タホ湖3日間ドライブ旅行
サウス・レイク・タホ, アメリカ
スポーツカーを借りてタホ湖を一周し、二つの峠を遠回りして帰る旅。
国 · アメリカ
18件の記事、15か所。
サウス・レイク・タホ, アメリカ
スポーツカーを借りてタホ湖を一周し、二つの峠を遠回りして帰る旅。
フェアバンクス, アメリカ
昼は犬ぞり、夜はオーロラ待ち。フェアバンクスで、ついに空が光った。
アンカレッジ, アメリカ
ちょっと残念だった動物園から一転、ヘリでクニック氷河に降り立った。
アトランタ, アメリカ
第1回 North America Championship(NAC)に参加。
アナーバー, アメリカ
博士論文の審査を無事に通過し、アナーバーに別れを告げる時が来た。
オーランド, アメリカ
論文発表を終え、ついでに開業したばかりのボルケーノ・ベイへ行ってみた。
ラピッドシティ, アメリカ合衆国
初めてコーチとして参加した世界大会。
フェアバンクス, アメリカ
オーロラはほとんど見られず。そのぶん、氷点下40°Cの山奥で温泉にはたっぷり浸かった。
アンカレッジ, アメリカ
時間つぶしのつもりが、オオカミやトラ、ホッキョクグマに思いがけず楽しませてもらった。
シカゴ, アメリカ
シカゴで論文を発表し、ついでに2016年のトランプ旋風を眺める。
サンディエゴ, アメリカ
ロサンゼルスから日帰りでサンディエゴへ。湾岸クルーズのあと、シーワールドでシャチやアシカ、イルカのショーを巡った一日。
ロサンゼルス, アメリカ
ハリウッド、ユニバーサル・スタジオ、ビバリーヒルズ、ゲティ・センターを巡ったロサンゼルスの3日間。
ラスベガス, アメリカ
カジノリゾートとデビッド・カッパーフィールドのショーを楽しみ、まったく飲み放題にならない酒プランに苦戦し、ヘリ酔いに耐えながらグランドキャニオンへ飛んだラスベガスの旅。
ニューヨーク, アメリカ
国連本部、エンパイア・ステート・ビル、ウォール街、自由の女神、タイムズスクエア、メトロポリタン美術館を駆け足で巡ったニューヨークの3日間。
ワシントンD.C., アメリカ
アメリカ5都市巡りの最初の街、ワシントンD.C.で、ホワイトハウスや桜祭り、首都のランドマークを巡った。
フェアバンクス, アメリカ
春休みにフェアバンクスでオーロラを追い、レンタカーと冬道でトラブル続きになった旅。
ヴェローナ, アメリカ
アメリカで初めて一人で飛行機に乗り、ホテルに泊まって、Epicのオンサイト面接へ。
アレンデール, アメリカ
夢が始まった場所。
夢が始まった場所。
すべては2012年の地区予選から始まった。僕がこの大会に出ることになったのも、かなり偶然だった。
競技プログラミングを始めたのは高校時代。先生がクラスへ勧誘に来て、国際大会に出たすごい選手が数万ドルの全額奨学金をもらい、プリンストン大学に合格した、という話をしていた。当時の省大会の参加費は30元ほど。先生はこれを一言でまとめた。「30元払って、30万元稼ごう」。
それで始めて、すっかりハマり、全国大会で銀メダルを取り、上海交通大学への推薦入学も決まった。
上海交通大学に来る学生がどれほど強いかは分かっていた。僕よりはるかに上の人ばかりだ。その中でもICPCチームは世界一を何度も取った超強豪。大学では競技を続けるつもりなどなかった。どう考えても無理だと思っていた。
転機は2012年、アメリカへ来たときだった。上海交通大学で2年、ミシガン大学で2年学び、両方の学位を取る2+2プログラムで、僕は3年生からアメリカへ移った。ミシガン大学は2011年世界大会で学校史上最高の2位、金メダルを取ったばかりで、その実績が計算機科学科の建物に大きく掲示されていた。
僕は見ただけで気に留めなかったが、ルームメイトはそこに勝機を見つけた。上海交通大学は強い。でもミシガン大学はそうでもないのでは? 調べると、2011年世界大会の強さは二人の化け物級選手に支えられていた。一人は引退後に僕たちの学生コーチとなり、もう一人は中国IOI代表経験のある一学期だけの交換留学生だった。二人ともその後は世界大会に出る資格がなく、抜けた途端にチームは崩れ、2012年は世界大会にも進めなかった。
ルームメイトは2011年地区予選の問題と順位表を読み、結論を出した。「これなら俺でもいける」。
三人一組の大会なので、彼は僕を誘った。そして一言で僕を落とした。「もう一度、夢を追ってみたくない?」
2011年の問題を出し、「これ簡単、次も簡単」と六問続けて見せた。全部サービス問題に見えた。そして言った。「ほら、これで世界大会に行けるじゃん」。
僕は参加することにした。
この年のチーム選抜は二転三転し、最後には完全に折れた。
校内選抜前、僕たちはコーチにチーム編成を聞いた。二人で組みたいが、先に固定できないか。公平のため無理で、順位どおり上位三人、その次の三人で組むという。これは点数調整が必要なのでは?
もっとも、練習ではずっと僕たちが1位と2位だったので、調整する意味もなさそうだった。
ところが本番で崩れた。ルームメイトはそれまで好調すぎて油断し、難問に時間を使いすぎ、簡単な問題を大量に残した。しかも選抜は週末の二日間から好きな日を選ぶ方式だった。僕たちは初日に出て、彼は失敗しても2位だったので大丈夫そうに見えた。ところが二日目、練習に一度も来なかった未知の強敵が二人現れ、あっさり彼を抜いた。
計画は爆発した。僕はその二人の中国人留学生と組むことになる。僕は別に構わないが、ルームメイトにはつらい。友達のオーディションに付き添ったら、友達だけ受かった、というよくある話そのものだった。
結果は僕が7問で1位、二人が6問、ルームメイトが4問。差が大きすぎて、誰かが自分から辞退しない限り覆せない。
結局、誰も辞退しなかった。僕は二人と組んだ。以後、一人を問題読み担当、もう一人を「おまけ担当」と呼ぶ。前者はその後二年間、世界大会で問題を読む役になるが、この時点ではまだ普通に実装もしていた。
おまけ担当は高校時代かなり有名で、2008年中国情報オリンピック優勝者の曹欽翔と並び称されたこともあるらしい。それほどなら、どれだけ強いのかと思う。
そして彼は、とんでもない規模で僕たちを困らせた。
地区予選前、今年はワイルドカードが一枠来ると聞いた。僕たちは通常三校が進出し、今年は四校になると思っていた。上位はカーネギーメロン、ウォータールー、トロントの三校。前二校は世界大会のメダル圏付近に何度も入り、トロントにもその年は元IOI代表がいたと聞いた。
この三校は地域だけでなく北米全体でもトップ級で、ウォータールーとCMUは世界大会で北米首位をよく取っていた。後にMITへ中国出身の強豪が多数入って、北米の勢力図は大きく変わった。
当時の世界大会全体を見ると、北米は比較的弱く、アフリカ、アラブ、南米よりは強いが、欧州やアジアとは平均レベルに大きな差があった。つまり僕たちは、弱い地域の中の最強地区にいた。
でもワイルドカードがあるなら問題ない。三強を除けば次は僕たちで、残りの学校はその年ほとんど競争にならなかった。
気楽に構え、唯一の目標は4位を守ること。大学の練習に少し参加しただけで、追加練習はしなかった。二人とはまだあまり親しくなかった。
本番は全九問で、最初の八問は明らかに簡単だった。ただし多少の実装量はある。世界大会基準ならゼロ同然だが、当時の僕たちの実装力も普通で、簡単な問題にかなり時間がかかった。CMUは1時間半で六問、3時間ほどで八問を解き、スコアボード凍結前に全完した。
僕と問題読み担当は4時間以上かけ、どうにか六問を実装して通した。その間、おまけ担当は最後、つまり最難関の問題から読んだ。普通は難易度順ではないが、たまたま最後が最難関で、彼はたまたま後ろから読んでいた。
幾何の問題だった。少しでも経験があれば、地区予選のこの種の幾何は、最強チームの早すぎる全完を防ぐための難問だと分かったはずだ。ところが彼は自信満々で「いける、難しくない」と実装を始めた。序盤に60行ほどを書き終え、最後までデバッグできなかった。当然だ。公式解法は場合分けだけで200行以上。60行で通そうというのは無理がある。
序盤のPC時間を大量に使った。中盤で幾何を諦め、七問目へ。普通の為替換算と最短路だったと記憶している。罠は浮動小数点だと誤差で落ち、64ビット整数で分数を管理する必要があること。彼は浮動小数点を使い、また失敗した。
一時間後、問題読み担当が分数で書き直したが、やはり通らない。結局どちらも解けなかった。後で見ると、配列一つの初期化漏れだった。最初に0を入れれば通った。
僕が一度も読まなかった八問目は簡単な最大流だった。見ていれば解けた。でも現場では読む機会すらなく、PC時間は残り二問のデバッグに消えた。
最終成績は六問。CMUは全完し、ウォータールーとトロントも3時間前後で八問まで進んだが、全完には届かなかった。
反省会で、おまけ担当は自分が実質何もしていないことに気づいた。二問書いて両方失敗、得点への貢献ゼロ、PC時間だけ大量消費。
ルームメイトは二軍で、さらにひどい経験をした。アメリカ人のチームメイトの名前を中国語音写すると、あまり賢そうに聞こえなかった。大会前は気にしていなかったが、試合後ルームメイトが激怒し、それ以来「まさに名は体を表す人」と呼ぶようになった。
どうせ参加賞状態のチームだと分かっていたので、ルームメイトも本気ではなく、多くの時間をその人になんとかコードを書かせることに使った。アルゴリズムは何を説明しても伝わらず、コードは何を書いても動かない。見ているだけでつらかったらしい。
僕たちは全体8位。上にはCMU四チーム、ウォータールー二チーム、トロント一チーム。この並びを見ると、進出しても少し気まずかったかもしれない。
一か月待った末、進出できないと分かった。実は通常枠は二つで、三つ目がすでにワイルドカードだった。強い地区なので毎年そこまでは来るが、四つ目はない。
災いの中に福もある。進出しなくてよかったのかもしれない。行っても完全に参加するだけになっていただろう。おまけ担当はそのシーズンを最後に出場資格がなくなった。僕、問題読み担当、そしてルームメイト改め数学担当の三人は、ちゃんと練習し、世界大会を単なる旅行にしないと決めた。
まずい。旅行したかっただけなのに、どうして急に夢まで持ってしまったのか。
