請できず、ビザそのものの入国用の有効期間も発給日からきっかり90日。一日も長くなく、開始日は必ず発給日だった。これが出発のおよそ90日前になるまで申請できない理由なのかもしれない。もっと早く発給されたら、出発する前にビザが切れてしまう。僕たちは一度、本気で中国へ戻って申請することまで考えた。書類はオンライン提出で、面接もたぶん不要。本人がどこにいるかなど気にされないのでは、と思ったのだ。しかし要件を調べると、中国での収入証明や預金証明などが必要で、僕たちにはそちらのほうが面倒だった。結局やめた。

しかもまだ終わらない。アメリカ国内のアルゼンチン領事館は、場所ごとに仕事の進め方が違うらしい。それぞれ独自のページがあり、ネットの書き込みでは速いところも遅いところもある。僕たちを担当するカリフォルニアのロサンゼルス領事館は特に遅いと、かなり叩かれていた。イリノイ州の領事館はものすごく速いという話もあった。そこで、イリノイに住む友人の住所を書いて、そちらで申請できないか試すことまで真剣に考えた。ただし実行はしていない。結局、その領事館へ送ったメールが二か月たっても返ってこなかったので、「仕事が速い」という評判には疑問が残った。余計なことはしないことにした。

最終的にロサンゼルス領事館へ申請した。そしてこの領事館の効率は、本当に頭を抱えるレベルだった。書類提出メールへの自動返信には、5〜10営業日後に返答すると書いてあった。10営業日たっても返事がないので、もう一度メールした。今度も自動返信で、15〜20営業日待てと言う。さらに5営業日後にまた送ると、今度は20〜25営業日待てという自動返信だった。しかも「11月以降に提出された申請は翌年まで処理されない」という一文まで追加されていた。

いや、この一か月、何も進んでないじゃないか。いつメールしても、待ち時間がさらに10日先へ伸びるだけだった。ネットで読んだ「アルゼンチン領事館が遅すぎて、出発直前までビザが出ず、航空券を変更しかけた」という話は、本当だったのかと実感した。

この状態は11月末ごろまで続いた。僕たちはめちゃくちゃ不安だったが、どうしようもない。メールしても意味のない自動返信だけ。電話がつながったら奇跡である。

11月末、ようやく領事館からメールが来た。12月初めにオンライン面接をしたいので、いつ空いているかと聞かれた。考えるまでもない。いつでも空いている。そちらが日時を決めてください。必要なら仕事を休んででも出ます。また何が起きるか分からないのだから。

申請できる最初の営業日に出しておいて、本当によかった。もし11月まで延ばしていたら――実際にはたった二週間遅らせるだけだが――南極旅行そのものが本気で中止になっていたかもしれない。

そして面接当日、案の定また何か起きた。30分の面接なのに、面接官はきっちり34分遅刻した。ただ今回は以前ほど慌てなかった。WhatsAppのビデオ通話で、すでに面接官の連絡先を追加していたからだ。開始時刻から10分後、かなり丁寧なメッセージを送った。表面上は礼儀正しいが、要するに「どこにいるんですか?」である。もちろん反応はない。それでも待ち続けたかいがあり、最終的には面接官が現れた。前の面接が長引いたらしい。まあいい。僕たちのビザを握っているのは向こうだ。こちらに文句を言う余地などない。

面接そのものはとても順調だった。提出書類はかなりそろっていた。面接官は必要書類と照らし合わせ、「追加はこの二つだけでいい」と言った。似たものはすでに出してあり、僕たちは十分だと思っていたが、今回は必要なものをはっきり指定してくれた。さらに親切なことに、新しい書類の受領確認を待たず、パスポートもすぐ郵送していいと言う。二つを並行して進められる。そこで言われたとおりにした。

面接はすぐ終わり、僕たちは追加書類をメールで送った。すると当然のように、25営業日待つよう勧める自動返信が来た。受け取ったのかどうかさえ分からない。

この期間は前よりさらに不安だった。今度はパスポートまで手元にない。結局、書類はちゃんと届いていた。パスポートを送ってから約二週間後、新しいアルゼンチンビザが貼られて戻ってきた。その日はもう12月23日。出発まで三週間を切っていた。

つまり、アルゼンチンのビザを取るなら絶対に早く動くべきだ。遅れたら本当に終わる。ただ考えてみると、ここの読者は中国人なら中国で申請できてもっと早く始められるし、アメリカ人ならそもそもビザがいらない。僕の忠告、あまり役に立たない気もする。

何はともあれ、無事に出発できた。

ここで、なぜブエノスアイレスへ来たのかを書いておく。南極行きの船はウシュアイアから出る。アメリカから飛ぶなら、どうしてもブエノスアイレスで乗り継ぐことになる。これはもう「せっかくここまで来たんだから、ついでに遊ぼう」だけの話ではなかった。当時僕たちが探した旅程では、ブエノスアイレスで空港を移動する乗り継ぎがかなり多かった。そう、見間違いではない。ブエノスアイレスには空港が複数ある。しかもそこまで遠くはなく、渋滞がなければ車で数十分ほどだった。

だったら、せっかくここまで来たんだから……。

しかも南極ツアーの開始日は水曜日。アメリカを出るなら遅くとも月曜の昼だ。つまり、その週はどうせ丸ごと休まなければならない。それなら前の金曜の夜に出発すればいい。同じ休暇日数で、アルゼンチンに長く滞在できる。どうせ休みを取るのだから……。

そういうわけで、到着日を含めてブエノスアイレスに三日間滞在した。

初日は昼に到着。入国審査で、アルゼンチンの力の抜け具合にさっそく驚かされた。入国審査官がスマホを見ながら僕たちの手続きをしていた。本当に、ちゃんとスマホの動画を見ている。僕たちのパスポートに何か確認事項が出たらしく、僕らをその場に残し、パスポートだけを持って奥の部屋へ行った。その移動中も、片手にパスポート、もう片方に動画を流したスマホ。見ながら歩いていた。僕も20か国以上行ったが、こんな入国審査は初めてだった。

入国自体は順調だった。スマホのせいで待ち時間が延びたかどうかは置いておくとして、問題は何も起きなかった。奥から戻ると、そのまま通してくれた。

空港からホテルまではUberを呼んだ。すると今度は運転手がまた驚かせてくれた。運転しながらスマホを触っている。まあ、僕に何が言える。道路では安全第一。運転中くらいスマホから目を離してほしい。

午後はホテルで休み、夜はアルゼンチンタンゴのディナーショーを予約した。簡単に言えば、小さな会場でステージのタンゴを見ながら夕食を食べる。Viatorで探すと、こうしたタンゴディナーはブエノスアイレスでも特に人気の高い観光体験の一つで、提供しているところが本当にたくさんあった。そこで適当に一つ選んだ。

夕食については特に評価しない。普通の夕食だった。ただ、このタンゴはさすがに本場のアルゼンチンタンゴと呼んでいいだろう。これほど街に根づいた定番のショーまで本場でないなら、何を本場と呼べばいいのか分からない。

二日目は、ブエノスアイレスの人気スポットを一日で巡るツアーに参加した。事前にネットで調べると、ブエノスアイレスはかなり危ないと言われていて、バイクなどで走りながら物をひったくる事件も珍しくないらしかった。そこで旅行前にスマホ用ストラップを二本買い、手首に結びつけた。これならひったくられても、スマホが残るか、手がなくなるかのどちらかだ。ガイドからも、見た目は安全そうでも絶対に金目のものを見せるな、と注意された。たとえば一眼レフをむき出しで手に持つなんて、どうぞ奪ってくださいと言っているようなものらしい。幸い、この日は何も盗られなかった。運がよかったのか、治安がよくなったのかは分からない。

中でも一番有名なのは、たぶんカミニートだ。Caminitoはスペイン語で「小道」くらいの意味らしい。

その後、ブエノスアイレス中心部にあるこの書店にも行った。友人への土産に、スペイン語原版の『百年の孤独』を探した。残念ながらスペイン語力が足りず、結局見つけられなかった。たぶん、どこかには置いてあったと思う。

三日目は、ブエノスアイレス郊外の牧場で一日体験をした。ただ正直、このツアーはちょっと内容が薄かった。一日の大半は車に乗っているか、特に何もせずに過ごしていた。その中で馬術ショーを見たのだが、最初から後ろ向きに馬へ乗る技を披露してきた。人馬一体、まさに人と自然の調和である。

このショーから大きな学びを得た。今後、誰かが「馬に乗れる」と言ったら、まずこれを見せてもらうことにする。

これでブエノスアイレスの日程は終了。次は飛行機で世界の果て、ウシュアイアへ向かう。

ウシュアイアから出航:南極への旅が始まる

船選びとルート計画、ドレーク海峡への覚悟を経て、ついにウシュアイアで南極行きの船に乗り込んだ。

ウシュアイアに到着。いよいよ南極への旅が始まる!

何しろ南極だ。ずっと前から行きたくて仕方がなかった。何年か前にネットで調べたとき、南極行きの船は予約がとにかく難しく、基本的には一年前から押さえる必要があると書かれていた。僕が実際に予約したのは前年の4月。なぜ4月だったかというと、それまではエジプトのことで忙しかったからだ。それに、見ていた旅行代理店のツアーページにはずっと空きがあったので、帰ってから予約すればいいと思っていた。

そして、自分がまだ甘かったことを思い知った。代理店のページにいつまでも空きがあるのは当然だった。あれは外部の販売ページで、実際の船室在庫が自動更新されるわけではない。しかも「申し込む前にお問い合わせください」とはっきり書いてある。満室なら、問い合わせたときに「空いていません」と言えばそれで終わりだ。僕が予約できるかどうかなんて、サイト側には知ったことではない。

その仕組みを理解したのは、4月になって南極旅行の攻略を真面目に調べてからだった。まずは会社を選ばなければならない。自社で船を運航し、そのまま南極まで連れていってくれる会社なら、さらに代理店を挟む必要はない。代理店経由だと、どうしても余計に高くなりそうな気がしてしまう。いちばん安い船室でも1万ドル近いのに、そこからさらに中間マージンまで払ったら、いったいいくら損するのか。

南極へ行ける会社はそれなりに多く、攻略記事を読むと検討項目が次々に出てきた。南極での上陸には、上陸地点の受け入れ人数、グループ分け、上陸やクルーズに使うゾディアックボートの運用など、いろいろな制約がある。一般的には、船が大きく乗客が多いほど、上陸の運営にも制限が出やすい。大きな船は揺れにくく船酔いしにくい代わりに、上陸時間が短くなりがちで、小さな船はその逆。スタッフやガイド、乗組員と乗客の比率も大事で、スタッフが少なすぎるとサービスが落ちる。何日も船で暮らすのだから、これは無視できない。ほかにもあらゆる項目に評価があり、読めば読むほど頭が痛くなった。

最終的には、ある記事のおすすめを信じて Lindblad Expeditions を選んだ。値段は高めらしいが、サービスがとてもよく、かなりプロフェッショナルだという。そして、この会社を選んだ大きな理由がもう一つある。長年 National Geographic と提携していて、プログラムの正式名称が National Geographic-Lindblad Expeditions だったのだ。南極クルーズ会社のことは全然知らない。でも National Geographic なら知っている。名前を聞いただけで一気に信用できそうな気がした。

会社を決めたら、次は出発日を選ぶ。日程はたくさんあり、だいたい週に一本くらい。ただし、日によってルートが少しずつ違う。アルゼンチンから船で出発し、帰りも船でアルゼンチンへ戻るものもあれば、帰りは飛行機でチリへ向かうものもある。中には出発も帰着もチリで、往復とも飛行機というルートまであった。

当時僕たちが聞いていた話では、アルゼンチンと南極の間にあるドレーク海峡はかなり恐ろしく、世界でも特に危険な海域の一つだと言われていた。地図を見ると、その評判の理由も分かる。南米と南極の間にある海の通り道で、南極環流が通過する。南半球の高緯度にはもともと強い偏西風が吹き、南極の周囲にはそれを遮る大陸がほとんどない。強い海流に、強い風とうねりが重なり、ドレーク海峡は荒れることで有名になった。

僕は船酔いがかなりひどいので、できることなら避けたかった。でも、もう避けられなかった。予約した時点で、往復とも飛行機を使う船は都合のいい日程が満室。選べるのは2月末だけだったが、いろいろ考えてやめた。一方、往復とも船のプランは、船で行って飛行機で帰るプランより二日長く、数千ドルも高い。それなら安いほうを選ぶに決まっているし、ドレーク海峡で往復二回も苦しむ必要はない。結局、行きは船で南極へ向かい、帰りは飛行機でチリへ戻るルートにした。

その結果、アルゼンチンのビザが必要になった。往復ともチリから飛行機を使うだけなら、当時の僕の条件――中国のパスポートとアメリカのグリーンカード――では、チリにビザなしで入国できたからだ。

アルゼンチンのビザがどれだけ面倒だったかは前の記事ですでに書いたので、ここではもう繰り返さない。

とにかく、数々の困難を乗り越えて、ようやくウシュアイアに到着した。ツアーのスタッフが迎えに来てホテルまで送ってくれ、そのまま僕たちのパスポートを「没収」した。もちろん本当に取り上げられたわけではなく、渡航や遠征に必要な手続きを進めるため、一時的に預けたということだ。

その夜のウェルカムディナーで、ガイドが堂々と自己紹介した。名前はマイケル・ジャクソン。本人いわく、冗談ではなく本名らしい。彼が生まれたころ、歌手のマイケル・ジャクソンもまだ赤ちゃんだったので、あのスターにちなんで付けられた名前では絶対にない。

翌日は、近くの国立公園を見学した。正直、内容はちょっと薄めだった。

その後、ウシュアイアで有名な Les Éclaireurs 灯台を見に行った。

この島では、すでにたくさんのペンギンを見ることができた。ツアーのみんなもかなり興奮していた。でも二日後には、たぶんこの何十倍どころではない数のペンギンを見ることになるなんて、誰も想像していなかったと思う。

その夜、僕たちは南極へ向かう船、National Geographic Explorer に乗り込んだ。

南極への旅が、正式に始まった!

