ICPC世界大会 2022 & 2023
ルクソール, エジプト
初めて現地でジャッジとして世界大会に参加した。
国 · EG
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ルクソール, エジプト
初めて現地でジャッジとして世界大会に参加した。
初めて現地でジャッジとして世界大会に参加した。
何年ぶりかで、僕はまた世界大会の会場に足を踏み入れた。ものすごくワクワクすると同時に、いろいろ感慨深くもあった。まさに心は高鳴り、手は震えるというやつだ。歳月は容赦ない。初めて世界大会に出てから、もう12年。プログラミングに初めて触れてからは17年も経っていた。
実を言うと、世界大会でジャッジの仕事をするのはこれが初めてではない。前年にバングラデシュで行われた大会――時系列で言えば前々年だが――でもジャッジをしていた。ただし現地には行っていない。「心は高鳴り、手は震える」くらい楽しみにしていた人間なので、行けるなら当然行きたかった。でも行けなかった。僕のようにビザでアメリカに滞在している人が海外へ出る場合、目的地のビザよりアメリカへ戻るためのビザのほうが面倒なことが多い。特に中国国籍だとそうだった。僕も、2018年にロンドンへ行ったときのインターン仲間と同じ問題にぶつかった。アメリカを出たら、戻るための有効なビザがなかったのだ。
しかも今回はコロナ禍のせいで、中国へ戻ること自体がかなり難しかった。当時の中国はまだ全面的に開放されておらず、帰国すれば何日か分からない隔離が待っていた。さらに当時は、アメリカの就労ビザが行政審査に回される可能性もかなり高かった。すべて順調でも、帰国してから戻れるまで最低一か月。大会の日程まで足せば一か月半になる。働いている身でそこまで長く休むのは、さすがに無理だった。
近隣国でアメリカのビザを取る手もあった。カナダやメキシコへ行けばいい。そこで調べてみると、当時ネットで見つけた情報では、みんな同じことを考えていたせいか、カナダの面接予約は一年先まで埋まっているらしい。さすがに言葉が出なかった。メキシコも半年先と言われていたが、運がよければ三か月以内、もっと近い枠が出ることもあるらしい。ただし実際に予約画面へ入るまで分からない。
そこで運試しをすることにした。とはいえ、この運試しは誰でも気軽に参加できるものではない。まず書類を全部埋める。そして何より、日程選択画面を見る前に料金を払わなければならない。この支払いがかなり面倒で、現地の人に代わりに払ってもらうしかなかった。どう見ても詐欺に遭いやすそうな仕組みだ。ネットで「代理支払いのプロ」らしい人を探して頼んでみた。すぐに支払いは成功した。少なくとも、ここでは騙されなかった。
ところが面接の予約状況はどうにもならなかった。メキシコ国内でビザを扱う領事館を全部調べたが、どこでも僕のようなケースを受け付けているわけではない。メキシコ人向けの手続きしかせず、外国人の面接は扱わないところもあった。使えるところはどこも半年以上先まで埋まっていて、大会には到底間に合わない。
二週間、黙々と更新し続けたが、何の進展もなかった。ネット上の予約代行に頼み、ツールで24時間更新し続けてもらわない限り、空きを取るのは無理そうだった。ここで諦めた。ビザ代はアメリカ大使館への寄付だったと思うことにした。
ビザ以外にも、在留資格に関わる問題があった。当時、僕のアメリカ永住権の順番は表Bならもうすぐ、表Aだとまだ一年ほど先だった。知らない人向けに簡単に説明すると、永住権申請にはまずPD、つまり「優先日」がある。ざっくり言えば、表Aは永住権の枠がいつ使えるようになり、最終承認を受けられるかを決める。表Bはいつ先に申請書を提出できるかを決める。ただし本当に表Bで提出できるかどうかは、その月にUSCISが表Aと表Bのどちらを使うと指定するか次第だ。普通は表Bのほうが表Aより先に進んでいて、ときにはかなり差がある。表Bが決めるのは提出時期だけなので、いつ永住権を受け取れるかを意味するわけではない。しかも順番は後退することもある。ある月に一気に進んで申請が殺到し、その後止まったり逆戻りしたりするのも珍しくない。
よく聞かれるのは、表Aが来ていないなら、表Bが来てもどうせ承認されないし意味がないのでは、という話だ。理屈だけならそうだ。でも現実には、永住権の審査はとにかく長い。今はかなり速くなったと聞くが、僕たちのころは申請してからカードを受け取るまで一年以上待つのも普通だった。もっと遅い時期もあった。運悪く処理の遅いルートに入れば、二年待ちもあり得た。