当時の僕は、世界大会との縁がこの先どれほど続くか知る由もなかった。
シーズン後半の2013年初め、三人と大学の仲間で多くの練習をした。CMUと僕たちの学生コーチは友人で、ともにUSACO委員だったため、CMUの合宿にもよく参加し、アメリカIOI代表に混じってボコボコにされた。三人で公式戦にはまだ出ていなかったが、非公式戦はかなり経験した。ただ、非公式だと役割分担が適当で、書きたい人が書く。当時はまだ問題読み担当と数学担当の区別もなかった。
十年以上前のメールを掘り返し、副コーチが送った太古の写真を一枚見つけた。
2013年。また点数調整を考える時期が来た。半年以上、真面目ではあるが死ぬほどではない練習を続け、基礎力は前年よりはるかに上がっていた。
今年は伏兵がいるのか。分からない。実際にはいなかったし、大学の状況を考えればいないはずだった。三人とも中国の省大会一等賞レベル。大学からプログラミングを始めた学生に負ける理由はない。
校内選抜は無事に上位三人。実装が非常に速い新人がいて、七問中三問を二人より速く書いた。ただ、速いだけで最終的には四問。僕たちは全員五問以上だった。
地区予選で僕たちの目標は進出、コーチの目標はウォータールー撃破。ミシガン大学は世界大会でウォータールーを上回り銀メダルを取ったことがあるのに、地区予選では一度も勝っていなかった。強豪だからこそ、コーチはずっと目標にしていた。
実装の分担は相変わらずほぼランダム。問題読み担当も二問以上を書き、ひどいバグを自力で見つけてシミュレーション問題を通した。数学担当は最後のIという簡単な問題で、途中の値が18桁を超えて多倍長整数が必要か悩み続けた。同じ大学の別チームが通したのを見て、不要だと確信した。彼らの実力は知っている。多倍長整数など絶対に書けない。そこで交代し、一瞬で通した。
幾何のGは見た瞬間に捨てた。何だこれ、人間が解く問題か? 結果的に大正解で、リファレンス実装は300行近い。後にCodeforcesへ公開され世界中の強豪が挑戦したが、十年たっても五時間以内に通した人はいない。
最大の波乱は最大流のE。モデル化だけでも難しく、問題読み担当と僕が解法を思いついたときはかなり興奮した。実装して提出、TLE。最初の線形探索を二分探索に変えて提出、またTLE。
しかもかなり遅そうで、提出から結果まで毎回五分かかった。
もう手がなかった。線形探索なら毎回グラフを作り直さず、元のグラフで増加路を一本ずつ探せるとは理論上知っていた。でも書けない。たぶんそれが正解だった。
残り12分、適当な最適化と定数倍改善を入れ、ひたすら提出した。判定が遅く、全部キューに詰まった。
終了約五分前、七分前に出した提出が通った。その後にも何本出したか分からない。AC表示を見た瞬間、三人で叫び、会場中に聞こえたと思う。誰かが拍手し、さらに人が加わり、会場の選手たちから大きな拍手をもらった。
とても温かい会場だった。スコアボード凍結後のACは表示されないので、みんな何が起きたかすら知らなかったのに。
僕たちは7問、首位と同じ題数の2位で進出。そしてウォータールーを倒しただけでなく4位へ押し出し、世界大会進出まで阻止した。後で分かったが、最後の問題が通らなくても進出でき、学校順位も2位のままだった。学校順位とは各校の最高成績チームだけを比べた順位だ。実はかなり安泰だった。
その年の練習も前年とほぼ同じ。時間が合えばチーム練習、合わなければ各自練習。問題読み担当と僕は大学院のアルゴリズムを履修した。大半の学生には大学院で最難関級の授業で、後に僕が博士課程で五年間TAをして、その難しさをさらに理解した。
ところが当時の二人はこれを楽な授業として取った。教室の後ろで世界大会の問題を話し、授業はほぼ聞かず、二人ともA+だった。
このシーズンは北米招待大会NAIPCにも出た。前年のシカゴ大学招待大会が改称したもので、北米の世界大会進出チームを招く非公式戦。当時は進出と無関係だったが、北米制度の再編後、徐々にNACへ発展し、正式な選抜体系に入った。
当時のNAIPCは豪華だった。会場はホグワーツのような大図書館の閲覧室。現地開催の体験もよく、賞金も世界大会級を目指し、優勝1万2000ドル、2位6000ドル、銀賞3000ドルだった。
僕たちは4位で銀賞、3000ドルを獲得。競技人生で最初で最後の賞金だった。いい時期に当たった。その後賞金は急落し、数年後には金賞が250ドルのAmazonギフトカードになった。初年度に今後十年分の予算を使ったのか。
全21チームで、僕たちの地区の進出三校は3、4、6位。北米では本当に強い地区だった。
大会内容はほとんど覚えていない。3時間ほどで最後の一問を通した後、何も分からず残り二時間を過ごした記憶だけだ。
世界大会前、僕は卒業のため上海交通大学へ戻り、二人はアメリカに残った。それで終わり。まともな練習はしなかった。
新シーズン。前年の世界大会の反省から、今度こそしっかり練習する。さすがに緩すぎた。
いや、どうして年々本気になっているのか。
人間の欲には限りがない。一度手に入れると、もっと欲しくなる。最初は世界大会へ旅行したかっただけなのに、今度はメダルを狙い始めた。
選抜には新事情があった。僕は大学を卒業し博士課程へ。同学年の上海交通大学出身者も大勢ミシガン大学の大学院へ来て、強い選手も多かった。さらに数学担当が、国立台湾大学から来た大学院生が世界大会金メダル経験者でCodeforces赤、つまりトップ級だと調べた。僕たちは「赤レートの化け物」と呼んだ。
彼が出たら、三人のうち一人は確実に落ちる。
幸い説明会で会い、もう出場資格がないと分かった。ほっとした。
上海交通大学から来た他の強者も出ず、三人でまた上位を独占して組めた。
地区予選は波乱だらけだったが、結果に疑いはなかった。前年に大きな「ウォータールー」を喫し、長年の世界大会連続出場記録を僕たちに止められたらしいウォータールー大学は、雪辱を誓って戻り、8問で優勝。次の二校が7問、その次は5問。上位三校が断然強かった。
問題は不気味な難しさだった。前年世界大会の超難問路線を真似たのか、開始20分間は誰も通さず静まり返った。地区予選どころか世界大会でも異常だ。ウォータールーの初ACが42分、2位と僕たちは一時間後。中難度から始まり、簡単な問題がない。22位以下は一問、42位以下はゼロ。普通の参加者には最悪の体験だったと思う。
当時印象に残った問題はない。後で見直すと最後の幾何Iが非常に良く、計算幾何で前処理し、最大流で解く本物の世界大会級だった。もちろん現場では即捨てた。ウォータールーは凍結後に通し、優勝にふさわしかった。
僕たちは3位で少し不安になった。保証枠は二つで、3位はワイルドカード頼み。でもこの結果なら、さすがに僕たちの地区へ来るだろう。
無事にワイルドカードを得て進出した。
NAIPCにも出て6位、銀賞。ただし賞品は前年と比べものにならず、一人150ドルのAmazonギフトカード。この大会、一年で破産したのか。
この年は大量に練習した。世界大会でいい成績を取りたい。
前年は関わらなかった。学生コーチがまだいて、僕の出番がなかったからだ。ところが博士5年目の彼は、学位をやめて起業すると決めた。
僕は本当に驚いた。中国人的な感覚では理解しにくい。5年目で卒業間近なのに、なぜやめるのか。つらくても少し耐えれば卒業できるし、埋没費用が大きすぎる。
でもアメリカ人はもっと自由だ。やりたいから起業した。
大学には空白が残った。教授のコーチと副コーチは普段、学生の練習をほぼ管理せず、学生コーチが担当していた。彼が去り、僕が入った。まさに緊急登板だった。
まず選手探しから苦労した。前年は僕たち三人が引退し、地区予選は悲惨。二軍が最高で12位、次が三軍、四軍、一軍は30位以下。順位どおりに組む校内選抜でも、大事故は起こるらしい。
人材がいないので自分で探した。夏に入門アルゴリズム授業のTAをしていたので、成績上位者全員へ参加を勧めた。進出できるほど強くは見えなかったが、いないよりましだ。
学期開始後、練習会を作り、上位者へ順に連絡し、上海交通大学の後輩から競技経験者も発掘した。必死に説得して参加させた。
最終的に中国の省大会一等賞経験者を三人見つけた。進出を狙えるはずだった。
現実は容赦ない。実装力不足で本戦進出を逃した以前に、校内選抜で三人一緒にすらなれなかった。
練習では常に上位三人で安心していたが、本番で大事件が起きた。
本当の兄弟である二人のアメリカ人を、兄と弟と呼ぶ。二人が1位と3位へ入った。2012年の伏兵と違い練習にはずっと来ていたが、ここまで上位は初めて。本番で覚醒したらしい。
僕の三人は2、4、5位。どう組むのか。本人たちは三人でいたい。特に一人は英会話が非常に苦手で、外国人と組めば双方つらい。
教授コーチは上位三人を主張し、僕は本人の希望も聞こうと主張。何度も揉め、最後は兄弟が同意すればよいとなった。
兄弟は同意した。本人たちもこだわりはなかったのだろう。上位に来ただけで予想外で、世界大会進出など考えていなかったはずだ。
1、3、6位が一軍、2、4、5位が二軍となった。
ここで6位の重要人物が登場する。僕は彼を「香港記者」と呼ぶ。中国人で香港の大学に通い、一学期だけ交換留学に来ていた。本物の記者ではなく、競技界の噂なら何でも知っている情報通だからだ。どこへ行っても西側の記者より先に着く、という昔の有名な冗談そのものだった。
選抜後、練習法と必須アルゴリズムを聞かれた。大学でプログラミングを始め、競プロはその学期からで基礎は薄い。でも速成法はあった。長年この地区へ出て、問題傾向は分かっている。ほぼ毎年最大流が出て、年々簡単になっていた。校内選抜にも最大流を二問入れ、解ける人を探していた。
他は無視して最大流だけ勉強しろ、と言った。
これが大当たりだった。兄弟は最大流を全く知らない。香港記者が本番でその問題を解いたから題数が足り、最後10分の逆転で2位進出できた。なければ10位以下だっただろう。
ただ当時、僕は二軍へより多く時間を使った。個人的に呼びやすく、呼べば来る。一軍は公式練習くらいしか来なかった。
三人の実装力には驚かされた。TAのオフィスアワーに誰も来ず、基礎練習へ呼んだ。単純な単一始点最短路。それを省大会一等賞三人が90分たっても書けない。僕は心が折れた。自分も初年度はこの程度だったのか?