ドレーク海峡を越えて:南極上陸と極地探検

過酷なドレーク海峡を越え、南極で上陸、ペンギンやクジラとの遭遇、雪山登山、カヤック、ポーラープランジ、そして吹雪まで体験した。

乗船したものの、船はすぐには港を出なかった。風と波が強すぎて、ドレーク海峡を通れないという。当時僕が聞いた説明では、通常の航行時でも波は平均5メートルほど。10メートル未満なら検討の余地はあるが、10メートルを超えるとほぼ無理らしい。その夜はまさにそんな状況だった。本来ならそのまま出発する予定が、翌日の昼間まで延期になった。

そのため、その夜は乗客も船を降り、ウシュアイアの町で遊んでよいことになった。ただし深夜までには戻らなければならない。僕たちは降りなかった。ウシュアイアでほかに何をすればいいのか、本当に思いつかなかったからだ。かなりの人が町のバーへ飲みに行ったらしい。

翌朝になっても、まだ通航できなかった。かなり痛いが、どうしようもない。南極旅行がいきなり一日減ったような気がして、ちょっと損した気分だった。

その日の午後、ようやく船長から出発できるという連絡が入った。午後5時、汽笛が長く鳴り響き、船は港を離れてドレーク海峡へ向かった。

夜7時には、船内でシャワーまで浴びた。まだウシュアイア南側の水道を完全には抜けておらず、波も小さかった。当時の僕は、このあと何が起きるかまったく分かっていない。そのまま寝た。

夜中、部屋の中からガランゴロンと、何か金属が床を転がるような音が聞こえた。見ると、配られていた金属製の水筒が、柵の付いた棚から落ちて床を転がり回っていた。幸い、ベッドから降りなくても手が届いたので、拾ってバッグに押し込んだ。船がかなり揺れ始めていることに気づき、僕たちは酔い止めを飲んで、また眠った。

翌朝、起き上がろうとしたところで完全に限界が来た。その日の波は6メートルほどだったと聞いた。ドレーク海峡ではほぼ平均的なレベルらしい。でも僕たちには、すでに大きすぎた。

ベッドで起き上がっては倒れ、また起き上がっては倒れた。何度か繰り返した末、起床は正式に失敗。体を起こした瞬間にめまいが始まり、数秒耐えるとすぐ吐き気が来る。もう横になるしかない。持参した酔い止めはまったく効かず、ひどく酔ったまま。さらに酔い止めのパッチも用意していたので併用したが、それも何の役にも立たなかった。

もしかして薬が弱すぎるのでは、と疑い始めた僕たちは、一人の決死隊をこの階の受付まで送り、酔い止めをもらうことにした。その役は僕になった。十数秒歩き、5秒立って薬を受け取り、また十数秒かけて戻った。部屋に着いて最初にしたことは、トイレへ直行して吐くことだった。この旅で吐いたのはこれが初めて。でも最後ではなかった。

吐いたあとは少し楽になったが、やはり横になっていなければならない。起きたら即終了。船でもらった酔い止めを飲んでも、やっぱり効かなかった。僕たちは船酔い耐性が低すぎて、もう薬でも救えないらしい。当時の感覚では、横になってさえいればほぼ問題なかった。船が激しく揺れていることは分かるし、さっき自分がなぜ吐いたかも簡単に想像できる。でも起きなければ大丈夫。ところが座った瞬間、すぐに来る。耐えられても一分ほどで、もう吐かなければならない。立っていたら、せいぜい30秒だった。

そのままずっと部屋で、何もできず、ひたすら横になっているしかなかった。朝食を逃し、昼食も逃した。すると新しい問題が出てきた。寝ていれば船酔いはしないが、今度は低血糖になりそうな感じがする。仕方がないので、助けを呼ぶことにした。

電話の横の椅子に座り、船医へ電話した。先生が「こちらまで来られますか?」と聞くので、「一ミリも無理です。そちらから来てください」と答えた。すぐ行きます、と言ってくれた。座っていられる貴重な一分を使い、どうにか電話を終え、そのまままたトイレで吐いた。

戻って横になっていると、数分後に先生が来た。僕たちの状態を見て、「たぶんもう普通の方法ではどうにもならない。眠ってしまう酔い止めを一人一本注射して、ドレーク海峡を寝て越えるしかない」と言った。今回は船酔いした人が多く、その薬ももうすぐなくなるらしい。それでも僕たちは運がよく、少なくとも二本は残っていた。

二人とも一本ずつ注射され、そのまま眠りに落ちた。

翌日目を覚ますと、船はほぼドレーク海峡を抜け、正式に南極海域へ入っていた。いちばん分かりやすい変化は、波が小さくなっていたことだ!

これならもう動ける、と僕たちは起き上がった。正直、波が小さくなったとはいえ、まだ揺れている。船酔いは大幅に軽くなったが、症状は残っていた。

朝食を食べに行った。あまりにも長く何も食べていなかったからだ。一昨日の夜から今まで、昨日ベッドに寝たままクラッカーを二枚食べただけで、そのかなりの部分も吐いてしまった。ここで食べなければ、本当に餓死しそうだった。

レストランへ向かう途中、船内のあちこちにロープが張られていることに気づいた。最初は何に使うのか分からなかったが、レストランに着くと、中はまるでクモの巣。そこら中にロープがあり、みんなそれにつかまって歩いていた。なるほど、こう使うのか。テーブルや椅子の下にもフックがあり、今はロープを掛けて床に固定してある。最初の二日間に食事をしたときは、どれも普通に置かれていた。やはり波は相当ひどかったらしい。食事中も船は揺れ続け、ときどき厨房から大量の食器がぶつかる音がした。割れていないことを祈るしかない。

どうにか朝食を食べ切り、生きて部屋へ戻った。そして最初にすることは、もちろんまた横になること。船酔いはゲームのゲージみたいだった。外へ出て活動すると酔いゲージが増え、横になると減る。100%までたまると一気に減少する。つまり、吐く。

昼になると波はさらに小さくなり、活動できる時間も範囲も広がった。午後にはほぼ波がなくなり、すでに南極海域へ到達していた。この辺りでいちばん穏やかな海が南極海域だなんて、まったく想像していなかった。

あとで知ったのだが、船にはほとんど船酔いしない猛者が何人もいた。前日、波がいちばん激しいときにも外へ出ていて、ラウンジでこの写真を撮っていた。

この揺れ、船内のグランドピアノまで吹っ飛ばしている。というか、こういうものは床に固定しておくべきでは? 本当に『海の上のピアニスト』を再現して、好き勝手に滑らせていたのだろうか。それとも実は固定されていたのに、それでも飛ばされたのか。

僕たちの全行程はこうなっていた。

僕にはどの場所もだいたい同じに見え、正直どう区別すればいいのか分からないので、ここでは全部まとめて書くことにした。それに、図にある「ホエールウォッチング地点」も海上の固定地点ではない。いつ出会えるかはクジラ次第で、会えた場所がそのときの観察地点になる。

僕たちは船で生活していたが、南極へ行くには上陸作戦が必要だった。上陸作戦というのも、そこまで大げさではない。使った上陸艇はこれ。Zodiac(ゾディアック)のゴムボートだ。

上陸時、大きな船は沖に止まり、側面のドアを開ける。そこから直接 Zodiac に降りる。岸辺(そもそも岸辺と呼んでいいのか?)には桟橋など何もなく、完全に天然の海岸だ。まずスタッフが先に向かい、足を置けるプラスチック製の階段など、簡単な仮設設備を作る。そのあと僕たちが Zodiac で岸へ行き、階段を使って浅瀬に足を下ろし、そこから陸へ上がる。本当に上陸作戦そのものだった。

南極では、船を走らせて景色がよさそうな場所を見つけたら、そのまま自由に上陸できるわけではない。多くの南極探検クルーズは IAATO(国際南極旅行業協会)に加盟し、船同士で上陸地点と時間を事前に調整して、同じ場所に集中しないようにしている。一般的には、一つの上陸地点で同時に上陸する船は一隻だけで、陸上にいられる観光客は最大100人。乗客が二百人、三百人いる船なら、何組かに分かれなければならない。一組が陸上で活動している間、別の組は Zodiac でクルーズし、そのあと交代するのがよくある方法だ。

さらに、上陸地点ごとに細かい決まりがある。一日に一、二隻しか受け入れない場所もあれば、滞在時間が制限される場所もある。ペンギン、アザラシ、植生を守るため立入禁止になっている区域もあり、歴史遺産では一度に入れる人数が決められていることもある。乗客500人を超える船は乗客を上陸させることができず、クルーズのみとなる。

こうした予約や調整は、基本的に船会社と探検チームが裏で済ませるので、普通の乗客にはほとんど見えない。僕たちの船では、毎晩マイケル・ジャクソンが翌日の予定地を説明してくれた。ただし、南極の天候と海氷はすぐ変わるので、予約済みでも急に中止になったり、別の上陸地点へ変わったりする。簡単にまとめると、南極上陸は、事前に時間を決め、一地点に一隻、陸上は最大100人、さらに各地点独自の決まりが加わる仕組みだった。

上陸するときは、長い防水ブーツを履き、普段のズボンの上に防水パンツを重ね、ダウンジャケットを着て、さらに救命胴衣を装着する。まさに完全装備だ。南極では生態系の管理も非常に厳しく、ある上陸地点の生物や病原体を別の地点へ持ち込まないよう、特に靴、衣服、装備を通じた拡散を防いでいた。

つまり、ある上陸地点で防水ブーツが何かを踏んだら――いちばん多いのはペンギンのフン――船へ戻る前に必ずきれいに洗わなければならず、洗わなければ乗せてもらえない。もちろんスタッフが手伝ってくれる。靴以外の衣服や装備も、土や生物の残りが付かないようにし、付いた場合は帰船後に清掃する必要がある。そのため船から貸し出されたトレッキングポールも、地面に突いた以上、戻るときにきれいに洗わなければならなかった。

僕たちの探検チームは、さすがプロだけあって、ルールをかなり厳格に守っていた。ただ旅の途中、ルールを守らず勝手に上陸しているように見える船にも出会った。ガイドいわく、「この地点は僕たちが予約していて、同じ時間に別の船が入る話は聞いていない。だから、あの船はたぶん取り決めに違反している」とのこと。環境保護はみんなの責任ということで、僕たちはその船を通報した。

最初の上陸地点では、大量のアザラシを見た。少しオオカミの群れっぽいところがある。普段は地面に寝そべり、だらだら気持ちよさそうにしているのに、一頭が鳴き始めると、何頭も一緒になって空へ向かって吠え始める。聞いた話では、群れのボスの座を争っているらしい。

その後の上陸地点では、大量のペンギンを次々に見るようになった。

南極で撮った最初の記念写真がこちら。

ペンギンがフンをするところを見れば分かるが、あれは噴射式だ。細長い白線が後ろへ飛び出し、優雅な(本当にその表現でいいのか?)放物線を描く。これで、巣の周りにある白い線がどうやってできたか分かっただろう。

ここでは、ペンギン同士が大げんかする最高の動画も撮れた。ただ、ここでは動画を載せにくいので、また今度ということで。

Zodiac に乗り、かなり近くからクジラも観察した。これは完全に運次第だ。まず遭遇できるかどうか自体が分からない。大きな船はクジラが現れた位置に合わせて航路を調整し、彼らがよく活動する海域へ向かう。そうした場所が自然とホエールウォッチング地点になる。それでも、どこまで近くで見られるかはやはり運だった。

僕たちはかなり運がよかった。小舟がクジラの進む方向に合わせてゆっくり動いていると、クジラがちょうど前方の Zodiac の横へ泳いでいき、その周りを回り始めた。

前の船は本当に運がいいな、と感心していたら、そのクジラが今度はこちらへ向かってきた。そして僕たちの小舟のすぐ横に浮上した。船べりから二メートルも離れていなかったと思う。ひれが水面から出て、手を伸ばせば届きそうな距離だった。

動画も撮ったが、中には同行者たちの歓声がずっと入っている。最後の写真はその動画から切り出したので、画質は少し悪い。

正直、ここまで近いホエールウォッチングは、よく考えると少し危なかったのでは? 相手は「ただの」ザトウクジラとはいえ、全長12メートルを超える。僕たちの小舟は長く見積もっても6メートル。その尾びれが一度うっかり動けば、こちらは簡単に吹っ飛びそうだ。まあ、たぶん、おそらく、今までそんな前例はなかったのだろう。

大きな船からはシャチも何度も見た。

ある上陸では、山にも登った。登っている最中は死ぬほど疲れたのに、あとで聞いたら標高は200メートルあまり。友達に話すと、第一声はみんな同じだった。「200メートルで山って呼べるの? それ、ただの大きな土の山では?」

普通ならその通り。でも南極では、普通ではない。

まず、山頂からの全景はこうだった。

山頂で記念撮影。

そして登山道はこうだった。

写真の通り、道などなく、雪の踏み跡が一本あるだけ。ここで登るなら完全装備が必要で、ダウンジャケット、タイツ、防寒パンツなど全部着なければ、凍えてしまう。そんな重装備だから、半袖短パンで歩く普段の登山より体力を何倍も使う。それだけでも大変なのに、この雪道はかなり歩きにくい。長い区間で雪の深さが30センチほどあり、一歩踏み込むたびに、足を引き抜くだけで力が要る。しかも足元に何があるか分からない。踏んだ先の雪の下に氷があれば、そのまま滑って転ぶ。登っている間はずっと警戒し、体幹に力を入れ、無事に歩けるようにしなければならなかった。

とにかく、山頂に着いたころにはもう限界だった。登り始めたときは、マイケル・ジャクソンの後ろに約50人の大集団がいた。山頂に着いた時点では、残っていたのは4人だけ。僕たちが写真を撮って下り始めるころ、後ろからほかの人たちも少しずつ到着した。序盤、ガイドの助言は「もう少しです、頑張って」だった。さらに後ろの区間では、「戻ったほうがいいです。時間に間に合わないかもしれません」に変わっていた。

南極の歴史的な遺構もいくつか見た。ガイドは面白い簡略版で説明してくれた。「1958年より前に残されたものは歴史遺産、1958年よりあとに残されたものはゴミ」。1957〜58年の国際地球観測年ごろを境に、南極での活動が大きく変化したからだという。初期探検時代の小屋、設備、物品などには歴史的価値があるかもしれない。一方、その後に科学基地が大量に作られてから生じた廃棄物は、「南極に残っている」というだけで自動的に遺産になるわけではなく、原則として環境保護のルールに従って片づけるべきものだ。

つまり南極では、ゴミをいつ捨てたかがとても重要。十分昔に捨てれば、ゴミもいつかお宝になる。

いくつかの遺構は、すでにペンギンに占領されていた。

まだペンギンの侵攻を受けていない遺構もあった。

どう考えても、この遺構は危険な建物では? ガイドは「中へ入って自由に見てもいい。でも崩れても責任は取りません」と冗談めかして言った。僕は入った。幸い、南極にはたぶんシロアリがいないし、地震もおそらく少ない。そうでなければ、この家はとっくに崩れていただろう。

船では、カヤックやポーラープランジといった極地アクティビティも用意されていた。

まずはカヤック。これは最高に面白そうだった。南極で、砕けた氷が浮かぶ水の中を二人乗りカヤックで進む。聞いただけでテンションが上がる。

この活動は天候の条件が非常に厳しい。何しろ南極は危険だ。ガイドによると、まず予定地まで行き、天候が許せば実施、駄目なら諦めるしかない。到着してみると、天気は最高。やるしかない!