表Aが来ていなければ、使える移民ビザ枠がないので最終承認はされない。ただし、その前の審査まで何もできないわけではない。その月に表Bの使用が認められ、自分の順番も来ていれば、先に申請を出してUSCISに処理を始めてもらえる。前段階の手続きがほぼ終われば、表Aが来るまで待機できる。後から表Aが自分の優先日に届き、ほかの条件も満たしていれば、比較的すぐカードを受け取れる可能性がある。表Aが来てから申請を始めるより、どれだけ速いか分からない。僕の言い方なら、「二日遅く出して、二年長く待つ」だ。
僕の場合、表Bがもうすぐ自分の優先日に届きそうだった。その月にUSCISが表Bを認め、僕も条件を満たしていれば、申請を出せるはずだった。ところがその時期にアメリカを離れると、当時の提出に影響が出て、戻ってからでないと手続きできない可能性があった。この話はさらに複雑なので省略する。帰国したころに表Bが後退していたら、後悔してもしきれなかっただろう。
そういう事情を全部考えて、僕は2022年、つまり2021年世界大会の現地参加を諦めた。この年は初めて世界大会の問題作成とレビューに関わったが、かなりスリリングな体験だった。問題を提出するときは解法も出す必要がある。しかし担当問題が送られてきても、解き方は教えてもらえない。全部自分で仕上げてから、元の作問者と答えを突き合わせる。もし担当がランダムなら、全員が全問題を解けないといけないということになる。要求水準が相当高い。幸い、その前の二年間でかなり実力を上げ、Codeforcesで赤になっていた。そうでなければ、たぶん解けなかった。準備中の機密管理もものすごく厳しく、メールもファイルもすべて暗号化。いつ誰かに傍受されてもおかしくない、という前提だった。メール一本送るだけでスパイ映画である。
担当問題のために図も描いた。ものすごくダサかったが、解像度さえ足りていれば誰も直す気はなかったらしい。別の問題では、隠しデータに『原神』の七元素アイコンを描くというイースターエッグも仕込もうとした。結局「役に立たないデータ」という理由で削除され、しかもポケモンのタイプだと勘違いされた。
時は2023年。大会は本来11月にシャルム・エル・シェイクで開かれる予定だった。そう、見間違いではない。最初からルクソールだったわけではない。ところが、その後何が起きたかはみんな知っている。2023年10月7日にイスラエルとハマスの戦争が始まり、中東の安全状況は急速に悪化した。シャルム・エル・シェイクはガザのすぐ近くではないものの、多くの参加者の移動、安全、航空便の手配に影響が出たため、11月の計画は最終的に中止された。開催日は未定になった。
ICPCが参加者に新しいメールを送り、2024年4月14日から19日という日程を確定したのは、2024年1月19日になってからだった。その時点では会場が「ナイル川沿いの有名な都市」に変わることだけが明かされ、後にルクソールだと正式発表された。
この主催者、エジプトに来るたび何か起きる。2011年世界大会も当初はエジプトのシャルム・エル・シェイクで、2011年2月28日から3月4日まで開かれる予定だった。問題が起きたのは大会のおよそ一か月前。2011年1月25日、エジプトで大規模な反政府デモが始まった。後に「エジプト革命」、そして「アラブの春」の一部と呼ばれる出来事だ。カイロなどの都市は急速に深刻な混乱へ入った。2月1日ごろには、主催者はエジプトでの開催は不可能だと判断し、世界大会の延期と他国への移転を決めた。場所と日程は後日発表。最終的に大会はアメリカで開かれた。
そして今回、よく似た展開がまた起きた。もちろん主催者にどうにかできる話ではない。それでも「開催地選びがうますぎる」という評判は、掲示板ですっかり定着していた。かなり叩かれていた。これは普通のイベントではなく競技大会だ。延期されれば選手の状態、特に優勝を狙えるチームへの影響は大きい。
しかもコロナのせいで、世界大会はすでに一年以上遅れていた。進行を取り戻すため、2022年と2023年の世界大会を同時開催する予定だったのに、今度はまとめて延期。2022年世界大会を2024年にやるのである。「国際大学対抗プログラミングコンテスト」なのに、選手の中には卒業して働き始めて二年という人までいた。予選を通ってからどれだけ経ったかも分からない。そこから呼び戻して競技させる。これ、本当にちゃんと戦えるのか?