練習でも簡単な問題を通せず、本番でも実装力不足で落とし、一軍に完敗した。
一方、兄の実装力は非常に高く速い。香港記者によると、速いだけでなく構造も厳密で、OOPを守り、ばらばらの関数やグローバル変数でなくクラスを作る。コード量が増えて速度を落とすため競技では珍しいが、バグ時には圧倒的に探しやすい。
一軍は無事進出し、僕は大喜び。また世界大会旅行だ。開催地がアメリカだと知り、今度はがっかりした。
香港記者は次学期に帰国し、チーム練習はほぼなし。オンライン練習もしたらしいが、効果はお察しだ。上海交通大学時代の僕たちも「練習した」とは言っていた。
他は残っていた。アルゴリズムの基礎が弱い、というよりほぼないので、補講を始めた。
完全なボランティアで、主な目的は兄弟に基本アルゴリズムを叩き込むこと。世界大会へ行くのに、定番を何も知らないのはまずい。
ここで別のアメリカ人が目に入った。彼には「アメリカ2号」という呼び名をつけることにする。校内7位で三軍の先頭だったが、当然、結果には満足していなかった。
兄弟の出席率は6割ほどだが、アメリカ2号は毎回来た。時間がなく内容が多いので授業は非常に速く、三、四週後にはほぼ誰も来なくなった。一度、彼だけを相手に一コマ全部講義した。
一学期で、自分の知識を全部渡した気がする。どれだけ身についたかは分からない。
また新しいシーズン。
前年同様、人を集めて回った。ただ、アメリカ2号が多くのアルゴリズムを学び、兄の実装速度もさらに上がったらしいので、今年は少し自信があった。
説明会で北京大学卒の大学院生二人に会った。前年の三人と違い、二人とも北京大学ICPCチーム経験者。一軍ではなくても二、三、四軍にはいた。競技経験だけでなく正統なICPC経験があり、実装速度も保証されるはず。僕は興奮した。上海交通大学四軍にも入れなさそうな僕から見れば、北京大学二軍なら地区予選くらい余裕で、面倒を見る必要もない。
実際、何もしなかった。
ところが校内選抜で二人とも崩れた。大会自体は非常によく作れたと思う。全問題に二人以上の正解者がいて、全12問を解いた人はいない。優勝9問。理想的な結果だった。
唯一の後悔は数学問題。導出が巧妙なので入れたが、実際は結論を知っていれば瞬殺、知らなければ手がかりゼロで、現場で導いた人はいなかった。これはよくなかった。
問題数と差が十分で、最後まで大逆転が続いた。元数学担当をオンライン観戦に誘い、最後30分を見た。残り15分、アメリカ2号が堅いアルゴリズム力で9問の首位。残り4分、兄が例の数学問題を思いつき8問で2位。それまでは「あの数学問題のせいで兄が一軍を逃したら残念」と話していたが、自力で逆転した。
上位三人は兄、アメリカ2号、そして初めて見るアメリカ3号。北京大学の二人は4、5位。主にペナルティが高く、僕の数学問題にもやられたらしい。アメリカ人は知っていたが、二人は知らなかった。あの問題がなければ二人とも一軍だったかもしれない。
この編成には満足した。一軍は兄とアメリカ2号がいれば地区予選の実力は十分で、新人の実力は大して重要でない。二軍も北京大学の二人がいれば、冗談抜きで三人目が誰でもよさそうだった。上位五人は断然強く、5位が8問、6位は5問だった。
本戦で一軍は期待に応えた。兄が強すぎた。問題は他の人が読んだが、コードは全部彼。一人で1時間14分に六問を書いて通し首位へ。その後失速しても二問追加し、地区の学校順位2位で世界大会進出。
二軍も同じ題数でペナルティが高いだけ。一軍がいなければ学校順位3位で、おそらく進出できた。
今年はそれで終わり。北京大学の二人は来年も出ると言い、次はもう安泰だと思った。
世界大会が中国開催だと知ってまた無言になった。無料の海外旅行を全くさせてくれない。大学のお金で帰国すると思うことにした。
また新シーズン。
北京大学の二人は続けて参加した。そもそもまだ出られるのか、真剣に議論した。一般には大学入学から五年以上だと出られないと思われていたが、当時ルールを読み直した僕たちは、入学年条件と生年月日条件は「または」で、どちらかを満たせば資格を得られると理解した。
アルゴリズム授業のTAを利用し、上海交通大学出身の博士課程の後輩も見つけた。競技経験はあるがICPC経験はない。問題ない。実装は北京大学の二人に任せ、彼は分析専任でいい。かなり説得して、また中国人三人のチームができた。開催地は早くからポルトガルと決まっていたので、四人のチャット名は「ポルトガル旅行団」。世界大会の結果はどうでもよく、地区予選を抜ければ旅行できる。
ところが校内選抜で大事故。北京大学の一人目、上海交通大学の一人、北京大学の二人目が8、5、4問で1、3、5位。5位を一軍へ入れるのは難しい。2位はアメリカ3号で6問。要するに1位だけ断然強く、残りはみんな補助役だった。
5位の彼は自業自得だった。開始一時間ほどから最難関に挑み、最後まで通せず、データが間違っているとまで疑った。後で解法を教えると自分の方法が違うと分かった。どうしてそんな試合運びをするのか。
北京大学の二人目はその場で諦め、一人目、上海交通大学の一人、アメリカ3号が一軍に。ポルトガル旅行団は正式に解散した。
この一軍も少し頑張れば世界大会へ行けたはずだが、地区予選でまた簡単な問題を実装できなかった。学校順位3位にはなったが、1位9問、2位8問、彼ら5問で、ワイルドカードは出なかった。
本当に自分たちとの戦いだった。どう転んでも3位なのだから、少しまともにできればワイルドカードを取れたかもしれない。
ポルトガル旅行団は完全に解散した。
僕のコーチ人生もここで終了。同じ地区予選会場へ六回通い、選手として二度進出、コーチとしてさらに二度進出させた。十分に輝いた時期だったと思う。
このときの僕はまだ知らない。僕と世界大会の関係に、まったく新しい章が始まろうとしていた。
アメリカで初めて一人で飛行機に乗り、ホテルに泊まって、Epicのオンサイト面接へ。
旅そのものは平凡だったけれど、人生初がやたらと詰まっていた。初めてのキャリアフェア、アメリカで初めて一人で乗る飛行機、初めて一人で泊まるホテル、そして初めてのオンサイト面接などなど。
まずは大学のキャリアフェアで履歴書を配り、夏のインターンを探した。僕は学部の2+2プログラムに参加していて、この年がアメリカに来て最初の年だった。中国でどれだけ成績が良くても、来たばかりなので今の大学でのGPAはまだない。こういう状態だと、相手がこのプログラムをよく知っていて、中国での成績がどれくらいのものか理解してくれない限り、履歴書を出してもほぼ相手にされなかった。
それでも出しに行った。当日はスーツをびしっと着て、珍しくそれなりに人間らしい格好をしていたが、新品の革靴には一日で足首を破壊されかけた。ほかの学生もだいたい同じような格好だった。当時はまだコンピューターサイエンス専攻が今ほど多くなく、ほかの分野では面接時の服装にもっと厳しかった。その後、プログラマーの採用が増えるにつれて、タンクトップに短パンでキャリアフェアへ来る人までどんどん増えていった。
そして案の定、ほとんどは何の返事もなく消えていった。そんな中で僕の履歴書を拾ってくれたのがEpicだった。キャリアフェアの二日後には連絡が来て、面接を受けることになった。
当時の僕はかなり自信満々だった。競技プログラミングをやっていたので、難しいのは面接の機会を手に入れるところまで。その先のコーディング面接なんて、簡単な問題をさっさと解くだけだと思っていた。しかも最初の面接があまりにも簡単に手に入ったので、このあとも次々に面接が来るものだと勘違いしていた。
一次は電話面接。何を話したかはまったく覚えていないが、とにかく通った。
二次はなかなか面白かった。指定された試験会場へ行く必要があったのだが、道に迷ったのでよく覚えている。地図を見ると、会場はS字型の道路沿いにあった。その道なら見覚えがあると思い、バスに乗って向かったものの、いくら探しても見つからない。よく見ると、数百メートル離れたところに、ほぼ平行なS字型の道路が二本あった。完全に違うほうへ来ていたのだ。慌ててもう一本の道まで走った。早めに出ていたおかげで、なんとか間に合った。地図の形だけで判断せず、最初から住所をきちんと確認すればよかった。
そして2時間、プログラミング問題を解いた。具体的に何問あったのかは、もう覚えていない。ただ、当時の僕は競技プログラミングをやっていたので、特に難しかったという記憶はなく、かなり早く解き終わった。
二次も、まあ当然のように通った。
そしてオンサイト面接。人生で初めてだった。大学から飛行機でEpic本社のある街へ行き、一泊して翌日に面接を受け、そのまま飛行機で戻る。費用はすべて会社持ちだった。
正直、少し不安だった。それまでアメリカでは、一人でバスに乗って空港へ行ったことも、一人で飛行機に乗ったことも、一人でホテルに泊まったこともない。何も分からず詰むのでは、と心配していた。
実際、何も分かっていなかった。いちばん怖かったのはマディソン空港だ。会社がホテルまで送ってくれるドライバーを手配していたのだが、よくあの人を見つけられたと思う。空港を一周し、もう完全に迷子だと焦りまくった末、なぜか最後は入口付近で奇跡的に会えた。
その後は無事にホテルへ到着した。とりあえずフロントにパスポートを渡したら、僕がやるべきことは全部終わったらしい。
その夜は会社の社員との食事会があった。メールには「参加しなくてもいいが、ほかの人は参加するかもしれない」と書いてある。何だそれ……要するに、できれば来いという強い圧では? しかし、この英語力である。
案の定、夕食ではメニューすら読めなかった。ハンバーガーなら大事故にはならないだろうと思い、とりあえず最初に載っていたものを適当に注文した。周りは楽しそうに話しているのに、僕はまったく会話に入れない。ただホテルへ帰って寝たかった。
翌日、オンサイト面接の会場へ。キャンパスはとてもきれいで、当時まだ何も知らなかった僕にはかなり衝撃的だった。社員たちも、このキャンパスがどれだけすごいか盛んに話していた。ずっと後になってから、ベイエリアの大企業なんて、たぶんどこも派手なキャンパスを持っているのではと思うようになった。
面接の具体的な内容は完全に忘れた。ただ、最後のとんでもない回答だけは覚えている。最終の行動面接で、面接官に「なぜうちで働きたいのですか?」と聞かれた。どこにでもある普通の質問だ。そこで僕は即答した。「留学生を採用しているからです」。なんとも正直すぎる回答である。
当時は何がまずいのか、まったく分かっていなかった。そもそもこの会社へ行きたいと強く思っていたわけでもなく、完全に気が緩んでいた。その後、Epicからの連絡はきれいに途絶えた。十年以上たった今でも、僕はまだ不採用通知を受け取っていない。