予定地といっても、固定施設など何もなく、南極大陸沿岸の普通の海域だ。たぶん地形の関係で、昔から穏やかになる確率が高い場所なのだろう。この日は快晴で風もなく、カヤックにぴったりだった。スタッフが先に海へ出て、広い範囲をブイで囲み、「ここから外へ出ないでください」と説明したあと、僕たちも船を降りた。

僕たちのカヤックはこんな形だった。

実際に漕いで砕氷エリアへ入ると、こんな感じ。

記念撮影もした。

次はポーラープランジ。カヤックをした砕氷エリアの近くに、臨時の飛び込み場所を作った。実際には、大きな船の出入口に Zodiac を二隻並べ、その間に十平方メートルもないプラスチック板を、水面から約一メートル下に設置しただけだ。参加者は Zodiac の船首に立ち、思い切って海へ飛び込み、板まで泳いで立ち上がり、Zodiac へ戻って船内へ帰る。

これは泳げる人の場合。泳げない人は、そのまま勢いよくプラスチック板へ飛びついてもいい。全身が海水に入れば成功扱いになる。

聞くだけでも刺激的だ。案の定、参加するために追加で二枚の免責同意書へ署名した。もはや生死状みたいなものだ。この活動は高血圧や心臓病などとは明らかに相性が悪そうなのに、乗客140人あまりのうち、約70人が参加した。僕が見る限り、船内で僕と同じくらいの年齢の人は極端に少なく、一桁しかいなかったと思う。ほぼ全員が少なくとも10歳、場合によっては20歳以上年上で、白髪の人も大勢いた。この50代、60代の探検家たちは、本当に僕よりずっと強い。

海水温は約2℃。僕は水へ飛び込む瞬間がいちばんきついと思っていたが、実際は全然違った。水に入るのは一瞬で、戻るまで全部合わせても20秒ほど。我慢すれば終わる。最もつらいのは順番待ちだった。水着一枚で南極の冷たい風にさらされながら立って待つ。これ自体はまだよく、数分なら耐えられる。列の最初ではサンダルを履けるが、Zodiac のそばでは船内に置かなければならず、しかも前にはまだ何人かいる。足元にはタオルが敷かれているものの、氷水をたっぷり吸っていた。僕はその上に裸足で二分間立ち、足が凍って取れそうになった。

最終的に、無事飛び込み成功。残念ながら証拠写真はない。

船へ戻ると、先生がそばにいて、体をすぐ温めるための特製コーヒーを一人ずつ渡してくれた。結局、風邪もひかず、何事もなかった。

上陸先の景色だけでなく、船から見る風景も驚くほど美しかった。雲が晴れ、月が明るく、澄み切った空と海には何の飾りもいらない。これほど透き通った海と青空に、何が勝てるだろう。

景色だけでなく、船内生活もかなりすごかった。船は相当豪華だ。ラウンジのバーは毎日午後に開き、夜は無限に営業する。客がいる限り、ずっと開いている。しかも飲み物はすべて飲み放題。唯一残念だったのは、僕が目をつけていたノンアルコールドリンクがずっと品切れで、下船するまで補充されなかったことだ。見るからにおいしそうな飲み物は、やはり売り切れるのも早い。さらに船内にはサウナ、スパ、ガラス張りのパノラマジムまであった。設備が強すぎる。

やがて旅も終盤に入った。船はキングジョージ島へ戻った。そこには空港があり、飛行機でチリへ向かう予定だった。

そして当然のように、また問題が起きた。

ここの空港は非常に簡素で、普段イメージする民間空港とはまるで違う。滑走路も普通の舗装路には見えず、僕が見た限りでは全部砂利でできていた。ここで離着陸するのはかなり難しそうだ。施設は簡素で、南極の天気は急変する。そのためフライトには高い視程と適切な天候が必要で、晴れているか、少なくとも視界が一定以上確保できなければ運航できない。

ガイドによると、過去の経験では、一日に飛べる時間帯が数時間しかないこともあるらしい。だから最終日はずっと船で待機し、運航できると確定した時点で Zodiac に乗って空港へ向かう予定だった。

ところが、出発予定の日は一度も運航可能な時間帯がなく、飛べなかった。それだけでなく、その時点の観測では翌日も飛べない可能性があった。本来ならそのまま待つところだが、当面は確実に無理だと分かったので、船長がもう一度上陸することを決めた。おかげで、追加の上陸機会が手に入った。

そして、さらにたくさんのペンギンを見た。

よく見ると、これらの写真はそれまでのものと大きく違う。以前の写真は全部、晴天だった。そう、ここ数日、南極では船上でも上陸中でもずっと快晴で、天気は最高だった。運がよかったのか悪かったのか分からない。活動するには間違いなく非常に便利だったが、まったく南極らしくない。

今日は違う。完全な吹雪だ。寒く、体感温度はそれまでよりずっと低い。冷たい風が骨まで刺さり、南極の厳しさを本当に感じた。

船の多くの人も同じことを言っていた。「これこそ南極だ」。それまでの晴天で、南極は穏やかな場所なのだという現実離れした幻想を抱いていたらしい。

船へ戻ると、みんなさらに満足していた。これで南極の吹雪まで体験した。南極旅行は完全にやり切った感じだ。

その夜、ガイドが「明日の朝は、おそらく飛べます。とりあえず寝てください。飛べるようなら起こします」と言った。

翌朝4時、僕たちは叩き起こされた。急いで朝食を食べ、Zodiac でキングジョージ島へ向かい、上陸作戦をして、空港へ行き、飛行機を待った。

前にも書いた通り、ここを空港と呼ぶのは少し難しい。周囲には一応「建物」と呼べるものがあり、飛行機が着陸する直前まで中で待った。そして、この場所は清掃が非常に大変だと説明された。環境保護のため、必要がなければトイレは使わないでください。中身はチリまで持っていってください、と。

そのあとバスで搭乗地点の近くまで運ばれ、待合所で飛行機を待った。待合所といっても、プラスチック製の大きなテントが二つあるだけ。外では冷たい風がうなり、テントの中までゴーゴーという音が聞こえた。そしてここまで来ると、トイレという概念そのものが消滅していた。

それでも飛行機は無事に来た。一機は白黒の塗装で、ガイドから「ペンギン飛行機」と呼ばれていた。その飛行機が離陸すると、周りの人たちが大騒ぎして「ペンギンが飛んだ!」と叫んだ。こうやって自分たちで盛り上がる理由を作るのも、昔から変わらない伝統らしい。

僕たちは二便目の飛行機に乗り、チリへ向かった。

これで、南極への旅は正式に終了した。

プエルト・ナタレスから帰宅へ:南極旅行、最後の道のり

南極からの便が約40時間遅れ、船上で必死に旅程を変更。プエルト・ナタレスでチリに入国し、ようやく本当の帰路についた。

大変な帰宅の旅は、チリから始まる。

いや、本当はもっと前から始まっていた。航空券を取ろうとした瞬間から、このややこしい一連の出来事はもう始まっていたのだ。

南米の航空券は本当に取りにくい。行きのブエノスアイレスはまだよかった。アルゼンチンの首都だし、「どうせ行くなら」の精神で乗り継ぎを分解し、先に二日ほど観光することにしたからだ。そのおかげで便の選択肢が増え、予約もかなり楽になった。もしウシュアイアまで一気に飛ぼうとしていたら、行きの時点ですでに相当面倒だったと思う。

一方、チリ側では、アメリカへ帰る乗り継ぎ便をプエルト・ナタレスという小さな町から始める必要があった。南極のキングジョージ島からチリ本土へ戻るチャーター便が最初に着くのがここなので、その先の帰路もここからつなぐしかない。

そして、この航空券がまた……。

事前にネットで調べると、Expediaのような旅行サイトについてかなり強い悪評がいくつか出てきた。予約したはずなのに、現地へ行ったら実は発券されていなかった、という体験談まであった。さすがに話が極端すぎて本当かと思ったが、ネット上にそういう事例があったのは確かだ。少し怖くなり、航空会社の公式サイトから直接買うことにした。

当時見つけられた中南米系の選択肢は、主にCopa AirlinesやLATAM Airlinesなどだった。一社ずつ確認し、United AirlinesやDelta Air Linesといったアメリカの大手も全部見て、ようやく条件に合うルートをいくつか見つけた。

ただし、そのどれにも同じ問題があった。僕たちが見つけた範囲では、チリのプエルト・ナタレスからアメリカ国内まで、全区間を一社だけで運航するルートが一つもなかった。どの案も、中南米内――正確にはアメリカ国外――は中南米の航空会社が運航し、アメリカに入ってからアメリカの航空会社へ切り替わる。

それ自体は合理的だし、もともと乗り継ぎ航空券として買うのだから、理論上は大きな問題ではないはずだった。しかし……。

座席指定の時点で嫌な予感がした。中南米側の公式サイトで買うと、アメリカの便の座席が選べない。逆も同じだった。今回の旅程は中南米区間のほうが長く、そちらを優先したかったので、最終的に中南米系航空会社のサイトで買うことにした。アメリカ国内の席はランダムでも仕方ない。

ところが、座席指定だけならまだよかった。指定せず次へ進み、最後の画面まで行って購入しようとすると、注文エラー。何度試しても、どうやってもエラー。完全に詰んだ。

結局どうしようもなく、Expediaで予約することになった。最初からそうしておけばよかった。早く諦めれば早く楽になれたのに。

しかし、これはまだ災難の始まりにすぎなかった。約四か月前に予約した全旅程は、プエルト・ナタレスを出発し、チリの首都サンティアゴで乗り継ぎ、アメリカに入ってロサンゼルスでさらに乗り継ぎ、最後にサンフランシスコへ戻るというものだった。

予約してからというもの、この旅程は一度も落ち着かなかった。僕たちの便は、二週間に一度くらいの勢いで時間が変わった。一回ごとの差は一時間程度の微調整でも、回数が多すぎて、だんだん時刻がおかしなことになっていく。最初は毎回ネットで確認していたが、そのうちもう無理だと諦めた。変更されすぎである。ただし、一つだけありがたい点があった。当時のシステムでは、変更を受け入れなければ、全旅程を無料で変更できたのだ。

これが本当に命綱になった。

前の南極の記事にも書いたが、南極からチリへ飛ぶ予定だった飛行機が予定時刻に出発できず、約40時間遅れた。その結果、その先の便をすべて取り直す必要が出た。僕たちの船を運航する旅行会社にも航空券の手配サービスがあり、こういう状況ではそこに任せたほうがずっと楽だったと思う。僕は利用していないので質は分からないが、たぶんサービス自体はよかったのだろう。ただ、値段が……。チリからアメリカまでの全区間をエコノミーで買っても合計1,000ドル台なのに、手配サービスだけで500ドル。僕には無理だった。

そこで南極の船上で、飛行機の遅延が確定したあと、この無料変更の権利を使った。しかも小さな変更ではない。日程を丸一日後ろへずらし、アメリカへの入国地点まで変えた。ロサンゼルス経由の元のルートは、変更を重ねて時刻があまりにもひどくなっていたので、そこにこだわる理由もなかった。

ただし、変更作業もかなり大変だった。ネット上の操作自体は簡単だ。ネットさえあれば。船ではStarlinkを使っていた。無料Wi-Fiもあったが、実質ないのと同じ。午前3時にほかの誰も使っていない時なら、Googleのトップページがぎりぎり開くかもしれない、というレベルだった。有料Wi-Fiはいくつかプランがあり、僕たちは一番高いものを買った。すごく速いわけではないが、普通のネットとしては使えた。

ところが、今度は状況が変わった。飛行機が遅れ、全員が予約を変更しなければならなくなったため、船が全員にネットを開放した。その結果、全員にネットがあるということは、誰にもネットがないということになった。スタッフは船内で何度も、「もう変更が終わった人、あるいは変更が必要ない人は、今はネットを使わず、必要な人に譲ってください」と案内していた。

午後10時ごろ、翌日も飛べないと確定したところで作業を始め、午後11時ごろには何とかすべて変更できた。

僕たちは一日しか後ろへずらさなかった。かなり攻めた判断だったと思う。もし翌々日にも飛べなければ、もう予測するのは諦め、飛べるようになってから一度だけお金を払って全部変更しよう、と考えていた。しかし実際には、翌日も飛べなければ船そのものがアルゼンチンへ戻る予定だった。そうなれば、もう日付変更どころではない。チリ発の航空券を、どうやってアルゼンチン発に変えろというのか。

そして三日目、無事に飛行機が飛び、僕たちはチリへ到着した。船に乗っていた側は、実はそこまで落ち込んでいなかった。特に白髪の年配客たちは、見たところまったく気にしていない。むしろ南極にもう数日いられるなら歓迎、という雰囲気だった。追加された一日には船長が上陸をもう一回組んでくれたので、みんなかなり満足していた。

でも、チリで待っていた次のツアーの人たちは、当然そんな気分ではなかった。僕たちの次には、以前書いた、チリから飛行機で往復するツアーが続く予定だった。もともと長くない日程なのに、いきなり二日短縮である。飛行機で往復すればドレーク海峡を避けられると思っていたが、まさかこんな落とし穴があるとは思わなかった。

僕が聞いた案内では、提示された選択肢の一つは、短縮後のツアーに参加しない場合、全額返金に加えて、次回の予約で使える約1,000ドル分のクレジットを受け取る、というものだった。ないよりはましだと思う。ただ、1,000ドルは大きく見えても、チリまで往復する航空券代すら賄えないことが多い。今回は完全に来ただけで終わるし、休暇の日数もきっちり消費している。

最終的に僕が聞いた話では、140人以上いた乗客のうち、返金を選んだのは4人だけで、残りは短縮された日程でも出発したらしい。二日減った旅で十分楽しめたのかは分からない。さすがに少しかわいそうだった。

僕としては、予約時にこの日程が満席で本当によかった。空いていたら、僕もそちら側だった。これも運だったということだろう。

ここは真面目に注意しておきたい。南極へ飛行機で往復するツアーを予約するなら、最終的に予定どおり出発できない可能性も考えておいたほうがいい。多くの場合は数時間の遅れで済み、僕たちの時ほど極端にはならないのかもしれない。それでも長時間飛べない状況に当たれば、旅程は完全に崩壊する。