選手たちは不満をぶつける先が必要だった。結果、主催者はかなり叩かれた。
あらゆる困難を乗り越え、世界大会は最終的に2024年、ルクソールで開催された。
僕はエジプトの到着ビザを利用できたので、入国ビザは問題なかった。このころには僕も無事アメリカの永住権を取得しており、アメリカへ戻る心配もない。ただ、正直かなり行きにくい。飛行機をいくつも乗り継ぎ、時間も長い。もうこの老体にはなかなかつらかった。
エジプト入国後はカイロで乗り継ぎ、ルクソールへ向かう。まさかエジプト旅行がカイロにいるうちから二発も洗礼を浴びせてくるとは思わなかった。今回の乗り継ぎでは、なぜか三回も保安検査を通った。どうして空港の外へ出たのかは聞かないでほしい。本来は制限エリア内で乗り継げたのに、案内表示に完全に惑わされ、歩いているうちにそのまま空港の外へ出てしまった。
三回の内訳は、空港に入るときの軽い検査、搭乗券を見せて待合エリアへ入るときの本格的な検査、そして各搭乗口にあるもう一度の本格的な検査だった。
問題は最後の検査で起きた。担当者は一人だけで、かなり大きな裁量を持っていた。「絶対的な権力は絶対に腐敗する」とは言うが、まさか自分がその実演を見ることになるとは。
検査を通るとき、担当者はスーツケースを開けろと言った。そして蒸気アイマスクを指して、これは何だと聞いた。目の疲れを取る温かいアイマスクだと答えると、持ち込み禁止だと言う。この時点では、まだ事態の本質に気づいていなかった。珍しいものだから見たことがなく、安全のために止めているのだろう、と単純に考えていた。
彼はアイマスクを脇へ置き、今度は電動歯ブラシのケースを指した。これは何だ。電動歯ブラシだ。持ち込み禁止。もう頭の中は疑問符だらけだった。歯ブラシも持っていかれた。
最後にAppleのイヤホンを指して、これは何だと聞く。見れば分かるだろう、イヤホンだ。すると、これも持ち込み禁止。イヤホンも横へ置かれた。もう完全に意味が分からない。
そこで彼も、僕がまだ察していないことに気づいたらしい。一言だけ聞いてきた。その瞬間、全部分かった。
「金はあるか?」
なるほど、これはもうほとんど強盗ではないか。でも僕に何ができる。ようやく理解した顔でポケットから金を出そうとすると、彼はいきなり僕の手を押さえ、「何をしてる」と言いながら、金ごと机の上のリュックへ押し込んだ。さらにあきれた。賄賂を求めるのがまずいことは分かっているのか。監視カメラを避けたいのか?
リュックの中で現金を探し、10エジプト・ポンド札を一枚出した。彼は露骨に不満そうに「ノー、ノー、ノー」と言い、100ポンド札を指した。どうしようもないので100を渡した。すると満足そうに笑い、「友よ、これでもう全部問題ない」と言う。イヤホンを手に取り、「これは問題ない」とリュックへ戻した。歯ブラシもアイマスクも同じように突然問題がなくなった。そして僕を通した。
そのときはかなり動揺していて、また何か起きるのが怖く、とにかく早く離れたかった。入国時に米ドルをエジプト・ポンドへ替えておいて本当によかった。もし現金がなかったらどうなっていたのか。ドルを指して「これは持ち込み禁止」と言われ、そのまま取られたら、僕に何ができただろう。
搭乗口のそばに座り、ネットで調べると、エジプトの空港で似た経験をしたという書き込みがかなり見つかった。保安検査員に金を要求されたという人も多かった。ネット上には、一人で行動していて助けてくれる人がいなさそうな旅行者を狙う、と主張する人もいた。右も左も分からない場所で、上司を呼べと要求して議論するのか。その上司がどちらにつくかも分からない。最悪、そのまま入国を拒否されたらどうする?