その答えも、当時は別に何とも思っていなかった。ずっと後になって思い返して、ようやくどれだけ場違いな回答だったかに気づいた。今考えると、面接官はその場で帰ってくれと思っていたのかもしれない。
こうして、人生初のオンサイト面接は、見事に何もないまま終わった。
春休みにフェアバンクスでオーロラを追い、レンタカーと冬道でトラブル続きになった旅。
この年の春休み、何人かの友人とアラスカへオーロラを見に行った。前にメキシコへ行ったときと同じメンバーで、今回もいつもどおり、いろいろと頼りない旅だった。
まずアンカレッジで数日過ごした。昔すぎて何をしたのかは完全に忘れた。ただ、大きなトラブルはなかった気がする。
それから飛行機でフェアバンクスへ。機体はとても小さく、プロペラがカバーに収まっておらず、むき出しになっていた。こんなに小さい飛行機に乗るのは初めてだった。ずっと揺れ続けて、今にもバラバラになりそうな気がしたが、もちろん無事に着陸した。
そしてここからは、旅の思い出というよりトラブル集である。
飛行機を降りた直後から、さっそく問題が起きた。数日間で600ドル強のレンタカーを借りようとしたところ、このときはクレジットカードでの支払いが必須で、デビットカードも現金も使えなかった。アンカレッジで借りたときにはそんな条件はなかったので、なぜここではクレジットカードが必要なのか分からなかった。
そこで発覚したのが、四人合わせてもクレジットカードは一枚しかないという事実だった。それどころか、四人合わせてもSSNを持っているのは一人だけ。当時の僕たちの状況では、クレジットカードを作るのもそう簡単ではなかった。そして唯一の一枚を持っていたのが僕だった。
人生初のクレジットカードで、限度額はものすごく低かった。当時は一カ月使い、請求が出てから期限どおりに払えばクレジットスコアが上がる、という考え方だった。利用額を抑えたり、先に返済したりする発想はまったくなかった。確認すると、使える枠は300ドル少々。レンタカーには全然足りない。
その場で払える分をすべて返済し、利用可能額を500ドル少々まで戻した。残りはここ数日の旅行中に使った分で、まだ「処理中」になっており、返済できなかった。それでも足りない。
スタッフに、もっと安い車はないかと聞いた。これがいちばん安いという。完全に詰んだ。するとスタッフが、もしかしたらこの車をもう少し安くできるかもしれないと言い、いろいろ操作してくれた。キャンセルできる追加の保険や補償をすべて外し、車だけ借りれば500ドル少々になるらしい。限度額を確認すると、本当にぎりぎりだった。決済後に残った枠は一桁。限界すぎる。
レンタカーで重要な補償の一つに、Collision Damage Waiver(CDW)やLoss Damage Waiver(LDW)がある。簡単に言えば、条件に該当する車両損害が起きたときの面倒をかなり減らせるものだ。しかし僕たちには、どちらもなかった。
こうして追加の保険も補償も何も付けていない車で出発した。車の価値は、たぶん2万〜3万ドルくらいだったと思う。本当にぶつけたら、ちょっと直すだけでも数千ドルかもしれない。それでも当時は「まあ大丈夫でしょ」と考えていた。若いというか、怖いもの知らずというか、よくその状態で出発できたものだ。
実際には、カード会社へ電話して一時的な限度額引き上げを頼んでみる方法もあった。数百ドル足りないだけなら、もしかすると対応してもらえたかもしれない。ただ、僕はクレジットカード初心者で、残りの三人に至ってはカードすら持っていなかった。そんな方法を知るはずもない。
借りた車は四駆だった。そして、僕たちのように気の向くまま変な道へ入っていく旅では、冬のアラスカの四駆は必需品どころか命綱だった。あるとき、道路にあった雪のくぼみへ突っ込んだ。深さはタイヤ半分ほど。小さかったからこそ気づかず、そのまま入ってしまった。そして出られなくなった。いろいろな方法を試し、タイヤの下にレンガを敷くといった謎の案まで出た。最大の問題は、レンガがなかったことだ。
三人が車を降りて押し、僕が運転したが、十数分やっても出られない。完全にお手上げだった。このとき、なぜか誰一人ロードサービスを呼ぶという発想がなかった。でも知らなくてよかったのかもしれない。追加補償のない車で呼んだら、自腹でいくらかかるのか分かったものではない。
そこで一人が気づいた。この四駆、後輪が回っていない。くぼみの中で前輪だけが空転している。本当に四駆なのか? 運転席の操作パネルを調べると、前輪駆動と四輪駆動を切り替えられる車で、ずっと前輪駆動のまま走っていたことが判明した。四駆へ切り替えてアクセルを踏むと、一発で脱出できた。
では、さっきまでの十数分はいったい何だったのか。そして四駆、めちゃくちゃ役に立つ!
この旅では最初から最後まで僕が運転した。理由は簡単で、四人合わせても免許証は二枚、そのうち一枚は紙だった。その持ち主は、試験に受かって以来一度も運転していない。追加補償を全部外したレンタカーを、そんな人に任せられるだろうか。
いちばん印象に残っている道は、山の中の温泉へ向かう道だ。たぶん二十〜三十キロほど、ずっと氷の路面だった。聞き間違いではない。雪ではなく、昔の雪が踏み固められた氷だ。本物の氷の上を走ると、雪道がどれほど運転しやすいかよく分かる。少なくともチェーンはなかった。どんなタイヤだったのかは、もう覚えていない。それでも腹をくくって進むしかなかった。
あの日のあの車では、時速30キロを超えると滑り始めることがあり、40キロを超えるとほぼ滑り、そのまま速度が落ちるまで完全に制御できなくなった。途中で何度もコントロールを失い、かなり怖かった。僕は下手にハンドルを動かす勇気もなく、ひたすら車を安定させようとした。すると毎回、なぜか立て直せた。ほとんど車が通らない道だったので、急に方向を変えず、そのまま滑っていられる空間があったのも幸いだった。結局、最初から最後まで事故はゼロ。今思うと、よくやったと思う。
ある日は、近くの Moose Mountain へスキーに行った。さすがアラスカのスキー場、とにかくワイルドだった。リフト? そんなものはない。山へ上がる方法は、麓からバスに乗って山頂まで運んでもらうこと。下り? 自力でどうぞ。
完全な初心者だった僕らは、コースの端には多少なりとも柵があるものだと思っていた。なかった。コース自体はちゃんと広い。でも柵などというものは、どこにもない。コースから飛び出しそうなとき、どうやって減速するのか? 木にぶつかる。
スキーをまったく知らない初心者の僕は、この方法で何度も急停止した。このブレーキ法の最大の問題は、死ぬ可能性があることだ。幸い、木にぶつかったときは十分に速度が落ちていた。一度など、木に衝突したのにスキー板がまだ両足についたままで、身動きが取れなくなった。完全に詰んだ。そこでビンディングをストックで必死に突き、ようやく外すことに成功。やっと脱出できた。
要するに、このスキー場は僕らのような完全初心者にはワイルドすぎた。当時はゴーグルどころか、手袋さえ持っていなかった。それでもそのまま挑んだ。若いって怖い。
山頂でバスを降りた瞬間、四人そろって「で、どうするの?」状態だった。そこからゆっくり下り始める。最初は比較的平坦で、意外といけるじゃん、と少し調子に乗る余裕まであった。しかし初心者は初心者。コースの案内板すら読めない。こうして僕ともう一人は、その平らなコースを進んだ末、ブラックダイヤモンドの上級者コースへ入り込んだ。序盤が平坦だったのは、最後に待つ巨大な急斜面への前振りだったらしい。まるで高低差を全部、最後の一区間に取っておいたかのようだった。
それまでの平坦なコースなら、木にぶつかって止まることもできた。でもここでは無理だった。そもそも立てない。板を履く必要すらなく、スキーブーツだけでしゃがめば、そのままものすごい速さで滑り始め、まったく制御できないほどの急斜面だった。止まりたければ座る。ただし、そのまま山を転げ落ちないように気をつける必要がある。
結局、板を履いているときのブレーキ姿勢を取り、スキーブーツを雪面に突き立てて、ようやく滑り落ちずに済んだ。板を押しながら、一歩ずつ山を下っていく。その横を、腰ほどの身長しかない子供たちが猛烈な速さで滑り抜けていった。しかも後ろ向き。少しずつ下る大人二人を見て、彼らはいったい何を思ったのだろう。
一時間近く奮闘した末、二人とも生きて麓へ戻った。そこで三人目と合流した。出発してすぐに何かおかしい、足をくじいた気がしたので引き返し、次のバスで山を下りて、ずっと待っていたらしい。残る一人は行方不明。僕らは麓で待つことにした。そして身の安全のため、全員一致でもう山には上がらないと決めた。
三十分ほどすると、最後の一人も現れた。どうやら四人の中でいちばん運動神経がよく、ちゃんと初心者コースを見つけ、すでに何本も滑っていたらしい。
最終的に、四人全員、手足を一本も失うことなく生還した。本当に大変だった。
最後に強烈に覚えているのは、ある晩、オーロラを見に車で出かけ、危うく寿命が縮みかけたことだ。その夜、ネットの予報でオーロラが出そうだと知り、とりあえず車を出した。どこへ行くのか? 知らない。街を離れ、適当な山を見つけて上まで登り、そこで見ればいいという計画だった。
そして本当にそうした。小さな丘の上まで行くと、一軒の家があった。車を降り、カメラと三脚を取り出して撮影の準備をしていると、家の人が出てきた。十数メートル離れた暗闇の中で、手に何を持っているのかは見えない。一人が近づき、家の前を少し借りてオーロラを撮ってもいいかと聞いた。話は無事にまとまり、そこでかなり長いこと撮影できた。
ただし! 戻ってきた友人によると、本人もよく見えなかったものの、家の人は銃らしきものを持って出てきたように見えたらしい。
よく考えれば、不思議でもない。相手から見れば、真夜中に一台の車が自分の敷地へ入ってきた。そこから成人男性に見える四人が降り、トランクを開けて何かの機材を取り出している。そんな状況、怖くないわけがない。もし本当に銃を持って出てきたのなら、相手の立場からすれば警戒するのも理解できる。それなのに友人は、そのまま真っすぐ近づいていった。もしこちらを危険な侵入者だと勘違いされていたら、何が起きたか分からない。
もし手に持っていたものが本当に銃だったなら、今思い返すとかなり怖い行動だった。
オーロラは見えたとも言えるし、見えなかったとも言える。それくらい弱かった。きちんとしたカメラで30秒露光すると、写真には空のいろいろな色がはっきり写った。しかし肉眼では、ほとんど分からなかった。
最終的に、旅は無事終了。車も無事!