僕たちは午前10時ごろ、プエルト・ナタレスに到着した。ここでチリの入国審査を受ける。空港はとても小さく、かなり簡素だった。もちろん入国審査自体はあるが、普段の国際空港で見るような、閉じられた審査エリアではなかった。

飛行機を降りると、全員まとめて空港の大きな部屋へ案内され、入国審査の列に並んだ。ただ、一列では収まりきらず、列が部屋の中をぐるっと回り始めた。そこで問題が起きる。入国審査を終えた先、つまり空港内部へ入るためのドアには、見たところ目の前に係員が立っているわけでもなく、近づけば勝手に開く自動ドアがあるだけだった。そして、ぐるっと回った列がそのドアのすぐ前を通る。

少なくともその場で僕の目に見えた範囲では、誰かがその気になって自動ドアを通れば、すぐには誰にも止められなさそうに見えた。一瞬、「これ、ここで密入国成立じゃない?」という妙な錯覚に陥る。

でも、次の問題は、そもそもなぜチリへ密入国する必要があるのか、ということだ。この空港に南極発のチャーター便以外の国際線があるのか、僕は知らない。もしないのなら、南極を経由してチリへ密入国しようと思いつく時点でもうすごい。そこまで本気なら、もう好きに入ってくれ、という気分である。

とはいえ、考えてみれば、南極からこのチャーター便で戻る乗客については、船側が事前に情報を確認し、提出していた。少なくとも通常なら、全員の渡航書類はもっと前にチェックされていたはずだ。そうでなければ、アルゼンチンで船に乗せてもらえなかっただろう……。

次の飛行機は午後2時発だった。町はとても小さく、空港から中心部まで車で約5分。少し考えたが、結局町へは行かなかった。26インチの大きなスーツケースを引いて歩くのは面倒だし、知らない土地で言葉も通じない。わざわざ自分から問題を増やす必要はない。

その後、僕たちは無事に帰りの飛行機へ乗った。最後の最後で、ようやく新しいトラブルは起きず、そのまま家へ帰ることができた。これで南極旅行は本当に完結した。

春の東京:桜と富士山、そして逃した日帰りツアー

ツアーを逃すハプニングから始まり、上野や秋葉原を歩き、最後は富士山までしっかり見られた春の東京旅。

今年の3月、僕たちは桜を見るために日本へやって来た。

旅行記では毎度おなじみ、まずはビザの話から。日本のビザはかなり取りやすかった。少なくともアメリカで申請した僕の場合はそうだった。必要書類は分かりやすく、提出も審査もスムーズ。とにかく何の問題もなく、すぐに発給された。

東京では日帰りツアーを二つ予約していた。当初の予定は、1日目に富士山、2日目に東京近郊のいろいろな場所、3日目は自由行動だった。

飛行機が着いた時にはもう夕方6時。空港から市内へは空港特急を使うべきで、タクシーは高いし渋滞で遅いからやめたほうがいいと聞いていた。そこで切符を買い、5分後に出る列車になんとか乗り込んだ。

ホテルに荷物を置き、まずは食料探しへ。24時間営業のコンビニを見つけて、お菓子やパンを適当に買った。ホテルで食べてみると、うますぎる! さすが日本のお菓子、レベルが高い。完全に僕個人の好みだけど、適当に選んだだけなのに、アメリカで食べたほとんどの菓子店を余裕で倒せそうな味だった。

そのまま光の速さで就寝。もう若くないので時差には勝てない。しかも翌日は朝8時集合のツアーだ。念のため、集合場所まで徒歩15分のホテルを取っていた。でも朝7時に起きなければならない問題は、それでは解決しない。

そして翌朝、今回最大のトラブルが発生した。

かなり早めに出たのに、案の定、途中で少し迷った。集合場所に着いた時点で出発まであと10分。普通なら余裕のはずだった。だが現地を見て、僕たちは固まった。

想像していた集合場所は、ガイドが小旗を持ち、紙を見ながら点呼している光景。現実は、同じ会社のガイドが20人ほどいて、全員同じ旗を持っているか、そもそも旗を持っていない。そして狭い交差点の端に、体感1万人くらいが詰め込まれていた。

大げさではなく、人混みを進むには本当に押し分ける必要があった。歩けば誰かにぶつかる。それが普通だった。

10分間探し続けたが、僕たちのガイドは見つからない。そもそも誰なのか分からず、連絡先も写真もない。予約画面を別のガイドに見せても、「見たことがない、分からない」と言われた。

そして朝8時になり、人々は次々と出発していった。最後にガイドが一人だけ残っても、僕たちのガイドは見つからなかった。

その時、なぜか急にメールを確認する気になった。すると昨夜届いていたメールに、今日の詳しい案内が書かれていて、ガイドのWeChatまで載っていた。すぐに追加すると、予定どおり出発し、僕たちのためにさらに2分待ってくれたらしい。でもバスには50人以上いる。いつまでも待てるわけがない。

こうして僕たちは、その日の富士山ツアーを逃した。

とはいえ大問題ではない。同じツアーを3日目に取り直し、この日は自由行動に変更した。まずはホテルに戻って寝た。

昼になってから、食事ついでに散歩へ出た。正直、行き先は何も決めていなかった。近くの有名スポットをネットで検索し、地図に全部ピンを立てて観光開始。

最初に来たのは上野恩賜公園。

この時は、ここが有名な花見スポットだとは知らず、単に花が見られる公園だと思っていた。あとで調べると、東京でも特に有名な桜の名所の一つらしく、園内には東京国立博物館や上野動物園などの文化施設も集まっている。そりゃ人が多いわけだ。ただ、肝心の桜はまだほとんど咲いておらず、見応えはいまひとつ。そのまま園内をぶらぶら歩いた。

続いて、二次元宇宙の中心こと秋葉原へ。東京を代表するアニメ・漫画・ゲーム文化の集積地で、関連ショップやテーマカフェ、大型家電店が至るところにある。もともとは電気街として有名で、そこから世界的なオタク文化の聖地の一つへと発展したらしい。この歴史を聞くと、『STEINS;GATE』の秋葉原の大物、フェイリス・ニャンニャンを思い出す。

秋葉原では何軒もの店を回ったが、中には成人向けの店もかなりあった。さすが二次元の楽園。

夜は銀座へ行き、デザイン性の高そうな店を適当に見て回った。中にはエレベーターが一番有名だという店もあったのだが、周辺をぐるぐる探しても結局見つからなかった……。

これで1日目は終了。

2日目は別の日帰りツアーに参加し、近郊のいくつかの場所を回った。前日の反省を生かし、早い段階でガイドのWeChatを追加して、今度は無事に合流できた。この会社には集合場所が複数あり、この日の場所も人だらけ。事前に連絡先を追加していなければ、たぶんまた見つけられなかった。

正直、このツアー自体にはそれほど大きな見どころはなかった。唯一印象に残ったのが川越氷川神社だ。縁結びにご利益があると言われ、いつも多くの人がお参りに来るらしい。特に有名なのが、釣り竿で鯛の形をしたおみくじを釣り上げる「鯛みくじ」。文字どおり何列もの棚がびっしり埋まっていた。

近くには氷川町もある。川越氷川神社がある地域の名前で、氷川町そのものが独立した観光スポットというわけではない。普通は神社を参拝し、そのついでに新河岸川沿いを歩く。桜の季節は特にきれいらしい。

写真を見れば分かるとおり、ここも桜の名所だ。ただし、この時はまだほとんど咲いていなかった。

これで2日目も終了。

3日目、いよいよ今回の本命、富士山を遠くから眺める日が来た。1日目の失敗と2日目の経験をフル活用し、かなり早く待ち合わせ場所へ。人で埋まる前にガイドと会え、そのままバスに乗り込んだ。

このガイドがかなりすごかった。中国人なので中国語は当然ネイティブ。日本でガイドをしていて、運転手と話す日本語も非常に流暢だった。さらに以前は韓国で長年働いており、韓国語も流暢。この日の乗客は半分が中国人、半分が韓国人、運転手は日本人で、彼は三つの言語を実に滑らかに切り替えていた。途中で道に迷ったヨーロッパ人にも英語で少し話しかけていた。ただ、英語は普通に会話できるほどではなく、結局僕たちが通訳することになった。本人は、英語をしっかり勉強して、いずれ欧米人向けのツアーも担当したいと言っていた。特にアメリカ人にはチップ文化があるから、副収入も増やせるらしい!

予定どおり出発。バスが走り始めると、ガイドはさっそく僕たちの期待値を下げ始めた。富士山はなかなか見えないらしい。ガイドの話では、統計上、比較的きれいに全体が見える日は平均して年間約140日しかないという。今日の天気予報もかなり厳しそうなので、期待しすぎないでほしいとのこと。そのために、残念だった時の慰め用の小さなプレゼントまで用意していた。

ところが、バスの中から普通に見えた。

ガイドも「まさか見えるとは。今日は本当に運がいい」と驚いていた。前の2日間の客はこんなにきれいに見られず、特に一昨日は一日中曇りで、何も見えなかったらしい。

みんな大喜びで、バスの中からさっそく写真を撮り始めた。いや、このガイド、期待値コントロールがうますぎる。

最初は箱根で水上の鳥居を見て、箱根海賊船に乗る。道中、ガイドによると、毎朝船のチケットを争って確保し、取れた便に乗るしかないらしい。運が悪いとまったく取れず、その場合はバスで次の場所へ移動する。同じようなツアーがほぼ同時刻に到着するので、取れるかどうかは運次第。ここでも期待値コントロールが始まった。

ただし、ちょっとした裏技がある。本来ならバスはそのまま山の上へ行き、駐車場に停まる。その後、客が神社を見ている間に、ガイドだけが山を駆け下りてチケットを買いに行く。毎朝バスが着くたび、全ガイド参加の800メートル走決勝が始まるわけだ。

日本では通常、決められた手順にかなり厳密に従うので、基本的にはこの流れになる。ただ、ガイドと運転手の関係が良ければ、山へ上がる前に下の駐車場で一度だけ停まり、ガイドを先に降ろしてから上へ向かってくれる可能性がある。そうすればチケットを取れる確率は一気に上がる。ただし下の駐車場は狭く、バスを停めにくいうえ、運転手の通常ルートにも入っていない。やってもらえるかどうかは、完全にガイドの人望次第だ。

その日は運転手が協力してくれて、山の下で停まってくれた。おかげでガイドは全力疾走せずにチケットを確保。期待値コントロールに人間関係のコントロール、このガイドはあらゆる管理能力が高すぎる。

まず山の上の神社を参拝し、その後、陸から水上の鳥居を見た。とにかく人が多い。写真を撮る時は、自分の体でほかの人を隠すしかなかった。

そして、この箱根海賊船に乗船。

湖の上から角度を変えて、もう一度鳥居を見る。

次は大涌谷へ。この日の山頂は霧に包まれ、強風が吹き荒れていた。その後、名物の黒たまごを食べてみたが、普通のゆで卵と何が違うのか、正直まったく分からなかった。

続いて昼食。ガイドが事前に注文してくれているので、着いたらすぐ食べられて非常に速い。ただし料金は自腹。A3ランクの和牛らしい! 僕にランクの違いが分かるはずもないが、確かに口の中でとろけた。

昼食後は、富士山を見るのにちょうどいい忍野村へ。

いろいろな角度から山を見る。

雲をまとったバージョンもあった。

これでツアーは終了。午後の帰り道、ガイドは用意していた小さなプレゼントを結局みんなに配ってくれた。僕たちの番では、1日目にツアーを逃した埋め合わせとして、こっそり一つ多くくれた。それでも彼は、「あのツアーは逃して正解でしたよ。一昨日の組は本当に何も見えなかったけど、今日は全部見えた。今日は富士山がかなり協力的でした。ツアーには乗り遅れたけど、本当に見るべきものには乗り遅れなかったんです」と言った。

夜は、いろいろなスタイルのうなぎ料理を出すという店へ行った。関西風と関東風を同時に食べ比べた。聞いた話では、関西風はより香ばしく、関東風はより柔らかいらしい。今回食べた関西風は、たしかに以前食べた柔らかいうなぎとは少し違っていた。

これで東京の旅は終了。

関西三日間:京都・奈良・神戸・大阪を駆け回る

大阪を拠点に京都、奈良、神戸まで走り回り、寺社と桜と街の名所、そして食を楽しんだ三日間。

大阪にいた数日間は、とにかく忙しかった。大阪だけでなく、周辺の京都、奈良、神戸まで全部回った。

1日目は、まず京都へ。

最初の目的地は清水寺。

清水寺は山の上にあり、そこから京都の市街地を見渡せる。

その後、近くの二年坂と三年坂へ行き、有名な法観寺五重塔を見た。

近くには和風のスターバックスもあり、畳に座ってコーヒーが飲める。

そして今回、京都で一番行きたかった伏見稲荷大社へ。ネットでは『原神』の鳴神大社のモデルだという説もあり、中には雷神の瞳が大量にありそうだ。

目の前の景色は『原神』感が強すぎた。同じとまでは言えない。ただ、ほぼ何も違わないだけだ。

続いて奈良へ行き、奈良で一番有名な生き物、鹿に会った。長年観光客にもまれてきた奈良の鹿は、人をまったく怖がらない。むしろこっちが怖い。手に食べ物があれば、そのまま首を伸ばして食べる。バッグにしまえば、今度はバッグに頭を突っ込んで奪う。途中では、鹿が人を追いかけ回す場面を何度も見た。強すぎる。

幸い、僕たちは食べ物を持っていなかった。

そのまま東大寺に到着し、後ろの鹿軍団をようやく振り切った。

一通り歩いたあと、近くの公園を散策した。そこで今回の旅で一番きれいだったかもしれない桜の木を発見。空一面を舞っていたのは雪ではなく、桜だった。

こうして奈良観光は光の速さで終了。

2日目は神戸へ。まず神戸ポートタワーに行き、エレベーターで展望フロアまで上がった。そこには撮影用の札がいろいろ置かれていた。その中に「神戸ビーフ最高」と書かれたものがあった。当時の僕は日本語A0レベル。なぜか「神戸で一番高いビル」という意味だと思っていた。ビーフをビールと勘違いしていたわけだが、もっと大事な問題として、ビールは建物ではなくbeer。建物はビルだ。二段階で間違えている。

上から神戸港の全景を撮影。

下に戻り、神戸港の有名なランドマークも撮影した。ここも人が多かったので、いつもの作戦を採用。前の人が交代する一瞬に撮って、そのまま撤収した。

昼は近くの店で適当に食べた。本当は適当に済ませたくなかった。神戸で、神戸牛を売りにする店に入ったのだ。ところが、神戸にある神戸牛の店なのに神戸牛がなかった。時間がなかったので、結局適当に食べるしかない。