少なくともその日、金を要求されたのは僕だけではなかった。座っていると、少し離れたところで中国人女性二人が、今さっき自分たちも金を取られたと話しているのが聞こえた。
まだ終わりではない。空港のトイレでも面倒なことがあった。手を洗う場所には普通に石けんとペーパータオルが置いてある。すると清掃員らしき人が、石けんを手に持って僕の前へ差し出してきた。これは使わなかった。手を乾かそうとすると、今度はティッシュの包みを差し出してきた。つい二枚取ってしまった。出ようとしたら、彼はトイレの入口をふさぎ、手を出してチップを要求した。そのとき口にしたのは「tip」の一語だけで、あとは何も言わない。これは彼が知っている唯一の英単語で、この商売のためだけに覚えたのではないか――そんな疑いまで浮かんだ。
また金を取られる。どうしろというのだ。トイレの中で殴り合いでも始めるのか……。
ここまで来ると、僕の中でエジプトの印象は最低ランクまで落ちていた。ネットで見かけた、「エジプトに行かなければ一生後悔し、行けば行ったで一生後悔する」という皮肉な旅行ジョークが、この二件の直後には妙に説得力を持って聞こえた。
当時ネットで見つけられた数字を少し調べてみた。エジプトの大学の正教授の月収を約2万エジプト・ポンドとしている資料もあった。ドルにすれば約400ドルで、アメリカの普通の博士課程学生の六分の一ほどだ。ここで完全な仮定の計算をしてみる。この保安検査員が月20日働き、一日にたった10人から一人100ポンドずつ取れたとしたら、それだけで副収入が大学教授の月収を超える。これ、さすがにおかしくないか? ちゃんと取り締まるべきじゃないのか?
ルクソール行きの飛行機は無事に到着し、その後は幸い何も起きなかった。主催者が用意した宿は、ナイル川沿いの「豪華リゾート」だった。わざわざ括弧をつけたのは、本物の豪華リゾートという言葉から想像するものとはそれなりに差があったからだ。それでも、現地としてかなり頑張って用意してくれたのは伝わってきた。
ホテルは川のすぐそばにあり、部屋からナイル川の夜景が見えた。
リゾートだけあって、なんと敷地内に動物園まであった。そして今年の問題には、動物園を舞台にしたものが一問あった。そこで僕たちは動物園へ行き、その問題の挿絵用に写真を撮った。ちなみに下の写真ではない。
主催者が用意した休養日の観光は、ナイル川の船旅から始まった。正直、かなりよかった。小さな船に乗って風に吹かれるだけなら、大した話には聞こえない。でも足元を流れているのが、伝統的に世界最長とされてきたナイル川だと思うと、急にテンションが上がる。
その後はカルナック神殿を見学した。映画の中の謎めいた風景がそのまま現実に出てきたようで、いつミイラが飛び出してきてもおかしくない雰囲気だった。
主催者の公式日程とは別に、ジャッジ陣で忙しい合間を縫ってプライベートツアーを組み、王家の谷と王妃の谷、それから周辺のいくつかの場所へ行った。
エジプトの古代文明遺跡は、本当に数え切れないほどある。
あっという間に大会当日。現地の配信スタジオは屋外にあり、雰囲気はよかった。ただ、一目見ただけで蚊が多そうだった。
競技会場は臨時で建てた巨大な施設だった。エジプト全土を探しても、二大会、合計260以上のチームを一度に収容できる常設会場は見つからなかったのかもしれない。だから建てるしかない。イメージとしては、不透明な二重構造の巨大ビニールハウスだ。外側から中間層まではスタッフ用のエリアで選手は入れず、一番内側が超巨大な競技会場になっていた。
何はともあれ、空調だけは本当に完璧だった。会場内はかなり涼しい。外の気温を考えると、これがなければ競技どころではなかっただろう。
ジャッジはコンテストシステムのスタッフと同じ部屋を使った。オフィスと言っても、大学のコンピューター室くらいの広さがある。この二組が同室なのは伝統らしい。大会運営と提出のジャッジを一緒に支えるので、何か問題が起きたとき、その場ですぐ相談できる。