アメリカ5都市巡りの最初の街、ワシントンD.C.で、ホワイトハウスや桜祭り、首都のランドマークを巡った。
この年、かなり大がかりなアメリカ周遊旅行を企画した。同行者は中国から来ていて、せっかく遠くまで来るのだから、できるだけ短い時間でアメリカらしい街を一気に見て回ろう、という方針だった。
もっとも、僕自身もアメリカに来てまだ数年。どの街がアメリカを代表するのかなんて、正直よく分からない。最後はみんなで候補を出し合い、首都ワシントンD.C.、金融の街ニューヨーク、カジノの街ラスベガス、そして映画の街ロサンゼルスというリストになった。見事に誰でも知っている街ばかりである。
最初にやって来たのは、アメリカの首都ワシントンD.C.だった。
ここでまず見ておきたいのは、もちろんホワイトハウス。1800年からアメリカ大統領の公邸兼主要な執務場所として使われており、世界でも特に有名な政府建築の一つだと思う。映画の中では何度爆破されたか分からないが、今回はついに本物を見ることができた。
ホワイトハウスは遠くから眺めるだけだと思っていた。ところが現地に着くと、観光客が次々と中へ入っていく。調べてみたら、たしかに内部見学はできるものの、事前の申請が必要で、枠にも限りがあるらしい。ワシントンまで来てから初めて調べるような僕らに、今さらどうにかできるはずもない。あきらめた。
遠くから眺めるホワイトハウスも、なかなかよかった。
ホワイトハウスのそばの公園を通ると、無料の食事が配られていて、その周りにはホームレスの人が大勢いた。そのとき僕らの目の前にいたホームレスの人たちは、ほとんどが黒人だった。同行者の一人が、オバマが大統領になっても、ホワイトハウスのすぐそばの公園ではこんなに多くの黒人が路上生活をしているのか、大統領はこれを見て何を思うんだろう、とこぼしていた。
翌日は、ちょうど全米桜祭りのパレードに出くわした。今では有名なワシントンの桜は、1912年に東京から贈られた三千本以上の桜の木にさかのぼる。それが少しずつ、この街を代表する春の風景の一つになった。首都を見に来ただけのつもりが、たまたま大きなイベントにも当たったわけだ。
僕らが見たパレードは、かなり自由だった。隊列らしい隊列もなく、みんな好きなように楽しんで進んでいる感じだった。
続いて、アメリカ合衆国議会議事堂へ。上院と下院が置かれている建物で、巨大な白いドームはワシントンを代表するランドマークの一つだ。ニュースに毎日のように出てくる法案や予算、政治のあれこれも、かなりの部分がここを通る。
その近くの広場を歩いていると、ワシントン記念塔が一本立っていた。初代大統領ジョージ・ワシントンを記念して建てられた巨大な白いオベリスクで、高さは169メートルを超える。周囲に視界を遮るものがほとんどないので、ワシントン中心部ではどこを歩いていても嫌でも目に入る。
そこから歩いてジェファーソン記念館へ向かった。ここは、アメリカ第3代大統領であり、独立宣言の主要な起草者でもあるトーマス・ジェファーソンを記念する建物だ。タイダルベイスンのほとりにあり、白いドームと列柱という、明らかに古典建築を意識した姿をしている。それまでに見てきた政治的なランドマークとは、また少し違う雰囲気だった。
これでこの日の観光は終了。
ワシントンにいたこの2日間で、首都を代表する有名なランドマークはひと通り見て回れた気がする。
国連本部、エンパイア・ステート・ビル、ウォール街、自由の女神、タイムズスクエア、メトロポリタン美術館を駆け足で巡ったニューヨークの3日間。
次の目的地はニューヨーク。空港から地下鉄でマンハッタンへ向かい、そのまま国連本部へ直行した。間に合わなくなる!
なぜタクシーに乗らなかったのか。マンハッタン周辺のあの交通事情では、少なくともあの時は地下鉄のほうがずっと速かったからだ……。
地下鉄の駅を出た瞬間、マンハッタンの高層ビル群がいきなり視界いっぱいに広がった。
そして国連本部の中へ。国連本部はマンハッタン東側のイースト川沿いにあり、国際ニュースでよく目にする国連総会や安全保障理事会もここで開かれている。テレビで見るとどこか遠い世界の話だったのに、今回はニュースの現場へそのまま入ってきたような気分だ。中国語のガイドツアーを予約していたので、これでようやくどこが何なのか分かる。
有名な会議場をいくつか見学した。
続いてエンパイア・ステート・ビルの展望台へ。1931年に完成したアール・デコ様式の超高層ビルで、さらに高い建物が次々に現れるまでは、長いあいだニューヨークの空を代表する最高層の建物だった。僕らが訪れた頃でも、マンハッタンでも特に有名な建物の一つだったと思う。
これでようやくマンハッタンを上から見下ろせる。高層ビルに囲まれて圧倒される側から脱出だ。
正直、事前に買っておいた優先入場はまったく役に立たなかった。僕らが着いた時間には、そもそも誰も並んでいなかったのだ。ただ、かなり急いでいたので、念のため前もって買えるものは全部買っておいた。
翌日は、旧ワールドトレードセンター跡地にある9.11メモリアルへ。2001年の同時多発テロで崩壊したツインタワーの跡地は現在、追悼区域として整備され、二つのタワーが立っていた場所にはそれぞれ追悼池が造られている。
ものすごく身も蓋もない言い方をすれば、今では巨大な水たまりが二つある。池を囲むブロンズの欄板には、犠牲者の名前が刻まれていた。
その次はニューヨーク証券取引所へ行き、そのあと有名なウォール街の牛も見た。ニューヨーク証券取引所はウォール街周辺にあり、世界でも特に有名な証券取引所の一つだ。それでも、この一帯で観光客に一番人気の撮影スポットといえば、やはりあの有名なブロンズの牛だろう。相場が上がったかどうかは知らないが、牛だけは毎日そこにいる。
そして今日の主役、アメリカを代表するシンボル、自由の女神へ。19世紀にフランスからアメリカへ贈られ、1886年に完成した。その後、ニューヨークだけでなくアメリカそのものを象徴する存在の一つになった。アメリカへ来たことがなくても、これを見たことがない人はほとんどいないだろう。
正直、自由の女神がここまで有名なのは、人気ゲーム『Command & Conquer: Red Alert』も少し関係している気がする。ゲームの中でこれをいきなり爆破したことで、アメリカには自由の女神があるのか、と初めて知った若いプレイヤーも多いのではないだろうか。
往復の船からは、海の上からマンハッタンのスカイラインを眺めることができた。
その後はタイムズスクエアへ。ニューヨークの「人の多さ、高層ビル、広告」の三つを、まとめて最大まで上げたらこうなるのだろう。巨大な電子スクリーンが街区一帯を照らしていて、夜になるとさらにすごい。
本当に人だらけだった。ただ、当時聞いた話では、タイムズスクエアの一部の広告枠は、ごく短い期間だけ流すなら想像ほど途方もない値段ではないらしい。そのせいか、時々かなり謎な内容の広告も見かけた。
3日目はメトロポリタン美術館へ。コレクションは世界各地の数千年にわたる歴史を網羅し、古代エジプトやギリシャ・ローマから、ヨーロッパ絵画、アジア美術までそろっている。一日で全部をじっくり見るなんて、まず無理な規模だ。僕らのような弾丸観光では、気になるものを選んで見るしかない。それでも、本当に何でもある。
最後はニューヨークの街で食べたり飲んだりして、これで旅は終了。
カジノリゾートとデビッド・カッパーフィールドのショーを楽しみ、まったく飲み放題にならない酒プランに苦戦し、ヘリ酔いに耐えながらグランドキャニオンへ飛んだラスベガスの旅。
次の目的地はラスベガス。
ここで一番多かった予定は、とにかく飲み食いだった。ビュッフェを食べ、ショーを見て、ホテルの下にある賭博テーブルにも座る。ラスベガス・ストリップの両側はほとんど巨大な娯楽施設で、どのカジノホテルも客室、レストラン、カジノ、ショーを一つの建物に全部詰め込んでいる。まともな計画のない僕らなら、外へ一歩も出ずに一日を終えることさえできた。
中でも一番印象に残ったのが、デビッド・カッパーフィールドのマジックショーだ。同行者に話すと、「本当に本人なの?」と聞かれた。たぶん本人。たぶん。
当時はラスベガスが世界のエンターテインメント業界でどんな場所なのか知らず、世界的なスターが長期公演をしていることも分かっていなかった。だから、本当に本人なのか僕にも自信がなかった。でも写真と見比べた。たぶん本人だった。
ショーはものすごく面白く、カッパーフィールドらしい超大型イリュージョンの連続だった。人間一人を出すくらいじゃ、スケールが小さすぎる。ステージに現れるのは車、バイク、恐竜の骨格といったサイズのものばかりだ。
そして、以前どこかで聞いた話を思い出した。マジシャンだって一生ミスをしないわけがなく、失敗したら話術でうまくごまかすのだ、と。その日のショーでミスがあったかどうかは知らない。ただし、話は本当に長かった。
そこで問題になるのが、英語の分からない中国から来た同行者だ。どうする?
そこで僕が披露したのが、現場での同時誤訳。そう、同時通訳ではなく同時誤訳である。
本物の同時通訳との違いは、訳しながら内容がどんどん原文と食い違っていくことだ。話す速さについていけないので、拾えた部分だけをつないだボロボロの訳になる。最初の背景説明だけは完璧に訳す。そこから本人がものすごい勢いで長々と話す。僕は完全に止まり、最後にこう訳す。「今、あまり意味のない話をしてた」
それでも同行者の評価はかなり高かった。英語が分からなくてもマジックなら見て楽しめる。ブロードウェイで何も分からず舞台を見つめ続けるより、よほどいいらしい。
その後も何度もビュッフェへ行き、近くの評価が高い店をいくつか試した。その中で最大の罠だったのが、あるビュッフェのアルコール飲み放題だった。
ソフトドリンクと違い、酒は必ず店員に持ってきてもらう必要がある。自分で注ぎに行くことはできないし、そもそも注ぐ場所もない。つまり店員が最大のボトルネックになる。
グラスは大きすぎず小さすぎず、だいたい300〜400ミリリットル。でも中国東北出身の面々にとって、この程度のビールは数口で終わる量だった。
実際、酒が来ても二口で空になる。そして店員も姿を消し、次のおかわりまで十数分待たされる。同行者はかなり不満だったが、英語で言えないので、グラスの底でテーブルをコツコツたたいて催促した。すると店員も面倒そうな顔で、「聞こえてる、今忙しいんだ」というような反応をする。
いや、そっちまで不満になるのか……。こっちはグラスが満たされず不満なのだから、さっさと満たしてくれれば、少なくともこちらの不満は消えるのに。
結局、二人とも相手が何を言っているのか分かっていない。2時間のビュッフェで、おかわりできたのはたぶん5杯くらい。これで飲み放題を名乗っていいのか?