その後は北野異人館街へ。兵庫県神戸市中央区北野町の斜面に広がる歴史地区だ。1868年に神戸港が開港すると、多くの外国人がこの辺りに住み始め、明治・大正期の洋館が数多く残された。

この近くで車を待っている時、和牛寿司を売る小さな店も見つけた。僕のA0レベルの日本語では当然まともに会話できないので、指を差して注文するだけ。とんでもなく高く、記憶では一貫あたり米ドル換算で10ドル以上。円で書かれた値段は、後ろにゼロがずらっと並んでいた。職人さんは生の和牛を酢飯に載せ、バーナーで炙る。味については、たぶん僕に良し悪しを判断する舌がなかったのだと思う。

次は六甲山の麓にある有馬温泉へ。ここには有名な太閤の足湯がある。僕は面倒なので絶対に入らなかったが、同行者には僕よりずっと積極的な人もいた。

近くには温泉寺の御祖師庵もあったので、上まで登って見てきた。

これで神戸の一日は終了。

3日目は大阪観光。大阪に来て3日目にして、ようやく大阪を観光する。日本を代表する食の街だけあって、大阪観光で最も大切なことの一つは、やはり食べることだ。

数日間で、すき焼き、寿司、牛丼、うなぎ飯などを次々に食べた……。

その中で、こんな不思議な鍋にも出会った。

鍋が、紙一枚なのだ。

この分厚い紙はかなり優秀だった。IHの上で1時間以上加熱し、箸であちこち突いても破れない。もし破れたら、たぶん重大事故だ。

食べる以外にも、大阪城など有名な場所をいくつも回った。かなり遠くからでも、城内の天守閣が見える。まず堀を渡り、城内をぐるぐる歩き、ようやく天守閣の下まで到着した。

中に入るにはチケットが必要で、列はかなり長かった。並んでいると、横でスタッフがQRコードを掲げ、「オンラインで買えばこの列に並ばなくていい」と案内していた。そこでネット購入し、即座に列から脱出した。

天守閣からは、眼下の大阪城と大阪市街を遠くまで見渡せる。

続いて大阪城公園を散策。桜が全部咲けば、ここもきっと花見の聖地になるのだろう。残念ながら、この時はまだ満開ではなかった。

その後も大阪市内のスポットをいくつか適当に回った。地下鉄は使えるものの、歩く距離は相変わらず長く、かなり疲れた。最後にたどり着いたのが難波八阪神社。

ここに来るまでも一筋縄ではいかなかった。大阪には名前に「難波」が入る神社がいくつもあり、僕たちは普通に間違った場所へ行ってしまった。着いてみると、写真にある派手な建物が見当たらない。一度は「もしかして撤去された?」と思ったが、あとで単に神社を間違えていたと分かった。

これで最終日の行程も終了。

ICPC世界大会 2025

バクー世界大会と、数日間の観光。

今年の世界大会は、僕にとってようやくすべてが普通に進んだ。最初から最後まで何の問題も起きなかった。ここまで来るのが本当に長かった。

旅はいつもどおりビザから始まる。ただし僕はビザ免除だったので、今回はここを丸ごと飛ばせた。あとから聞いた話では、ほかのかなりの人がビザで苦労したらしい。正確にはビザそのものではなく、申請料の支払いだ。サイト上でクレジットカード決済ができるはずなのに、払おうとする人から順番に、カード会社の不正利用検知に止められていく。別のカードでも同じ。最終的には、チェックが妙に緩い銀行のカードを使うか、カスタマーサービスに電話して何とかしてもらうしかなかったそうだ。とにかく面倒である。なぜビザ代のサイトがそこまで危険判定されるのかは謎だ。

僕には関係ない話だと思っていた。ところが現地に着いてから、ブーメランのように戻ってきた。ビザサイトだけの問題ではなく、アゼルバイジャンのウェブサイト全般にある問題らしい。この話はまたあとで。

今回はエジプトでの反省を生かした。せっかく来るなら周辺も回らなければならない。そこで一日早く到着し、ホテル代を自腹で払い、一日ツアーを予約した。しかし、あとになって自分はまだ甘かったと気づく。二週間も早く来て、近くのコーカサス地方――アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニア――を全部回った人がいたのだ。正直、それは少し危ない気もした。アゼルバイジャンとアルメニアは、ほんの数年前のこの時期にはまだ戦争をしていたからだ。ただ、少なくとも当時は、それぞれの国を個別に旅行すること自体には特に問題がなさそうだった。

アルメニアといえば、面白い話がもう一つある。アゼルバイジャンが開催地として正式発表される半年ほど前、アルメニアは2025年世界大会の開催申請を出したと発表していた。当時ネットにはほとんど情報がなく、Googleで2025年の開催地を検索すると、予想として出てくるのはアルメニアだった。ところが最終的にはアゼルバイジャンで開催されることになった。近年の両国の関係を考えると……この流れに何か関係があったのかは分からないが、なかなか興味深い。

アゼルバイジャン到着の翌日、一日ツアーへ出発した。最初に訪れたのは、歴史が数千年前までさかのぼるゴブスタンの岩絵だった。

そこでは、いろいろと変わった岩絵を見ることができた。

どう見ても先史時代の遺物ではない絵もあった。

現地にはヘビがいるらしく、歩ける場所はロープで囲われていた。道端には正体不明の緑色の粉もまかれていて、ヘビよけだと聞いた。

次は泥火山。名前のとおり、泥を噴き出す火山である。

その日はものすごく暑かったのに、泥は冷たかった。信じられるだろうか。ガイドが手で触ってみるといいと言うので、僕も触ってみた。ツアー客の中には、腕だけでなく顔にまで塗る人もいた。天然の泥火山をフェイスパックにするつもりなのだろうか。

そのあとやって来たのが、1846年に掘削された、世界初の産業用掘削油井とされるものだった。

さらに、この巨大な国旗も見た。ネットで調べると、本当に世界記録を取ったことがあるらしい。まさかこれ自体が観光名所とは。その日は風が弱く、旗を撮るのはなかなか難しかった。

次は「燃える山」ヤナル・ダグ。山肌で天然の炎が長年燃え続けている場所だ。文字どおり、山からずっと火が出ている。

続いてアテシュギャーフへ。歴史的に拝火の伝統と関係する宗教施設で、かつては地下から自然に漏れ出す天然ガスによって、長年火が燃えていたという。ただしガイドによると、その天然の炎はのちに消え、現在の火は地下のパイプから送られる天然ガスで燃えているそうだ。

これで一日のツアーは終了。かなりの数の名所を一気に回った気がする。

競技前日、すべての仕事が終わったあと、僕とヨーロッパ人二人で町へ出ることにした。目的地はバクー旧市街。どうやって行くか調べ始めたところで、例のブーメランが僕にも当たった。現地のアプリを入れ、バスカードや地下鉄の切符らしきものをオンラインで買おうとしたが、クレジットカードが即拒否された。何度やっても拒否。もう諦めて、地下鉄の駅で何とかすることにした。

地下鉄にはどう乗るのか? 誰も知らない。二人いわく、それを解明するところまで含めて旅らしい。そこで駅まで歩いた。途中、アゼルバイジャンの学生たちに呼び止められ、競技プログラミングを強くするにはどうすればいいか聞かれた。いろいろと定番の話をしたが、最終的な結論はやはり「たくさん練習する」だった。

気持ちは分かる。始めたばかりの学生には、どうすればいいか迷う時期がある。今のCodeforcesには、Gymを除いても一万問以上ある。数を見るだけで心が折れそうになる。

地下鉄の駅へ着くと、切符は現金でしか買えないと分かった。そして僕たちは現金を持っていなかった。三人で困っていると、通りすがりの人が地下鉄カードを一枚くれた。ちょうど二回乗れるだけの残高が入っていた。相手が何を言っていたかは正直ほとんど分からなかったが、とにかくカードをくれた。

それでもあと二人分足りない。仕方なく外のATMへ行き、合計で20ドル相当くらいを引き出した。この金額では、デビットカードの手数料のほうが引き出した額より高かったかもしれない。

地下鉄でバクー旧市街へ行き、一時間ほど歩いて見て回った。

旧市街を見終わると、帰り方を決める時間になった。ヨーロッパ人の二人は天気がいいから歩いて帰ろうと言う。そこで三人でホテルへ向かって歩き始めた。正直、かなり暑いし日差しも強い。僕は日焼け止めすら塗っていなかった。でも二人はまったく気にしていないようだった。

途中には、デザインの面白い建物もいくつかあった。

ただ、最近見た中で一番デザインが印象的だったのは、大会会場の隣にあるヘイダル・アリエフ・センターだと思う。それと比べると、大会会場そのものは撮るほどでもなかった。

何事もなく競技当日を迎えた。

会場の外に誰もいなかったので、すぐに記念写真を撮った。

競技も何事もなく終了。全チームで唯一11問を解き、優勝したサンクトペテルブルク大学、おめでとう! 最強チームでも早々に全完できないよう用意したあの難問まで解いたのだから、文句なしの優勝だった。

あの問題は前年から準備していたもので、強いチームを競技終盤まで忙しくさせるために用意した二問のうちの一つだった。前年の本番前には、まったく準備が足りず使えないと判断し、今年へ持ち越した。今年は十分に準備し、元々あった複雑なケースの多くを削って簡略化した。作問者いわく、「この問題を解ける形にするため、できることは全部やった」。そして本当に解かれた。世界大会チームの強さは、いつだって信じられる。

今年の世界大会でもう一つ注目されたのは、AIも大会に合わせた非公式評価への参加を申請したことだ。運営はOpenAIとGoogle DeepMindにそれぞれ独立した評価用マシンを用意し、別々に大会全体を解かせた。そして、結果は圧倒的だった。Google DeepMindは序盤から順調で、すぐに10問を通した。この時点で運営側は少し焦り始めていた。そのあとOpenAIが全問を解き、コンテストをAKした。これで完全に差がついた。運営は両社に対し、大会終了から二週間たつまで結果と詳細を公表しないよう求めた。選手たちの見せ場をAIに持っていかれたくなかったのでは、と僕は勝手に想像している。

その後、Google DeepMindの人とも話した。今のAIの強さを考えると、これからはAI企業が「参加させてください」と申請するのではなく、運営側がAI専用の参加プラットフォームを用意するべきなのかもしれない。あっという間に立場が完全に逆転した。

大会終了から一か月後、この話にはまだ続きがあった。僕たちは振り返り会を開くことにした。正直、前年にあれほど大きな事件があったのに振り返り会は開かなかった。今年やるなら、ついでに前年分もまとめて振り返ろう、ということになった。最大の議題は、どうしてこれほど次々と問題を起こせたのか。結論は、問題選定の段階でもっと多くの人に見てもらったほうがいい、というものだった。そこで問題選定委員会の人数を増やすことになった。

まず、touristは絶対に入れるべきだった。経験が豊富で、問題の不具合を見つけるのが最もうまい。特に、似た問題がほかのコンテストに出たことがあるなら、気づく可能性が一番高い。ほかのジャッジの多くは、オンラインコンテストにあまり出ないからだ。

そこで一人のベテランが、「いっそ今年のジャッジを全員入れればいいのでは」と言った。別のベテランは、「それでは最後に問題を決める時、議論の量が大爆発する」と返した。最終的に、残りの人は希望者だけ入ることになった。

そこで僕は立候補した。あとで分かったのだが、立候補したのは僕一人だけだった。少し気まずい。

シドニー:オセアニア旅行の始まり

日付変更線を越える長旅から、タロンガ動物園とシドニー・オペラハウスでオセアニア旅行を始めた。

今回のオセアニア旅行は、難航する旅程作りから始まった。満たさなければならない条件がいくつもあった。

まずニュージーランド南島では、僕たちは自分で運転するのが面倒だったので、クイーンズタウンとクライストチャーチを結ぶツアーに参加することにした。このツアーは5日に一度しか出ない。これだけで旅程の大枠が決まった。先にニュージーランドへ行って5日前の便に参加するか、先にオーストラリアへ行って後の便に参加するかだ。僕たちはニュージーランドのビザを別に取っておらず、当時僕たちに適用された制度では、オーストラリアのビザを持ってオーストラリアから渡航すればニュージーランドに入国できた。つまり、先にオーストラリアへ行くしかない。これで日程はほぼ固定された。

しかもツアーはクライストチャーチ発。次の問題は、ニュージーランドでは北島と南島のどちらを先に回るかだった。調べてみると、南島からアメリカへ帰る便はどれも北島で乗り継ぐのに、北島からなら直行便がある。なら南島を先にするしかない。

ここまで来て、ようやくオーストラリアのどこからクライストチャーチへ飛べるかを考えられる。オーストラリアで絶対に外せないのはケアンズだった。グレート・バリア・リーフで潜る。これは確定だ。ところがケアンズからクライストチャーチへの直行便はなく、メルボルンかシドニーで乗り継ぐ必要がある。それなら、そこで遊んでいけばいいじゃないか。調べるとメルボルン経由のほうが明らかに安かったので、ひとまずメルボルンを入れた。

では、アメリカからケアンズへはどう行くのか。当然こちらも直行便はなく、やはりシドニーかメルボルンで乗り継ぐ。しかもよく見ると、乗り継ぎ時間がひどすぎて受け入れがたい。それなら乗り継ぎ先でもう一日遊べばいい。シドニー、ケアンズ、メルボルンの順に回る航空券と、その逆順の料金を比べたところ、前者のほうが明らかに安く、時間もまともだった。こうしてこのルートに決まった。

信じられないかもしれないが、最初はメルボルンへ行くつもりなんてまったくなかった。

要するに、こうして旅程は完成した。

2025年12月10日の夜にアメリカを出発し、到着したときにはもう12日。間の11日は、僕の人生からそのまま消えた。

15時間半もかかる超長距離便では、プレミアムエコノミーに乗った。個人的には、プレミアムエコノミーを普通に買う人はたいてい割に合わないと思う。意味があるのはアップグレードのときくらいだ。エコノミーとの差は小さく、リクライニングも大したことがないのに、値段は普通なら2倍以上する。ところが公式サイトでマイル交換を見たら、プレミアムエコノミーが7万ポイント、普通のエコノミーが8万7000ポイントだった。意味がわからない。でも本当にそうだった。

そこでプレミアムエコノミーを取った。座席を選ぶときには最後列しか残っていなかったので、そこにした。そしてハマった。最後列は後ろの壁が近く、リクライニングがさらに制限される。飛行機に乗ったことがある人ならわかると思うが、座席なんてそれほど精密なものではない。公称の角度は公称の角度で、体格のいい人がぐっともたれれば、体感ではさらに10度くらい押し倒せることもある。普通なら体重でもう少し角度を稼げるのに、最後列は壁があるのでそれがまったくできない。かなりつらかった。勉強になった。もう絶対に最後列には座らない。