二つの世界大会は、問題と番号をそれぞれ独立させていた。同じ問題が含まれていても別々の番号が振られているため、相手側のスコアボードを見ても、どの問題がどれに対応するのか正確には分からない。問題選びにもかなり気を使った。各大会だけに出る問題を十分違うものにして、少なくとも両大会の優勝チームを単純比較しにくくしたかった。もし問題構成も試合展開もほぼ同じで、片方の優勝チームがもう一方より一問多く解いていたら、「弱い側の優勝チームは、強豪が反対側に集まっていたから運よく勝っただけ」と言われかねない。優勝したのにそんなふうに笑われたら、たまったものではない。
以前コーチとして世界大会に来たときと同じで、五時間と聞くと長そうなのに、スコアボードを眺めているうちに二時間が消える。時間はかなり速く過ぎていった。
大会中、問題の解説動画を一本収録してほしいと頼まれた。この動画は今も世界大会の公式YouTubeチャンネルに残っている。
この五時間のジャッジ生活は、実に退屈だった。というのも、ジャッジや作問者の仕事の大部分は大会前に終わっている。本番中に仕事が山ほど出てきたら、それは何かが起きたということだ。大会中に一番多くやったのは、チームからのclarificationを受け取り、英語の文法を議論し、最後に「回答できません」と返すことだった。中でも一番面白かった質問はこれだ。「キーボードの0を押すたびにパソコンがシャットダウンします。まだ助かりますか?」
幸い、これは前日のリハーサルで起きた問題で、すでに直っていた。本番中だったら、そのチームは確実に大騒ぎしてスタッフを呼びまくっていただろう。
最後に、大逆転で優勝した北京大学、おめでとう。276分にSを初めて通した瞬間、ジャッジルームは全員で歓声を上げた。292分にXを通すと、さらに会場が爆発した。もちろん、爆発した「会場」はジャッジルームだけだ。現地のスコアボードは凍結されていて、順位発表までは何も見えない。
それに比べると、もう一方の世界大会の優勝は、僕にはかなり普通に見えてしまった。問題の難しさがだいたい同じなのに一問少なく、完全にかすんだ印象だった。避けたかった比較は、結局起きてしまった。
閉会式と順位発表は、3500年以上の歴史を持つ神殿前の屋外広場で行われた。ルクソール西岸の有名なハトシェプスト女王葬祭殿で、崖の下に建っている。舞台は神殿の真正面に設置され、古代エジプトの神殿と背後の崖がそのまま背景になった。かなり迫力がある。昼間にも見学した場所だが、夜は手前の照明が強すぎて、肉眼なら背景がかろうじて見えても、写真にはほとんど写らなかった。閉会式ではその場で夕食も出た。今夜の料理はこんな感じ。超巨大な鍋で全部煮込んだように見える。
残念ながら僕たちジャッジは結果を先に知り、もう歓声も上げ終わっていたので、順位発表はかなり退屈だった。しかも選手にその場で自分の順位を予想させるのが、見ているこちらまで気まずくなるほどだった。選手たちの表情は、配信画面から今すぐ消えたいと言っていた。北京大学はペナルティが大きかったため、逆転のドラマは銀メダル圏の発表中に終わった。10問で一気に首位へ上がってからは、もう落ちなかった。
大会翌日は、みんなそれぞれ帰宅。僕はカイロで一日遊ぶことなどまったく考えず、そのまま飛行機でアメリカへ戻った。エジプトまで来たのにピラミッドを見なかったのは、本当に残念だった。
後で聞いた話だが、ジャッジ団のアメリカ人の一人は大会翌日、午前3時の便でカイロへ飛び、日帰りツアーに参加し、夜8時の便でアメリカへ帰ったらしい。しかもこの人、もう60歳だ。どれだけ体力があって、どれだけ自分を酷使できるんだ。僕はなぜそんな手を思いつかなかったのか。
この一件で、僕の旅の考え方は一気に広がった。それからはどこへ行っても、まず「せっかく来たんだから、ついでに何かできないか」と考えるようになった。旅行なんて、そもそも自分から苦労しに行くようなものだ。予定を全部固定する必要はない。そのときの気分で、適当に変えてしまえばいい。