この店の飲み放題は明らかに理論上だけの存在だった。現実にはボトルネックが大きすぎて、まったく放題になっていない。非常に飲みづらいので、おすすめしない。
ラスベガスで唯一まともに外へ出たのは、近くのグランドキャニオンへ行った時だった。車では僕らの忙しい日程に対して時間がかかりすぎる。そこで最速の移動手段を選んだ。ヘリコプターである。
ラスベガス発のグランドキャニオン・ヘリツアーは、広大な砂漠や峡谷地帯の上を直接飛べる、現地では定番の楽しみ方だった。お金より時間のほうが足りない僕らの旅には、少なくとも紙の上ではかなり合理的に見えた。
申し込んだツアーは、ホテル送迎、グランドキャニオンまでのヘリ移動、現地での観光、そして帰りのフライトまで含まれていた。値段は相当に高かった。
ところが、ホテル送迎の時点ですでに驚かされた。
迎えに現れたのは、まさかのリンカーンのストレッチリムジン。中から執事みたいな人が降りてきて、どうぞと案内してくれた。乗り込むと、そこはもうリビングルームで、冷蔵庫もテーブルも何でもそろっている。
こんな高級車に乗るのは初めてだった。同行者いわく、さすがラスベガス。金を出せば、ちゃんとその分の派手さが出てくるらしい。
そしてヘリコプターへ。僕にとっても、ここ数年では初めてのヘリだった。
問題は、自分がヘリに酔うとは知らなかったことだ。乗った直後は大興奮で、あちこち体を動かしながら写真を撮りまくった。離陸後、窓越しに撮ったラスベガスの街がこちら。
空から見ると、普段でも十分に派手なストリップ周辺のホテルやカジノが、砂漠の中の小さな建物の集まりに変わっていた。金ぴかのトランプ・ビルは、たしかにギラギラしていてダサい。でも、なぜかちょっと格好いい。
そして飛び始めて5分で吐きそうになった。ずっと頭がくらくらしたままだったが、数十分後に着陸するまで何とか耐え、機内で吐かずに済んだ。
吐き気と引き換えに撮った貴重な写真がこちら。
ヘリから見ても十分に巨大だったが、実際に降りてみると、スケール感はさらにおかしかった。
ものすごく壮観だった。さすが「大」峡谷。本当に、でかい、峡谷だ。
さらに、有名なグランドキャニオン・スカイウォークもあった。峡谷の縁から外へ突き出した馬蹄形のガラス橋で、足元はそのまま峡谷である。本来ならかなり刺激的なはずだが、前のヘリですでに十分すぎる刺激を受けたので、その時の僕には追加の刺激を受け入れる余裕がほとんど残っていなかった。
そしてヘリで戻った。帰りもまた、危うく吐くところだった。
これで完全に学習した。それ以来、僕がヘリに乗る時は、頭を座席にぴったりつけ、できるだけ勝手に揺れないようにして、自分のヘリ酔いを少しでも減らそうとしている。
こうして、ラスベガスの旅も終了した。
ハリウッド、ユニバーサル・スタジオ、ビバリーヒルズ、ゲティ・センターを巡ったロサンゼルスの3日間。
次の目的地はロサンゼルス。
ロサンゼルスはとにかく広く、車がないとほとんど何もできない。ところが交通事情もなかなかの地獄で、自分たちで運転する気にはまったくなれなかった。結局、送迎つきの3日間ツアーに申し込んだ。これはかなり便利だった。街そのものがどこまでも横に広がり、観光地どうしの距離も平気でとんでもないことになる。あちこち動き回りたいけれど、ロサンゼルスの交通とは戦いたくない僕らにとって、一番面倒な移動をまとめて解決してくれたわけだ。
初日はまず、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームへ。有名人の名前が本当に多い。足元を見ながら歩くだけで、映画スター、歌手、監督と、テレビや映画でしか見たことのない名前が次々に歩道へ埋め込まれていた。
続いて、マダム・タッソー・ハリウッドへ。この時はまだ、イギリス・ロンドンのマダム・タッソーへ行ったことがなかった。実物を見るよりずっと前から、教科書で名前を知っていた有名スポットの一つである。
有名人との記念写真を大量に獲得。
次に向かったのは、ユニバーサル・スタジオ・ハリウッド。アトラクションだけでなく、ユニバーサルの映画やテレビの制作エリアも見学できる。当時の僕には、いきなり映画の舞台裏へ入り込んだような感覚だった。普段は画面越しにしか見られないセットや街並み、撮影設備が、そのまま目の前に並んでいる。
これで初日の予定は終了。本当に中身の濃い一日だった。
2日目は朝早くバスに乗せられ、そのままサンディエゴへ直行。もはやロサンゼルス旅行のサンディエゴDLCである。詳しくはサンディエゴ編で。
3日目はロサンゼルス市内観光。まずはビバリーヒルズへ向かった。
見て回ったのはビバリーヒルズの外側。まあ僕らくらいの身分じゃ、外周を眺めるくらいがちょうどいい。聞いた話では、このあたりには大富豪や有名人がたくさん住んでいるらしい。ビバリーヒルズはロサンゼルス周辺でも特に有名な高級住宅地の一つで、観光客の僕らがやることといえば、車に乗ったまま外から通りや豪邸、きれいな街路樹を眺め、お金持ちの暮らしを想像するくらいだった。
その後はゲティ・センターへ。ここまでの二日間は典型的なロサンゼルスの娯楽ばかりだったので、旅の雰囲気が急に静かになった。ゲティ・センターは建物や丘の上からの景色だけでなく、ヨーロッパ絵画、彫刻、装飾美術も数多く所蔵している。印象派の巨匠クロード・モネの作品もたくさん見ることができた。
続いて、ゲティ・センターのセントラル・ガーデンを散策した。ここを代表する景観の一つで、水が中央の池へ向かって流れ、その真ん中にはツツジを迷路のように刈り込んだ大きな植え込みがある。
このツツジ迷路なら、小さなリスくらいは閉じ込められそうだ。
こうして、ロサンゼルス最終日の旅も終了した。
ロサンゼルスから日帰りでサンディエゴへ。湾岸クルーズのあと、シーワールドでシャチやアシカ、イルカのショーを巡った一日。
朝早く、ロサンゼルスからバスでサンディエゴへ向かった。途中、ガイドがなかなか伝説的な話を聞かせてくれた。
ガイドの話では、サンディエゴ付近のメキシコ国境は、メキシコからアメリカへ入る時の検査が非常に厳しい一方、アメリカからメキシコへ向かう時はかなり緩く、何も調べずそのまま通されることさえあったらしい。普通なら、アメリカからメキシコへ密入国しようとする人はいないから、という説明だった。
ところがある時、観光バスの運転手が道に迷い、乗客を一台丸ごとメキシコまで運んでしまった。戻ろうにも、運転手を含め、車内のほとんどの人がパスポートすら持っていない。こうして全員が、ものすごく面倒で気まずい状況に取り残されたという。
さらにガイドによると、その後アメリカ側も南へ向かう車のチェックを少しずつ強化したそうだ。実際に逃亡犯がこの方向からメキシコへ逃げることがあり、それも理由の一つだったらしい。僕らが訪れた頃には、バス一台がうっかりそのままメキシコへ入ってしまうような伝説は、もうなかなか再現できなくなっていた、と話していた。
まずはサンディエゴ湾のクルーズ船に乗り、海上から湾内を観光した。途中でコロナド橋も見え、景色はかなりよかった。
続いて、シーワールド・サンディエゴへ。海の生き物の展示やショーに加え、アトラクションもあり、海洋テーマパークと遊園地を合体させたような場所だった。
最初は動物の展示エリアをひと通り見て回った。
正直、純粋な水族館として生き物の種類を評価するなら、あまり合格点とは言えない。
そして、シャチ――英語でいう killer whale――のショーを見た。
この話を聞くと、英語名のkiller whaleが急に冗談ではなく聞こえてくる。ガイドによれば、シーワールド全体では過去にトレーナーが死傷する深刻な事故が起きており、サンディエゴでも、ショー中にシャチがトレーナーへ噛みつき、水中へ引きずり込む事故があったという。さらに、こうしたショーは動物福祉団体から長く批判されていた。この先いつまで続くのか分からない。せっかく来たのだから、見られるうちに見ておこう、という気分だった。
あとから振り返ると、僕らが訪れた2016年は、ちょうどシーワールドのシャチ事業が大きく変わった年でもあった。訪問の一か月あまり前、シーワールドはシャチの繁殖を終了し、園内にいるシャチを最後の世代にすると発表していた。その後、従来の娯楽中心のショーも、動物の行動や教育をより重視した展示へ少しずつ変わっていった。
ほかにはアシカのショーもあった。
そして、ほとんどすべての水族館にある定番、イルカショー。
ショーを見終える頃には、そろそろ帰る時間になっていた。ところが園内で、急流すべりのアトラクションを発見。
待ち列は完全にゼロ。降りてはまた乗り、また降りては乗りを何度も繰り返した。人で埋め尽くされた遊園地では、なかなか味わえない待遇である。
夜はバスでロサンゼルスへ戻り、サンディエゴ日帰り旅行は終了した。
シカゴで論文を発表し、ついでに2016年のトランプ旋風を眺める。
人生で初めて発表した論文が、国際並列分散処理シンポジウム(IPDPS)に採択された。並列計算と分散処理の分野では特に重要な国際学会の一つで、高性能計算やコンピュータ・アーキテクチャなどの関連分野も扱っている。
僕の感覚では、理論計算機科学ならSTOCやFOCSにはかなわないし、HPCど真ん中ならSCにはかなわない。でも並列計算と分散システムの分野に限れば、間違いなくトップ中のトップに入る学会だ。
博士課程2年目でここに論文を通せたのは、かなり運がよかったと思う。
シカゴに着いて、まず見に行ったのはトランプ・インターナショナル・ホテル&タワーだった。学会会場はすぐ近くの別のホテルで、せっかくだから一晩くらい泊まってみようかとも考えた。もちろん結論は「高すぎて無理」。
今回は大学が宿泊費と食費を出してくれたが、上限はあるらしい。ただし、その上限がいくらなのかは分からない。数字としては存在するはずなのに、実際には「それは高すぎる」と言われて初めて上限を知る仕組みだった。なぜか学会ホテルの料金は、その週の月曜日だけ、僕が調べた通常料金で一泊600ドルもした。ほかの日は300ドル台だった。見積もりを持って精算の相談に行くと、案の定「さすがに高すぎて出せないから、もっと安いところを探して」と言われた。そこで最初の3泊は近くの別のホテル、後半の3泊は学会ホテルに泊まり、最終的には無事に全額精算できた。
学会の歓迎イベントでは、生演奏を楽しんだ。そして雑談が始まると、やはり一番盛り上がる話題はトランプだった。
ちょうどトランプが初めてアメリカ大統領選に出ていた時期だ。話題というレベルを超えて、とにかく話題だった。初対面の人ばかりで何を話せばいいか分からなくても、気づけば自然とトランプの話になっている。
当時、ネットで一枚のミームも見かけた。ほかの候補は「初の女性大統領」とか「初のカナダ生まれの大統領」とか書かれているのに、トランプだけは「最後のアメリカ大統領」。これはさすがに笑った。
僕の英語の政治用語はかなり心もとなかった。みんなが楽しそうに政治談義をする横で、僕は聞きながら笑っているしかない。
そして学会では、ついに自分の論文を発表する番が来た。
こうして、記念すべき一枚が残った。
時間つぶしのつもりが、オオカミやトラ、ホッキョクグマに思いがけず楽しませてもらった。
数年ぶりに、またアラスカにやって来た。今回は前と違う場所に行ってみようと思ったけれど、そもそも前回どこに行ったのか、もう覚えていない。
今回いちばんよかったのは、アンカレッジのアラスカ動物園だった。最初はただの時間つぶしで、普通の動物園だろうと思っていた。それが、行ってみたらうれしい驚きがいくつもあった。
まずは、たくさんのオオカミ。
オオカミは一匹が遠吠えを始めると、ほかもみんなつられて鳴き始める。そこで、こっちも何度も遠吠えをまねしてみた。すると本物のスイッチが入って、もう止まらない。群れ全体で遠吠えが始まって、その迫力はなかなかのものだった。
それから、アムールトラも2頭見られた。
あちこち動き回るホッキョクグマも。
いや、かなりよかった。すっかり満足して動物園を後にした。
オーロラはほとんど見られず。そのぶん、氷点下40°Cの山奥で温泉にはたっぷり浸かった。
数年ぶりに、またフェアバンクスにやって来た。行きの飛行機から写真を撮ってみたら、なかなかいい感じ。その後、スーパーへ買い出しに行って、雪が降ったあとに車を掘り出さないとどうなるのか、その実例を見せてもらった。
今回のフェアバンクスでの予定は、驚くほどシンプル。ほぼホテルにこもって、オーロラ待ちである。
前に来たとき、僕は山奥の温泉に行った。ただ、そのときは日帰りで、泊まってはいない。あれだけ山奥ならオーロラもよく見えるはず、ということで、今回は泊まることにした。しかも2日間。