最終的には、まあまあ休めた。というより、これだけ長ければ休まずにいるほうが難しい。その日の午後は予定通り、シドニーで有名なタロンガ動物園へ行った。動物園の地図はこちら。

動物園では、今日も今日とて『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』状態だった。

それから、ネットで大人気のカピバラもいた。

コアラもいた。コアラ専門の動物園では、このあともっとたくさん見ることになる。

これで一日目は終了。時差を直すため、急いでホテルへ戻って寝た。

次の日は、シドニー・オペラハウスへ行った。

内部ツアーに参加して、オペラハウスの舞台裏をたっぷり見て回った。ガイドから聞いたのは、オペラハウスのいろいろな裏話、建築家一家の愛憎劇、そして世界で唯一オペラハウスに登った人物はトム・クルーズか、それともジャッキー・チェンか、というクイズだった。

そして次の写真が、内部ツアーだからできること。誰もいないコンサートホール、体験版。

見学が終わると、ほかに特にやることもなく、午後には飛行機に乗らなければならなかったので、近くの公園を歩いた。景色はかなりよく、公園からは別の角度でシドニー・オペラハウスを遠くに眺めることもできた。

ケアンズ:熱帯雨林を飛び、グレート・バリア・リーフへ潜る

ヘリコプターからサンゴ礁と熱帯雨林を見下ろし、グレート・バリア・リーフでシュノーケリングと体験ダイビングを楽しんだ。

ケアンズに着いたときには、もう夜だった。ホテルでチェックインを済ませると、そのまま食べ物を探しに外へ出た。さすが南国。通りに並ぶレストランや屋台の雰囲気が、僕には海南島そっくりに見えた。食べる場所の心配はまったくいらない。どこにでも店があり、夜遅くまで開いていて、ナイトマーケットもにぎやかだった。

翌朝起きると、天気はよかった。

この日はヘリコプターでケアンズ周辺を遊覧した。まずグレート・バリア・リーフの内側のサンゴ礁を一回りし、それから内陸の深い熱帯雨林と山々の上を飛んだ。

この日の予定はこれで終わり。あとは海辺と街をのんびり歩いて過ごした。

3日目は、この旅行で一番楽しみにしていたメインイベント、グレート・バリア・リーフでのダイビングだった。シュノーケリングとスキューバダイビングの両方が含まれている。水中で写真を撮るため、前日に街を歩いたとき、透明な完全密封タイプのスマホ防水ケースを買っておいた。これがかなり高い。Amazonで調べると、ネットなら2割くらい安く買えたらしい。でも今さらネット注文はできないし、現地価格が2割増しくらいなら、まあ許容範囲だ。行く予定がある人は、あらかじめ持ってきたほうがいい。

朝早くから、僕たちはわくわくしながら出発した。ツアーには送迎がついていて、車に乗り遅れるのが怖かったので、かなり早めにホテルの下で待っていた。やがて小さな車が来て、近くのマリーナまで送ってくれた。それにしても、ケアンズは本当に小さい。この距離なら、車を待っていた時間で自分たちで歩いたほうが早かった。

船に乗ると、ろくに読みもせず、免責やリスク承諾の書類を何枚もまとめてサインした。僕らにとってはほとんど「何があっても知りません」書類の束だ。笑うしかない。そのあと船で1時間半かけて、最初のポイントへ向かった。

入水!

防水ケースに入れれば、スマホは濡れないし、水中でも操作できると思っていた。考えが甘かった。確かに水は入らない。でも操作もまったくできない。ケースの問題ではなく、水面では普通に使えるのに、水中へ入るとタッチ操作が全部消える。使えるのは本体の物理ボタンだけだった。幸い、そうなる可能性は事前に考えていて、対策も調べてあった。カメラを起動した状態なら、音量ボタンをシャッター代わりにできる。だから水中写真は全部この方法で撮った。

ここで絶対に気をつけなければならないのが、電源ボタンを押さないこと。一度押したら終わりだ。画面がロックされ、タッチ操作ができないので解除不能。パスコードを設定していなくても、ロック画面をスワイプしてカメラへ戻れない。いったん水面へ出て、ロックを解除してから、もう一度潜るしかない。

こうして僕たちは泳ぎながら、音量ボタンをひたすら連打した。グレート・バリア・リーフは本当にきれいで、夢みたいだった。

ここでシュノーケリングをすると、サンゴだけでなく、いろいろな生き物にも会える。特に熱帯魚が多かった。

船に上がってから、僕たちはタオルを忘れたらしいと気づいた。事前案内には「用意していないので持参推奨」と書いてあったのに、忘れた。そもそもこのツアーを予約したのは何か月も前で、それ以来注意事項を一度も見ていなかった。油断した。仕方がないので、古来より伝わる乾燥法――自然乾燥を使うことにした。太平洋のこの天気なら、乾くのはかなり速い。日差しを浴びて海風に吹かれると、体はほぼ一瞬で乾いた。船の上で日当たりのいいデッキチェアを見つけて寝転ぶと、水着もすぐ乾いた。でもタオルは絶対に持ってきたほうがいい。この乾かし方は肌へのダメージが大きすぎる。

僕たちはダイビングライセンスを持っていなかったので、インストラクターに連れていってもらう体験ダイビングだった。このツアーでは10メートル少しまで潜れた。それ以上潜っても、もう海底に着いていたのであまり意味はない。ネットでは10メートルくらいならスマホも大丈夫そうだと読んだが、インストラクターには「壊れるから持っていくな」と言われた。結局、危険を冒すのはやめた。

スキューバでもシュノーケリングでも、船で貸してくれる全身を覆う防護スーツを着たほうがいいらしい。有毒なクラゲに刺されるのを防ぐためだと聞いた。でも僕たちはそれを知らず、スーツはスキューバのときだけ着るものだと思い、シュノーケリングではまったく着なかった。船の上で大勢が着替えているのを見て、「こんなにダイビングする人がいるの?」と不思議に思っていた。実際はみんなシュノーケリングだった。そしていざ僕がダイビングするときも、まだスーツを着ていないうちにインストラクターがタンクを背負わせてしまい、着る機会を失った。幸いクラゲには刺されなかった。ただ、泳ぎがあまりにも下手で、海底の岩礁に膝をうっかりこすり、皮がむけた。船へ戻ると、感染が怖くて消毒薬をあれこれ塗りまくった。つまり、このスーツは絶対に着たほうがいい!

午後にマリーナへ戻ると、専用の送迎車がホテルまで送ってくれるが、30分待ちだと言われた。ではさようなら。僕たちはそのまま歩いて帰った。朝の経験で学んでいる。この待ち時間があれば、ホテルまで二往復できる。

4日目は日帰りツアーに参加し、ケアンズ周辺のいくつかの観光地を回った。

カーテン・フィグ・ツリー(Curtain Fig Tree)。

ミラミラ滝(Millaa Millaa Falls)。

そして、宮崎駿の『天空の城ラピュタ』のモデルになったとも言われているパロネラ・パーク。

これでケアンズの旅程はすべて終了した。

メルボルン:グレート・オーシャン・ロード、蒸気機関車、ペンギン・パレード

ハエだらけのグレート・オーシャン・ロードから、パッフィン・ビリー、コアラ、フィリップ島のペンギン・パレードまで。

メルボルン初日は、まずグレート・オーシャン・ロードへ行った。ここで絶対に触れておきたい。グレート・オーシャン・ロードで一番印象に残り、一生忘れられそうにない動物――ハエだ。とにかくそこら中がハエだらけで、逃げようがない。道を歩きながら適当に手を振れば、数匹には確実に当たる。普通、ハエみたいな小さな虫は屋外で3メートルも離れれば見つけるほうが難しいはずだ。でもここでは、いくらでも見つかる。マスクをしている人も多かった。口を開けて話すのは非常に危険な行為で、少し油断すると新鮮なタンパク質を補給することになるからだ。

グレート・オーシャン・ロードのどれくらいの区間でこの問題があるのかは知らない。でも僕が行った観光地は全部こうだった。原因はたぶん、海辺の湿った環境でハエが増えやすいうえに、誰も特に対策していないから、ここまでの状態になったんじゃないかと思う。以前、サンフランシスコ近くのアルカトラズ島でも似た経験をしたが、体感ではここのほうがさらにひどかった。来るならマスクがおすすめだ。虫よけスプレーはあまり役に立たない気がする。数が多すぎて全部は防げないし、命知らずの一匹や二匹は必ず突っ込んでくる。歩くときも気をつけたほうがいい。眼鏡をしていなければ、ハエが目に直接飛び込んでくる可能性もある。実際、僕の眼鏡には一匹が正面衝突した。

この最悪すぎるユーザー体験を横に置けば、グレート・オーシャン・ロードの景色はかなりよかった。

最初に着いたのは、トゥエルブ・アポストルズ(Twelve Apostles)。ここの写真は中国の人民教育出版社版の英語教科書の表紙に使われている。そのため、片手に英語の教科書、もう片方にカメラを持ち、表紙と背景の景色を重ねて撮っている観光客をよく見かける。結果は――本当にまったく同じだった! 僕が一番気になったのは、みんなどこでその教科書を手に入れたのかということだ。まさか中国からずっと背負ってきたわけではないだろう。でも小紅書の攻略を見てから来たのなら、本当に持ってきた可能性はある。

グレート・オーシャン・ロード沿いの海岸風景は確かによかった。でも今この写真を見ると、「いかにもハエが増えそうな環境だな……」としか思えない。

途中で適当にレストランへ入った。その店先で、たまたま元気な鳥たちにも会った。人をまったく怖がっていない。もう完全に慣れているのだろう。

その次はスプリット・ポイント灯台(Split Point Lighthouse)へ行った。ただ、観光シーズンで人が多すぎるため閉鎖されたと聞き、中には入れなかった。仕方なく遠くから写真だけ撮った。

そして旅が終わりかけたころ、旅の始まりに到着した。つまり僕たち、グレート・オーシャン・ロードを最初から最後まで逆向きに回っていたのか?

これで初日の旅は終了。ホテルへ戻ってすぐにシャワーを浴びた。一日中ハエの中で着ていた服なんて、もう二度と着られる気がしない……。

2日目は、まずパッフィン・ビリー鉄道(Puffing Billy Railway)に乗った。この蒸気機関車もメルボルンの有名な観光スポットだ。何と言えばいいのか。現代の交通手段として見れば、ボロくて遅くて、日常的に使いたい人はほとんどいないと思う。でも歴史ある観光列車としては、古ければ古いほど価値が上がるということなのか?

乗車体験はかなりよかった。上の写真のように、僕たちが乗ったときは車両の縁に腰かけ、柵の間から脚を外へ出すことができた。ただし当然、各車両でそこに座れる人数は限られていて、半分くらいの人は車内の席に座るしかない。縁に座れるかどうかは、乗車したタイミングか、あとで誰かが譲ってくれるかにかかっている。僕たちの車両はみんなマナーがよく、出発から到着まで1時間以上ずっと同じ場所を独占して、誰にも譲らない人はいなかった。

その次は、マル・コアラ&アニマル・パーク(Maru Koala and Animal Park)へ行った。名前の通り、コアラを間近で観察できるのが特徴だ。木にだらっとぶら下がっているのを見ると、やっぱり木の上の怠け者じゃないか、という疑惑が完全に確定した。

この動物園には、ほかの動物もたくさんいた。クジャクが羽を広げているところにも出会った。一緒にいた人によると、何度も見たことがあるのに、見るたびにまた撮りたくなるらしい。

この動物園には、オーストラリア名物のボクサー、つまりカンガルーも大量にいた。しかも何種類かいる。

大きいのと小さいのを一緒の画面に収めるのも、なかなか簡単ではない。

夜は、フィリップ島のペンギン・パレード(Phillip Island Penguin Parade)を見に行った。「辺り一面」の小さなペンギンたちが、海から陸へ向かって走ってくる。ここで「辺り一面」にカギ括弧をつけたのは、数は多いが、さすがにそこまで大げさではなかったからだ。何しろ僕は南極で、本当の意味で辺り一面がペンギンという光景を見ている。あれと比べれば、こちらは規模がまるで違う。ツアーのほかの人たちは大興奮だった。おそらく野生のペンギンを見るのが初めてだったのだろう。僕の反応が少し薄かったのは仕方ない。なんせ本物の大波も大群も、もう見てしまっている。

下の写真は、昼間に近くで撮ったものだ。夜に本当に帰ってくる時間は暗すぎて、写真がまともに写らなかった。当然フラッシュは禁止なので、何もきれいに撮れず、ここには載せない。

これでメルボルンの旅は無事に終了した。

ニュージーランド南島:クライストチャーチからクイーンズタウンへ

クライストチャーチを出発し、南島の田園、氷河湖、ルピナスの花畑を巡ってクイーンズタウンへ向かった。

ニュージーランド南島の旅は、クライストチャーチから始まった。このツアーは本当に行き先が読めない。自分で運転するのが面倒だったので、数日間のツアーに申し込んだ。ガイドが見せてくれるものを、そのまま見る。運転しなくていいから、移動中もずっと景色を楽しめる。それにこのガイドは観光スポットにかなり詳しく、よく僕たちを妙に奥まった場所にある人気の撮影スポットまで連れていってくれた。

まず市内で、クライストチャーチ大聖堂を見学した。

次は植物園。中の庭園はなかなか個性的だった。

そのあとクライストチャーチを離れ、山と森の奥へ向かった。車が進むほど、ニュージーランド南島の田園風景がどんどん本気を出してくる。言葉では説明しにくいので、写真を見ながら各自で詩でも脳内再生してほしい。

夜は小さな町で一枚撮った。とりあえず、ここまで来た記念だ。

この夜は星空観察ツアーにも参加した。出発は夜11時、戻ってきたのは午前1時だった。南半球の星空は北半球と違う。僕の星座知識では何がどう違うのか判別できそうにないが、南半球の星のほうが少し明るく感じた。

ガイドによると、南半球で星が多く見える主な理由は、天の川銀河の中心方向が南の空にあり、そこは星が最も密集していて、天の川も最も明るいからだという。だから普通の人にとっては、南半球のほうが星空観察に向いているらしい。この夜はちょうど快晴で、運がとてもよかった。前日は一晩中厚い雲に覆われ、星空観察ツアーは全員返金になったそうだ。

その夜の星空がこちら。星空ツアーのガイドが一眼レフで撮った写真だ。僕のスマホにそんな能力があるはずもない。この写真は毎日違う。というより、一瞬ごとに違う。星空そのものはほとんど変わらないが、流れ星がかなり頻繁に現れ、空のどこかへランダムにスポーンする。だから撮る瞬間が変われば、写真も毎回変わる。