温泉へ向かう途中、以前も運転したあの道をまた走った。今回は前よりずっとましだ。何しろ、ちゃんと雪なのだ。前回のことはほかに何も覚えていなくても、路面が全部氷だったことだけは忘れられない。
温泉へ向かう道中には、ちょっとした騒動もあった。一人のところに、面接を受けた会社からメールが届いたのだ。後日電話で面接の結果と今後の流れを話したい、という内容だった。その直後、山奥の圏外エリアに突入。本人はすっかり焦ってしまった。
まずは温泉ホテルにチェックインして、有料のWi-Fiを購入。ところが、これが名前だけのWi-Fiで、何も開けない。ウェブページなんて論外で、スマホのメールアプリだけがかろうじて動いた。通信量が少ないからだろうか。
携帯は完全に圏外で、連絡手段がほぼない。いったん車で山を出て、電話を受けてから戻ろうかとも考えた。でも、さすがに面倒すぎるし、メールにも今すぐ電話するとは書いていない。結局やめた。
こんなメールは1日や2日遅れたところで問題ない、と頭ではみんな分かっている。会社側なんて、1週間や2週間待たせることも普通にある。でも、面接を受けた側は落ち着かないものだ。そこで見つけたのが、洗濯室にあった固定電話。これはちゃんと着信できるらしい。本人は会社にメールを送り、電話をするならこの番号に、と伝えた。
その日の午後、僕たちはその電話の横で2時間以上待った。もちろん、電話は一度も鳴らなかった。
で、この話の結末はというと、2日後に山を出てから一本電話したら、あっさり解決。あんなに焦る必要はまったくなかった。
さて、温泉ホテルの話に戻ろう。
泊まった2日間は、運も悪かった。オーロラは弱くて、肉眼ではほとんど見えない。それに僕には、このホテル自体はオーロラを見るのにあまり向いていないように思えた。夜も照明がついているのだ。ホテル側もかなり気を使っていて、外の大きな照明はなるべく消していた。でも、宿泊客の安全を考えると、全部真っ暗にはできない。そのわずかな明かりでも、もう明るすぎた。オーロラを見るなら、さらに暗い山奥へ行くしかない。いや、それなら何のためにここに来たんだ。
オーロラは見られなかったけれど、温泉にはたっぷり浸かった。携帯は圏外、Wi-Fiは使い物にならない。温泉に入る以外、何をすればいいのか。しかも、この数日は本当に寒くて、夜になると氷点下40°Cくらいまで下がった。
そんな中、温泉で遊んでいた。氷点下40°Cだと、お湯を頭にかけるとすぐ冷えて凍る。体はお湯の中で頭だけ出している状態でも、髪のあたりは十分寒いので、氷が溶けずにそのまま固まる。結果、髪があちこちに逆立って、みんなそろってスーパーサイヤ人に変身。これはかなりテンションが上がる。
この2日間、ここの軒下を見て、寒い地方では軒下から甘い恋が始まらない理由がよく分かった。ロマンスが始まる前に、巨大なつららで人生のほうが終わるからだ。
これが落ちたら、一発終了。
結局、ここではまともにオーロラを見られなかった。旅全体を通しても、僕が数年前に見たときと同じくらい弱いまま。ちょっと残念だった。
初めてコーチとして参加した世界大会。
この年の世界大会の開催地には、かなりがっかりした。もう選手ではないので、世界大会へ行っても基本的には観光して、試合を見て、イベントを楽しむだけだ。だから当然、どうせなら旅行先として魅力のある場所で開いてほしい。前年のタイ・プーケットはよかった。今年はというと……この場所を前から知っていた人、全員手を挙げてみてほしい。実際にマウント・ラシュモアへ行ったことがなければ、ここにあると誰が知っていただろう。
今回の旅費は大学持ち。これだけで気分がいい。一つだけ残念だったのは、その夏は大学で研究をしていて、本来なら受講者の多い授業のTAをして、当時の僕にとってはかなりの大金を稼げるはずだったことだ。ところが担当教員に相談すると、その授業のTAは一人しかいないので、いきなり一週間休む人は採れないと言われ、断られた。仕方なく別の小さな授業のTAになり、もらえる金額は半分になった。でも迷う余地はない。世界大会へ行くほうが絶対に大事だ。
この年の大学チームは、僕が「アメリカ人兄弟」と「香港記者」と呼んでいた三人だった。どうやって予選を勝ち抜いたのか、そしてなぜそんな呼び名なのかは、地区予選総集編を参照してほしい。
今回はようやく、落ち着いた気持ちで一日観光に参加できた。主催者が連れて行ってくれたのは、この辺りで一番有名なマウント・ラシュモア。僕は香港記者と一緒に回った。さすが香港記者、目ざとい。なんと一人で歩いているtouristを一瞬で見つけた。少し迷ったあと、迷いを振り切って突撃し、写真をお願いして、無事に撮影成功。香港記者はずっとtouristの大ファンだったので、これは大勝利だ。写真を撮り終えると、touristはまるでゲームの瞬間移動とダッシュを同時に使ったような速さで消えた。これ以上ほかの人に捕まって写真を頼まれたくなかったのだろう。僕は撮れなかった。大損だ!
というわけで、ここには代わりに岩肌むき出しのマウント・ラシュモアを載せておく。当時の自分の写真を見ると、まだ若かったのに、もうこんなに若かったとは驚きだ。
その次は、クレイジー・ホース記念碑を見学した。これは何と言えばいいのか。確かに彫刻ではある。僕が聞いた話では、由来はだいたいこうだった。4人の大統領像が完成したあと、先住民の酋長が納得せず、「自分たちにも偉大な英雄がいる。そちらの大統領像より大きな像を彫る」と言ったという。完成予定の像は高さ172メートル、幅195メートルで、全体の規模は楽山大仏を大きく上回る。クレイジー・ホース本人の顔だけでも高さは約27メートルあり、マウント・ラシュモアの大統領一人分の顔よりかなり高い。プロジェクト側によれば、完成すれば世界最大の山体彫刻になるという。工事は1948年に一人の彫刻家によって始まり、彼の死後は妻と家族が引き継ぎ、今も続いている。このプロジェクトは連邦政府や州政府からの資金を受け取らず、主に入場料と民間の寄付に頼っている。山を彫る工事そのものも途方もない規模なので、進み方はずっとかなりゆっくりだ。
今の完成度はというと……写真の通りだ。手前にあるのは売店前に置かれた完成予想模型、遠くの山が実際の進み具合。この完成度、本当に10%もある?
大会当日になっても、僕にはまったくプレッシャーがなかった。選手たちにも、あまり緊張はなさそうだった。自分たちの実力は本人たちが一番分かっている。世界大会で正式な順位さえつけばいい。順位のつかないHonorable Mentionでなければ、それで十分だった。
ところが結局、Honorable Mentionになった。三人は63分で3問を通したあと、残りの4時間は取り組み続けたものの、新しいACは一つも増えなかった。そしてITMOは、今回も何の意外性もなく優勝した。
会場での僕は何もすることがなく、知り合いもいなかったので、ひたすら歩き回っていた。そのうち、上海交通大学関係者の小さな観戦グループを見つけ、かなり長い間、その後ろに座って問題の議論を聞いていた。正直、5時間は長いと思っていたが、時間は驚くほど早く過ぎた。何の変化もないスコアボードをぼんやり眺め、自分でも何を見ているのか分からないことがあった。それでも見ているうちに、2時間が消えていた。
大会終了後、夜になると、主催者が山を背景にした「ライトショー」へ連れて行ってくれた。わざわざかぎ括弧をつけたのは、これをライトショーと呼ぶのか? と言いたいからだ。山の中で適当に100人集めてレーザーポインターを持たせれば、同じくらいのものができるのでは? あまりにもショボかった。派手な光と音の演出をよく見る中国人の僕だから物足りなかった、というだけでもない。同じチームのアメリカ人コーチまで、何とも言えない顔になり、途中で会場を出ていった。その様子は、まるでこのショーがアメリカの恥だとでも思っているようだった。
論文発表を終え、ついでに開業したばかりのボルケーノ・ベイへ行ってみた。
この年もまた一本、論文を出すことができた。本当に運がよかったと思う。
別に自慢しているわけではなく、本当に運がよかったのだ。僕らの理論計算機科学のグループでは、論文を出すのがかなり大変だった。理論そのものが難しいのはもちろんだが、それ以上に、僕らの論文は学生一人と指導教員一人という組み合わせが多く、著者がずらっと並ぶことはあまりない。一方、隣のAIグループと、そのまた隣のハードウェアグループは、一人で年に10本、一本につき著者10人、みたいな勢いだった。そっちは論文数のスコア稼ぎでもしているのか……。
さすがに少し盛っているが、だいたいそんな感じだ。少なくとも当時の僕には、向こうの論文数は僕らよりずっと多く見えた。
それに、自分が選んだ小さな研究分野がたまたまこの学会の好みに合っていて、だから論文を出せたのかもしれないと思っていた。この先も案外この調子で出していけるのでは、とも考えていたのだが、後になって思い上がりだったと分かった。
今回も大学が費用を出してくれて、全日程を学会ホテルで過ごした。ホテルはディズニーのリゾートエリア内にあり、環境もかなりよかった。
着いて早々、ハゲワシっぽい何かがバルコニーに飛んできた。どうやら僕と食べ物を奪い合うつもりらしい。
この学会は朝から晩までとにかく濃かった。次から次へと発表を聞いているうちに、何の話だったのか頭の中が追いつかなくなる。
本来なら食事は全部ホテルの中で済ませられたのだが、どうにも食事が口に合わず、外へ食べ物を探しに行くしかなかった。とはいえ、さすがリゾートエリア。周りの環境は文句なしだった。
この年も、自分の論文を壇上で発表した。
そして今回も、記念すべき一枚が残った。
学会が終わった後、数日前にオープンしたばかりのユニバーサル・ボルケーノ・ベイにもわざわざ行ってみた。実はオーランドに来てから初めてその存在を知った。ネットで検索したら、いきなりこれが出てきたのだ。広告で埋め尽くされていたとまでは言わないが、かなり目には入った。
そして、この評価がまたすごかった……。記憶では、当時のGoogleマップでわずか2.8。もう目も当てられない低さである。この記事を書いている時点では、評価はなんと4.5まで上がっていた。後の旅行者レビューを見ると、リストバンド式のバーチャル待ち列システムを褒める声もかなり見かけるようになっていたのだが、開業直後に散々たたかれていたのは、まさにこの仕組みだった。接続が頻繁に切れる、まともに動かない、一つのアトラクションのバーチャル待ちが何時間にもなり、その間はほかのアトラクションを予約できない。ようやく時間になって現地へ行っても、さらに普通の列で待たされることがあり、しかもアトラクションが一時休止することもある、などなど。
こうした低評価は、園内そのものが楽しいかどうかというより、オープン直後の運営上の問題に向けられたものが多かったように見える。結局、僕らはその低評価を無視して行ってみることにした。ところが、これがうれしい誤算だった。僕らの滞在中はそうした問題にまったく当たらず、一日中とてもスムーズ。園内も空いていて、ほとんどすべてのアトラクションを気軽に楽しめる勢いだった。体感としてはかなりよかった。
博士論文の審査を無事に通過し、アナーバーに別れを告げる時が来た。
気がつけば、博士論文の審査の日がやってきた。
この街にはもう6年半住んでいた。スマホを見返してみると、意外なほど街の写真がない。長く住めば住むほど、見慣れて当たり前になってしまうのかもしれない。
そこで、昔の写真を何枚かまとめてみた。
ノース・キャンパスにある一本の木。最高にきれいだった。
道端でよく出会った野生動物たち。
それから、住宅地のあちこちにいる小さなリス。アナーバーのリスは、とにかく太い! その後カリフォルニアへ行ったら、あちらのリスはみんな栄養不足に見えた。
写真の二匹は、これでもまだ普通のほうだ。セントラル・キャンパスで、山のように大きな袋いっぱいのナッツを持ってリスに餌をやる人を見れば、本当に太いリスとは何かが分かる。
この街の天気は一瞬で変わる。青々とした景色が一面の雪景色になるまで、たった3時間。しかも家にいながら全部撮れた。
そして、それで終わり。ほかの写真は見つからなかった。
博士論文の審査に話を戻そう。審査はかなり順調だった。博士課程ですでにトップクラスの国際学会に論文を出していたので、卒業そのものはそれほど心配していなかった。
審査が終わると、先生たちは少し話し合いをした。20分ほどして指導教員が出てきて、博士論文にはまだ少し手を入れられるところはあるけれど、みんなで話した結果、別に直さなければならないほどのものでもないし、このままでいいだろう、とのことだった。
そして、通った。
先生の手厚いご指導に感謝!