翌日も、山奥と田園風景を巡る一日が続いた。氷河を飛行機で上空から眺めるツアーの出発地にも寄ったが、僕たちは申し込まなかった。以前アラスカで、ヘリコプターから氷河を見たことがある。そのときは氷河の上に直接着陸までした。だから今回は、まあいいかということになった。

その代わり、あとでマウント・クックの氷河湖クルーズに参加した。湖をボートで進み、氷河を見るツアーだ。50年以上前、現在のタスマン湖はほぼすべて氷河だった。今も氷河の末端は急速に後退し続けていて、平均で年100メートル以上とも言われている。タスマン氷河はニュージーランド最長の氷河だが、この傾向が続けば、僕たちの世代のうちに、巨大な谷氷河から山の上に残るわずかな氷へと縮んでしまう姿を見ることになるかもしれない。

写真に写っているのが、この氷河湖ツアーの出発地点だ。50年前はここも氷河だったのに、今では影も形もない。氷河が溶けることについて、僕は完全に悲観している。ヨーロッパの人たちにエアコンを使わせないことはできるかもしれない。カリフォルニアの人たちにガソリン車を買わせないこともできるかもしれない。でも巨大IT企業がAIデータセンターを建てるのを、どうやって止めるのか。人類文明が前へ進むのを、どうやって止めるのか。あれが使うエネルギーは、これまでのものとは比べものにならないほど大きい。

地球温暖化を防ぐために人類の進歩を邪魔したい、という意味ではまったくない。僕はずっと、技術発展が生んだ問題は、さらに技術を発展させることでしか解決できないと思っている。歴史を逆戻りさせるようなやり方は選ぶべきではない。ただ、こういう自然の風景については、見られるうちに見ておこう、としか言えない。

その後の2日間も、ガイドはいろいろな場所へ連れていってくれた。

まずは一面に広がるルピナスの花畑。本当に辺り一帯が花だらけだった。

近づいて初めて、ルピナスがマメ科の植物だと気づいた。花が散ったあとは、本当に毛の生えたさやがいくつもできていた。

そのあとガイドは、いくつもの「有名な」SNS映えスポットへ連れていってくれた。カギ括弧をつけたのは、僕自身は一つも知らなかったからだ。ただ、小紅書ではかなり人気らしい。山の中にあるこのバンジージャンプ場にも行った。場所は最高で、山があり、水があり、そして飛び降りる崖がある。宣伝では世界初の商業バンジージャンプ場だという。本当かどうかは知らないが、少なくとも宣伝にはそう書いてあった。その場では少し迷った。以前にもバンジーをしたことがあるので、ここで飛んでも初体験にはならないし、今回はやめておいた。でもあとになって少し後悔した。飛んでおけばよかった。この場所なら、成功しても縁起のいい場所だし、失敗したらもっと長くお世話になる最高の場所だ。

それから、この「孤独な木」も見た。この人気スポットの名前が、そのまま「孤独な木」だ。写真の通り、一本の木が水の中にぽつんと立っている。木がネットで有名になるのは意外と簡単らしい。群れから抜ければいいだけだ。

二色に分かれて見える湖という不思議な景色もあり、そのほかにも美しい田園風景が続いた。

こうして4日間の旅を終え、僕たちはついにクイーンズタウンへ到着した。ニュージーランド南島の旅は、これで無事に完結した。

ニュージーランド北島:ホビット村とワイトモ・グローワーム洞窟

オークランドでの乗り継ぎ時間を使ってホビット村とワイトモ洞窟を巡り、オセアニア旅行を締めくくった。

今回のオセアニア旅行の最後の目的地として、ニュージーランド北島へやってきた。正直に言うと、最初はニュージーランドの田園風景を楽しめればよく、南島だけで十分だと思っていた。ところが南島からアメリカへ帰る便は、どうやっても北島で乗り継ぐ必要があり、その待ち時間も何とも言えないほどひどい。なら、せっかく来るのだから……。

北島には何があるのかネットで調べると、ホビット村を見つけた。『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズの複数の映画で撮影に使われた場所で、かなり見に行く価値がありそうだった。

僕は『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズも、あとから公開された『ホビット』シリーズも、映画は全部見ている。ただし熱狂的なファンではないので、映画の有名な場面もかなり忘れていた。でも問題ない。映画を見ていなくても、この村自体が十分に個性的で、訪れる価値がある。

入口でまず目に入ったのは、等身大のガンダルフ。入場を待っている人の多くが、一緒に記念写真を撮っていた。

ここでは複数の言語でガイドツアーが用意されていた。英語ツアーは明らかに本数が多く、ほぼいつ予約しても参加できる。一方、それ以外の言語は少し難しい。特に中国語ツアーは参加者が多いのに本数が少なく、かなり予約しにくかった。それでも僕たちは何とか取れた。もし英語ツアーしか選べず、ガイドが映画のネタを話し始めたら、言葉は聞き取れても元ネタがわからず、僕たちは二人でぽかんとしていたはずだ。

村へ入ると、まず看板が迎えてくれた。

そして村の中へ。ここでは、いろいろな妙なポーズで写真を撮っている人をよく見かける。何でもない小道で、いきなり思いきりジャンプしてみたりする。どう考えても映画の場面を再現しているのだろう。

かなり完成度の高い観光地だった。ただ、僕のスマホは完全に圏外で、現地のWi-Fiにつなぐしかなかった。位置情報つきのWeChatモーメンツ投稿が、危うくホビット村から出られなくなるところだった。

そのあと、ワイトモ・グローワーム洞窟にも行った。ガイドが操る小さなボートに乗って洞窟へ入ると、見上げた岩の天井がグローワームの光で埋め尽くされていた。かなり新鮮な体験だった。ただし写真はというと……光が小さすぎて、夜空をそのまま撮ったのと大して変わらない。とても見せられる出来ではなかったので、ここには載せない。ちなみに、このグローワームは、僕たちが普段「ホタル」と聞いて想像するホタルとは別物で、光を放つ昆虫の幼虫だ。

これで、オークランドでの乗り継ぎ時間を使って組んだ一日観光も終了した。そして今回のオセアニア旅行も、これですべて終わった。

上海で初めてのコスプレ:原神・鍾離

上海で初めてコスプレに挑戦し、メイクと撮影から AI エフェクト、レタッチまで体験した。

今日は上海市普陀区にある「米游妙妙屋」に行き、人生初のコスプレを体験した。たぶん HoYoverse の公式店ではないけれど、HoYoverse 系の衣装はかなりそろっている。それだけでなく、ほかの作品の人気キャラの衣装もたくさんあった。

数週間前にネットで予約し、撮影セットと衣装もあらかじめ選んでおいた。今回コスプレするのは『原神』の鍾離だ。

到着したら、まずはメイク。メイクさんがウィッグネットで僕の髪を全部まとめ、そこから作業開始。そして1時間半が過ぎた。フルメイクって本当に時間がかかるんだな!

メイクが終わって鏡を見たら……これは単体ではとても見られない。最終的にどうしたいのかはなんとなく分かるけれど、このメイクは衣装と組み合わせて初めて成立するものらしい。顔は真っ白、アイラインは妙に強く、チークとリップまで入っている。しかも髪は全部ネットに収められ、顔の周りには一本も見えない。鏡の中にいたのは、清朝の宦官・李蓮英を映像作品で描くときのイメージそのものだった。

写真がなければ証拠もない。ひどすぎたので載せない。

次はカラコン。僕はかなり近視が強いので、度数が近いうえに色まで合うものがあるとは思わなかった。店の準備は本当に充実している。

そして衣装に着替える。ここで強く勧めたいのは、衣装は少し大きめを選ぶこと。公式のサイズ表に従って選んだ衣装には M と XL しかなく、僕のウエストはちょうど M の上限だった。ところが現地で履いてみると、ズボンが案の定入らない。正確には、かなり頑張ればギリギリ履ける。でも少し動いたり座ったりしただけで、股の縫い目がそのまま裂けそうだった。そうなったら衣装代は誰が払うんだ……。

そこでボタンを留めないことにしたら、だいぶ楽になった。上着で隠れて見えないので問題なし。

そして撮影。カメラマンもかなりプロだった。ポーズが分からなければ、どう動けばいいか、どうすればカッコよく見えるかまで教えてくれる。ただ僕は、カッコよさよりも「そんなにキメたらズボンが裂けない?」という心配ばかりしていた。

撮影後には30分の自由時間があった。誰も使っていない撮影セットなら、どこでも自由に使って写真を撮れる。セットの種類もかなり豊富だった。

これで体験は終了。衣装を脱げばそのまま帰れる。でも李蓮英メイクのまま外へ出るのは嫌だったので、その場でメイクを落とすことにした。クレンジングや道具は一通り用意されている。だが、僕はメイクの落とし方を知らない。完全に力任せで、垢でも出そうなくらいひたすらこすっていた。

最終的に肌の色が元に戻った気がしたので、そのまま店を出た。ところが夜、ホテルで顔を洗って初めて、粘膜に引いたアイラインがまったく落ちていなかったことに気づいた。自分では何も感じなかったのに、洗顔後にタオルで拭いたら黒い線が一本。そこからまた念入りに洗うことになった。

次は写真のレタッチ。店の公式サービスでは、プランによってレタッチしてもらえる枚数が違う。ただ、どのプランにも共通していることが一つある。待たされる。受け取れるのは少なくとも2週間後だ。

しかも公式のレタッチでは、僕が欲しかったエフェクトまでは付けてくれない。そこで別の人に頼もうとネットで探したが、お金を取って写真を加工する人たちも、こういうエフェクトはやっていなかった。結局、自分で AI を使ってエフェクトを付けるしかない。幸い、この時点では AI でもかなり自然に画像加工ができ、仕上がりも悪くなかった。そうでなければ、エフェクトは完全に諦めるしかなかったと思う。

当時の僕の使用感では、AI はエフェクトには強かったものの、人物レタッチはいまひとつだった。肌をきれいにして、体を細くして、脚を長くしてくれと頼んでも、まったく理解していないようで、完成画像は元の写真とほぼ同じ。そこで人物のレタッチだけは人に頼むことにした。エフェクトを頼まなくていいなら、引き受けてくれる人も見つかった。

こうして、まず AI でエフェクトを付け、そのあと人に人物をレタッチしてもらった写真が完成した。個人的にはかなりいい仕上がりだと思う。

しかし、僕はまだ甘かった。その後、店の公式レタッチが届いたので見てみると、これがとんでもなく強い。加工の度合いが、ネットで見つけたレタッチ担当をはるかに超えていた。ネットで頼んだ人は、お金を受け取って最低限の仕事をしたらそこで終了。一方、公式のレタッチ担当は、明らかに込めている愛が違った。

その仕上がりがこちら。

この加工の強さなら、実の母親でも僕だと分からないレベルだ。ここまでやれるなら、次は女性キャラをコスプレしてもまったく問題ない。撮影時に美顔加工を入れて、終わったらさらにレタッチすればいい。

古い漢詩を勝手にもじるなら――

レタッチの脚はすらり、盛れた目はきらり。
二枚並べて見たところで、男か女か、誰に分かろう。

パナマシティ乗り継ぎ、まさかのアップグレード

ペルーへの旅はパナマシティでの乗り継ぎから。最低額で入れたアップグレード入札が、まさかの落札になった。

パナマに入国したわけではなく、パナマシティではただ乗り継いだだけ。それでも、ここが今回のペルー旅のスタート地点だった。

わざわざ書いておきたいのは、乗り継ぎの間にちょっと運のいいことがあったからだ。乗ったのはコパ航空。南米の航空会社には、有料アップグレードを入札で決める仕組みがけっこうあるらしい。エコノミーから上のクラスへ上がるための金額を、自分で決めて入札する。ほかの人がいくら出したかは見えない、完全なブラインド方式だ。画面には最低額と最高額が表示されるのだが、最高額は「今すぐアップグレード」の価格より高い。何のための上限なのか、正直よくわからない。

まあ試すだけ試してみようと、迷わず最低額を選んだ。600ドル少し(約9万4,500円)の航空券に対して、アップグレードの入札は400ドル(約6万3,000円)。すると、まさかの落札。以前アルゼンチンへ行ったときは最低額よりずっと高く入れても落ちたのに、今回はあっさり通った。たぶん、この便ではほかに本気で入札する人があまりいなかったのだろう。

リマ:グルメと街歩き

フードツアーやチーファ、バランコの老舗バーから、旧市街や博物館、ペルー料理まで、数日かけてリマを歩き回った。

午後にリマへ到着し、そのままフードツアーに参加した。ペルーらしいものを片っ端から味見していくツアーで、南国フルーツをその場で味わったり、見慣れない小さなお菓子を試したりする。

ここで初めて食べたのが、ペルーを代表する料理のセビーチェ。白身の生魚に生の玉ねぎと少しの葉物を合わせ、柑橘の汁で締めた料理だ。そのときは有名なものだと知らず、「よくわからないペルー料理」くらいの気持ちで口にした。あとで国民的な一皿だと知ったのだが、僕には酸味と生玉ねぎの刺激がかなり強かった。写真も撮っていない。

次は中華系ペルー料理の店へ。ペルーでは、こうした中華料理店をまとめて「チーファ(Chifa)」と呼ぶ。100年以上前に渡ってきた中国系移民の食文化から生まれたもので、名前は中国語の「吃飯(チーファン/食事をする)」が現地の発音に変わったものだとよく説明されている。

厨房にいたシェフは中国人ではなかったが、鍋振りはかなり見事だった。作ってくれたのは、とろみのあるソースをまとった牛肉料理。味はPanda Expressに近い。中国料理として見ると、少し火を通しすぎている感じはした。

午後、街を移動している途中で、リマでは有名らしいストリートアートのエリアにも立ち寄った。いちばん印象に残った作品がこちら。

夜はバランコ地区のJuanitoへ。1937年にJuan Casusolが始めた老舗バーで、長年、作家や芸術家が集まるボヘミアン文化の拠点になってきた。外観は驚くほど控えめで、目立つ看板もほとんどない。今もCasusol家が経営している。創業者は小柄だったため、親しみを込めたスペイン語の縮小辞をつけて「Juanito(小さなJuan)」と呼ばれていたそうだ。

それから数日間、いくつかの日帰りツアーに参加して、リマの中心部とその周辺をあちこち見て回った。

最初は旧市街の中心にあるアルマス広場。マヨール広場とも呼ばれている。

ちょうどペルーの独立記念日の時期で、さらに5年ごとの大統領就任式も近づいていた。そのため広場の中央はすべて封鎖され、中に入れない。仕方なく外周をぐるっと歩いた。

続いてリマ大聖堂へ。1535年、植民都市リマを築いたスペイン人征服者フランシスコ・ピサロが礎石を置いたとされる教会で、内部には彼にまつわるものが多い。ピサロが二度目のペルー遠征でガジョ島に足止めされたとき、パナマへ戻りたがる部下たちの前で砂に一本の線を引いた、という有名な話もある。その線を越えて南へ進むことを選んだのは、のちに「名高き13人」と呼ばれる13人だけ。「南へ行って富をつかむか、北へ戻って貧しいままでいるか」と迫った、と伝えられている。

小さな博物館や収蔵館もいくつか見学した。周辺で出土する小型の遺物があまりにも多く、棚が何段も必要になるほどだ。その中でいちばん気に入ったのは、このなんとも言えない表情。

ラルコ博物館には、さらに強烈な展示がある。古代ペルー、特にモチェ文化の性愛表現を扱う独立展示「Galería Erótica(エロティック・ギャラリー)」だ。博物館自身も、古代ペルーの性とエロティシズムを伝える重要なコレクションとして紹介している。

リマではUberがとても使いやすく、移動手段を細かく考えずに街中を飛び回れた。ただし運転はかなり激しい。タクシーの多くはマニュアル車で、狭い隙間への割り込みや追い越しがとにかくギリギリ。何度も「これは当たる」と思ったのに、結局一度も当たらない。腕があるからこそできる運転なのだろう。

ペルーは観光インフラもかなり整っていた。国全体の発展度から想像していた以上だ。ちゃんとした店構えさえあれば、小さな売店でもカード端末が出てくる。長く使っていなかったのか、その場で充電して再起動することはあったけれど、とにかく使える。現金が必要だったのは路上の露店くらいだった。観光地のトイレも、水洗、紙、石けん、水道がきちんとそろっている。「ホルダーはあるけど中身は空」というタイプではなく、本当に全部ある。以前行ったオーストラリアやニュージーランドでも、ここまで安定してはいなかったので驚いた。

そして、この数日はペルー料理もかなり食べた。何をもって「ペルーらしい料理」と呼ぶのか、僕にはまだよくわからない。そこで最近のAIに頼ることにした。レストランではメニューを全部スマホで撮り、ChatGPTに送っておすすめを選んでもらう。英語のメニューすら読む気が起きないくらい、完全に怠けていた。

なかでもペルーらしさが強かったのは、たぶんクイ(モルモット)の丸焼き。ほかの国ではペットなのに、ペルーでは立派な料理になる。

ペルー料理の盛り合わせも注文した。右下にあるのが、あのセビーチェ。そして飲み物もなかなか不思議で、アイスアメリカーノにパッションフルーツジュースを合わせたもの。そんな組み合わせ、本当にあるんだ……。

これでリマでの予定は終了。次はクスコへ向かう。

クスコ周辺の遺跡と段々畑、塩田

クスコ周辺に点在する遺跡を巡り、インカの段々畑や今も使われる塩田、アンデスの景色に出会った。

クスコ周辺のいちばん大きな特徴は、とにかく遺跡が多いこと。数え切れないほどあり、途中からどの遺跡がどの名前だったのか、正直かなり怪しくなってきた。

インカの人々は段々畑で斜面を安定させ、耕せる土地を大きく広げた。そのため、この一帯の山には段々畑が本当に多い。山では昼夜の寒暖差が大きく、高さが変わると気温だけでなく、場合によっては育つ作物まで変わる。下の円形の段々畑は、どの標高で何を育てるのがよいか調べるための実験場だったと説明された。

次は塩田。山から湧く塩分の多い水を何層もの浅い棚田へ流し込み、太陽の熱で乾かして塩を採る。かなり長い歴史を持つ場所だが、単なる遺跡ではない。見学中も実際に人が働いていて、今も塩を生産していた。

移動中に見えたアンデスの景色もよかった。

この数日間は、いくつもの一日ツアーや半日ツアーに参加した。遺跡を見るだけでなく、人と話すたびに知らなかったことが増えていく。こういう瞬間が、旅をする意味のひとつなのかもしれない。

まず印象に残ったのは、ヨーロッパにルーツを持つ人が多いこと。数百年前にスペインの植民地だった歴史はもちろんあるが、僕が会ったガイドたちは、もっと最近のつながりを持っていた。親や祖父母がヨーロッパ出身だったり、自分自身がヨーロッパで生まれていたりする。国際結婚や多文化の家族が、ごく普通のこととして受け止められているように見えた。少なくとも僕が知っている範囲では、中国、日本、韓国などの東アジアで国際結婚は今でも少し特別なこととして受け止められることが多い。そのため、僕にはその違いが大きく感じられた。

もうひとつ驚いたのが、みんなが扱う言語の多さだ。もちろん、僕が会ったのはガイドが中心なので偏りはある。それでも観光業の人だけではない。クスコの小さな店に入っても、店主がかなり自然な英語を話すことがよくあった。スペイン語に加え、この地域ではケチュア語を母語とする人も多い。気づけば3言語が当たり前、という人もいる。中国では英語を流暢に話せるだけでも十分すごく、さらにもう1言語となれば尊敬されるレベルだ。ここでは、それがスタート地点に見えることさえあった。

ツアーに参加していたヨーロッパ人たちも負けていない。ある日、スペイン語も英語も話せないイタリア人が2人参加していた。イタリア語とスペイン語は似ているから何とかなる、という勢いでペルーまで来たらしい。ガイドが困っていると、別の参加者が「スペイン語もイタリア語も話せるから通訳するよ」とすっと現れた。そんな人が普通に同じツアーにいるのがすごい。

とはいえ、ガイド全員の英語が上手なわけではない。仕事に必要な専門用語はかなり覚えていても、文章になるとほとんど作れず、単語を並べながら途中にスペイン語が混ざる人もいた。僕も少しだけスペイン語がわかるので、何が起きているかは気づける。でも説明全体を理解するのはかなり難しかった。英語が母語なら、強いアクセントや混ざった単語からでも意味を補えたのかもしれない。残念ながら僕にはそこまでできず、自分の英語もまだまだだと実感した。

これでクスコ周辺の旅は終了。次はいよいよマチュピチュへ。

ついにマチュピチュへ

飛行機、車、列車、そして山道を上るバスを乗り継ぎ、今回の旅の主役・マチュピチュにたどり着いた。

この日、ついに今回の旅のメイン、マチュピチュへやって来た。

ここは、今まで行った有名観光地の中でもトップクラスにたどり着くのが大変だった。これ以上となると南極くらいかもしれない。新・世界七不思議の中でも、かなり行きにくい場所だと思う。まず遠い南米まで来て、そこから飛行機でクスコへ。標高3,400 mを超える街なので、高山病を避けるために体を慣らす時間も必要だ。さらにクスコから車で約2時間、聖なる谷のウルバンバへ移動して列車に乗り、約1時間半かけてマチュピチュ村へ。最後は2時間半ほど山を登るか、かなりスリリングなつづら折りの道をバスで20分上る。そこでようやく入口に到着する。有名観光地で、ここまで工程が多い場所はなかなかない。

でも着いてみると、その苦労には全部価値があった。ガイドから歴史の話をたくさん聞いたけれど、ここは説明を並べるより、まず写真を見てもらうほうが早い。

さらに全景を一枚。

光が動くにつれて、街全体の色や質感まで変わって見える。

僕が買えたのはサーキット3。市街地の内部まで入れる一方、いちばん高い場所からの定番の俯瞰写真は撮れない。サーキット2は、高所からの全景と内部の見学を両方楽しめるため、いちばん人気らしい。当然、売り切れるのも早い。オンラインでサーキット2を取りたいなら、半年前くらいから動いたほうがいい。3か月前ではもう遅かった。マチュピチュも、ついに「半年前予約クラブ」の仲間入りだ。

オンラインで取れなくても、現地販売という手段はある。マチュピチュ村の窓口では、翌日以降の券を毎日1,000枚販売している。ただ、繁忙期は翌日分がすでに売り切れていることも多い。その朝ガイドがアプリを開くと、翌日は完売、翌々日はまだ半分ほど残っていた。ガイドによると、現地券を買うのはペルー人や近隣国から来た旅行者が多いらしい。学校の休みに家族で「マチュピチュへ行こう」と決め、まず現地で取れる日を押さえる。その日までクスコ周辺で過ごし、予約日にまた戻ってくる。そんな旅の組み方ができるのは、やはり近い国ならではだ。

この街は山そのものの上に造られている。削られていない岩盤が建物を支えている場所もあれば、自然の岩がそのまま壁や基礎の一部になっている場所もある。

別の角度からも何枚か。

最後に実用的な話。日焼け対策は必須で、虫よけもあったほうがいい。暑いのにガイドがずっと手袋をしていて、最初は理由がわからなかった。自分の手を蚊に何か所も刺された瞬間、全部理解した。

山の上には、唯一のホテルがある。1泊およそ35万円。場所を見るかぎり、カーテンを開けたらマチュピチュがそのまま見えそうだ。お金を気にしなくていい人の旅は、選択肢の幅が本当に広い。

ガイドからは、中央広場にかつて大きな一枚岩があったという話も聞いた。スペイン国王がヘリコプターで訪れた際、着陸の邪魔になるため一度外され、訪問後に戻されたらしい。その後、別の中南米の要人が来たときにもう一度外したところ、今度は壊れて元に戻せなくなったという。なんとも気まずい結末だ。

マチュピチュ村、滝と蝶を巡る最終日

なかなか厳しいホテルから外へ逃げ出し、二つの滝と蝶園、マチュピチュの山裾まで歩いた旅の最終日。

旅の最終日は、マチュピチュ村(アグアス・カリエンテス)の周辺を歩くことにした。というより、ほかに選択肢がなかった。

まず、泊まっていた3つ星ホテル「Flower’s House MachuPicchu」には文句を言わせてほしい。問題が一つではない。

最初はネット。各階にWi-Fiがあるのに、僕が泊まった5階だけない。ただ、4階と6階の電波は強く、パスワードも共通なので接続自体はできた。接続はできたのだが、ネットにはほぼつながらない。Googleのトップページを開くだけで30秒近くかかり、ほかのサイトはもう諦めたほうが早い。別の階のWi-Fiだからだめなのかと思い、フロントで「5階にWi-Fiがない」と伝えた。するとスタッフは、スマホのモバイル通信をいったん切ってから5階のWi-Fiを確認し始めた。ホテルの回線がどれだけひどいか、本人もよく知っているらしい。普段からWi-Fiではなく自分の通信を使っているわけだ。

次は冷たい水が出ないこと。お湯が出ないホテルなら何度も経験した。給湯器が壊れるのは、まあわかる。でも冷水がないのは初めてだ。昼間は手を洗うだけで、配管に残っていた冷たい水を使っていたため気づかなかった。夜、顔を洗おうとして初めて問題が発覚。蛇口を30秒ほど流すと、触れた手を反射的に引っ込めるくらい熱くなる。再びフロントへ行くと、これも事情は把握している様子だった。何かの修理で冷水の配管を日常的に止めているらしく、「10分で戻る」と言われた。実際、そのときは戻った。でも寝る前だけ。夜中にトイレへ起きたら、また冷水が消えていた。手を洗うなら、熱湯になる前に急ぐしかない。

最後は騒音。建物がかなり古く、窓がきちんと閉まらないので、防音という概念がほぼない。しかも駅に近いため、朝5時に始発列車の汽笛が鳴ったら睡眠終了。ただ、耳栓があったので多少は助かった。ここでは耳栓必須。

つまり、昼間ホテルにいるのは無理だった。ネットも水もまともに使えない場所で、どう休めというのか。本当なら部屋で一日だらだらしていたかもしれないが、こうなったら外へ出るしかない。行き先は前日のガイドに教えてもらった。ChatGPTにもいくつか候補を出してもらったが、ガイドから「行けるけど、歩いて片道3時間だよ。たぶん行きたくないと思う」と言われた。うん、それは行きたくない。

まず町の北東にある滝へ向かった。途中には露天のMachu Picchu Hot Springsがある。脇の山道から全体を見下ろせた。温泉なのかどうか少し不安になる水が、10平方メートルほどの小さなプールに引かれている。表面は見えるが、底は見えない。タオルの貸し出しもなく、自分で持ってくる必要がある。温泉が本当に好きな人でなければ、無理に入らなくてもいいと思う。

そこから山を10分ほど登ると、最初の滝、Cataratas de Aguas Calientesに着いた。こちらはきちんと整備された観光地で、温泉と同じ入口から入り、入場料は現金でもカードでも払える。山道には木のベンチが何度も現れるので、休みながら楽に登れた。

いったん下山し、二つ目のAllcamayo Waterfallsへ。こちらは本当に整備されていない。まず15分ほど、でこぼこした石だらけの急坂を登り、小さな休憩所のような売店へ向かう。途中に座れる場所は一つもなく、休みたければ立ったまま脚に手をつくしかない。たった15分なのに、着いた時点ですでにかなり疲れた。売店でチケットを買う。ここも現金とカードの両方が使えた。さらに5分ほど進むと、最初の「滝」に到着。見た瞬間の感想は、これを滝と呼ぶのか……?

そこから10分もかからず、二つ目の滝へ。こっちはちゃんと滝らしい。

ほとんど手つかずの森なので、道はかなり歩きにくい。けが、特に足首をひねるのは絶対に避けたい。ここで動けなくなったら本当に大変だ。そして虫よけも強くおすすめする。道の途中から、正体不明の大きなハチのような虫がずっと僕についてきた。ミツバチなのかスズメバチなのかもわからない。滝までついてきて、帰り道も森を出る少し前まで一緒。怖すぎる。こんな同行者はいらないので、虫よけは持っていったほうがいい。

正直、よほどのハイキング好きでなければ、この二つ目の滝は行かなくてもいいと思う。最初の滝に比べて体力を使いすぎるわりに、見返りはそこまで大きくない。森から出たときには、服がほぼ汗でびしょびしょだった。

その後は、マチュピチュの山裾にある蝶園「Mariposario of Machu Picchu」まで歩いた。なぜ歩いたのかというと、この町では普通、車という選択肢がほぼないからだ。車は荷物の運搬や、観光客をマチュピチュへ運ぶバスなど、特別な用途に限られている。基本はどこへ行くにも徒歩。

蝶園ではたくさんの蝶を見られる。いろいろな種類がいるという説明だったが、訪れたときは特定の一種がかなり多かった。

最後の最後に、山の下からマチュピチュを見上げる、かなりぼんやりした一枚を撮った。

これで今回の旅は無事終了。