その一週間後、大学で34年間教えてきた教授の退職記念式典があった。この先生は僕の博士論文審査委員でもあり、大学のICPCチームのヘッドコーチでもあった。大学に来たばかりの頃から知っている。最初の学期に先生の授業を履修し、3回の試験すべてで圧倒的な成績を取り、クラス首位でA+を獲得した。それ以来、たぶんお互いに強く印象に残ったのだと思う。先生と僕の指導教員は、何十年来の友人でもあった。
式典では学生代表のスピーチが必要で、その役が僕に回ってきた。
指導教員は教員代表で、最初に登壇した。自分の話を終えた後、僕へ話題をつなぐ必要があった。そこでこう言った。「この学生がこの後スピーチをします。数日前に博士論文の審査があったのですが、無事に通ってよかった。落ちていたら、今日いったい何を話すつもりだったのか分かりませんからね」
まったく、話せば話すほどネタが増える……いや、ほんとありがとうございます。スピーチを頼まれたのはここ数日のことだったので、もし審査に落ちていたら、たぶんこの役は引き受けていなかった。
そして壇上へ。これが大成功で、博士論文の審査より成功した気さえする。原稿を見ずに話したので、かなり自然にできた。過去6年の出来事を10分間の笑い話にまとめたところ、大いに受けた。何人もの教授が後からわざわざ褒めに来て、「コメディーの才能がある」とまで言ってくれた。この瞬間だけは、中国のロースト系バラエティ番組『吐槽大会』を何年も見てきた甲斐があったと思った!
思えば、アメリカに来たばかりの頃は、ハンバーガー店で「1番」と言うのが精いっぱいで、店員に何か聞き返されたら、もう何も答えられなかった。それが今では、英語で漫談みたいなことまでできる。ここ数年で成長したのは、学問だけではなかったのかもしれない。
アナーバー、またいつか!
第1回 North America Championship(NAC)に参加。
まさか今年も僕がいるとは思わなかっただろう。正直、僕自身も思っていなかった。
前年にはもう卒業できる状態で、この年は大学にすらいなかった。でも2016年と同じ問題が起きた。僕が抜けると、学生コーチがいきなり不在になる。赤レートの化け物が後を引き継いだものの、システム関係でいくつか問題があり、また僕が呼び戻された。ミシガン大学には独自のジャッジシステムがある。昔の学生コーチが自分で構築したもので、本当に強すぎる。見た目は簡素でも機能はしっかりしていて、僕たちは何年も使い続けていた。
この年、僕は大して力を入れていない。選手が誰なのかもほとんど知らず、地区予選の現場にも行かなかった。ただ、一つ大きな違いがあった。北米選手権、NACが始まったのだ。それまでは地区予選から直接世界大会進出チームを決めていたが、この年から途中にNACが加わった。各地区予選の上位何チームかがNACへ進み、僕たちの地区では確か上位五チームくらいだった。
この年が第1回NACだった。僕の記憶では、当時は地区予選にもまだ直接進出枠が残っていて、優勝チームはそのまま世界大会へ行き、残りの枠をNACで決めていた。数年後には地区予選の直接枠が完全になくなり、全チームがNACを通る制度になった。その後、以前なら四チームを世界大会へ送っていた中部の地区が、NACでは全滅し、一校も進出できない年すらあった。当時の地区別枠数は参加規模など複数の要素に左右されていた。一方、NAC制度が始まってからの僕たちの地区は、毎年ほぼ安定して三チーム、時にはそれ以上を送り込んでいた。どの地区が実はそれほど強くなかったのか、かなり分かりやすくなった。
僕たちの地区は予選上位五チームがNACへ行ける。いや、簡単すぎないか? プレッシャーなんてほぼゼロだった。
結果、本当に何の苦労もなく進出した。僕も大学について行き、第1回NACへ参加した。選手の一人と相部屋だったので宿泊費は無料。参加費があったのかは知らないが、何にせよ大学が払っていた。ただし往復の航空券だけは自腹だった。名目上、僕はもう大学の人間ではなかったからだ。
イベント全体のスケジュールは世界大会によく似ていて、前後を含めるとほぼ一週間。ただ、僕は就職したばかりで休暇も少なく、この大会に深く関わっているわけでもない。そこで途中の一日から合流した。
普通なら、公式の到着時間内であれば空港に迎えがいる。でも僕の到着は明らかに遅すぎたらしく、空港には誰もいなかった。地下鉄の駅にも誰もいない。一人で地下鉄に乗り、大会会場まで向かった。
大会が用意したホテルはこんな感じだった。
なかなか格好いい。
そして大会当日。会場はやたらと広かった。
僕の感覚では、NACに参加したチームはそれほど多くなく、せいぜい五十数チームくらいだった。これほど広い会場は必要なさそうだ。そこで主催者側も何かしら配置を工夫し、会場全体が埋まっているように見せていたのだと思う。
大会中はほとんどの時間、大学の学生コーチ、つまり赤レートの化け物と問題について話していた。そしていつもと同じ感覚だった。五時間は長そうに見えるのに、現場にいると本当に一瞬で過ぎる。
結果は……まあ、どうでもいいか。そもそもチームに誰がいるのかすら、僕はよく分かっていなかった。多少関わりがあったのは、アメリカ3号がまだチームにいたことくらいだ。
結局、僕たちは世界大会へ進めなかった。まあ予想どおりだ。こんなに簡単に進出できるなら、僕がそれまでコーチとして苦労していたのは一体何だったのか。
ただ、ずっと後になって振り返ると、この年については特に悔いもない。このシーズンに対応する世界大会は、その後パンデミックによって大幅に延期された。仮にミシガン大学が進出していても、僕はアメリカのビザの事情で現地へ行けなかったはずだ。状況はバングラデシュの年とかなり似ている。詳しくはエジプト世界大会の記事を参照してほしい。
ちょっと残念だった動物園から一転、ヘリでクニック氷河に降り立った。
何年かぶりに、アンカレッジへ戻ってきた。
前にここでやったことといえば、一番の目玉はアラスカ動物園だった。今回はクニック氷河を見に行くツアーも予約したので、アンカレッジでの楽しみが一つ増えた。
さて、そのアラスカ動物園。今回も行ってみたのだが、ここはどうも当たり外れが大きいらしい。前回来てからの間に資金難にでもなったのか、ずいぶん物足りなく感じた。まあ、単にこの日の運が悪かっただけかもしれない。
初めて来た時は、かなり衝撃的だった。オオカミの群れがいて、僕が遠吠えをまねしたら、群れ全体の大合唱が始まった。
で、今回は。オオカミは?
楽しみにしながら園内をぐるっと探して回ったのに、あのオオカミの囲いが見つからない。というか、一頭も見ていない。残念すぎる。
前は雪の上で餌を探しているトラも見た。で、僕のトラは?
ガラスの向こうのホッキョクグマも、今回はどうにもやる気が感じられなかった。前はあちこち登ったり動き回ったりしていたのに、今回は地面にべたっと寝そべったまま、ぴくりとも動かない。単にそのクマがのんびりしたい日だったのかもしれない。でも、オオカミも見当たらない、トラも見当たらない、おまけにクマのやる気まで見当たらないとなると、この動物園、どうしたんだろうと思ってしまう。
今、おすすめするかと聞かれたら、僕はしない。今回はほとんど何も見られなかったような気分で、残念だった。
続いて、予約していたクニック氷河のツアーへ。クニック氷河はアンカレッジの北東、チュガッチ山脈にあり、この辺りの大きな氷河の中ではヘリツアーで比較的アクセスしやすい場所の一つだ。ヘリで氷河のエリアまで飛び、そのまま氷河の上に着陸。降りたらすぐに見て回れる。時間の節約にはなる。お金の節約には、まったくならない。とにかく高かった。
でも、体験はすごくよかった。やっぱり、これだけお金を出すとサービスもしっかりしている。
近くには氷の洞窟がいくつもあった。足元はめちゃくちゃ滑る。
さっそく中へ。
この辺りを30分ほど見て回り、またヘリに乗って戻った。
アンカレッジ滞在はあっという間に終了。次はオーロラを見に、フェアバンクスへ向かう。
昼は犬ぞり、夜はオーロラ待ち。フェアバンクスで、ついに空が光った。
またフェアバンクスにやって来た。飛行機を降りたら、そのまま温泉ホテルへ直行。
前にここで泊まった時の反省を生かして、今回は一泊だけにした。ネットは遅いし、携帯も圏外。何泊もしていたら、後半は何をすればいいのか分からなくなる。ところが今回来てみると、何年も前と比べて通信環境がものすごく改善していた。
Wi-Fiが、ちゃんと使える!前に来た時は、つながっているという表示にほぼ意味がなかったのに、今回は本当にネットが使える。ちょっと意外だった。
ここには一泊した。天気が悪くて、オーロラは見えなかった。というか、空すら見えなかった。
温泉は前の時ほど楽しめなかった。主な理由は、寒さが足りなかったからだ。今回は夜でもマイナス20度くらいしかない。フェアバンクスの山奥にしては暑すぎる。僕が前に来た二回は、どちらも夜はマイナス40度だった。
おかげで、前に来た時に僕がやったスーパーサイヤ人の髪型も再現できなかった。前回はマイナス40度で、温泉のお湯を髪にかけるとすぐ凍って、そのまま髪型が固定された。
でも、マイナス20度ではまだ暑い。お湯が冷えるのが遅くて、手で髪型を押さえておかないといけない。水面より上も十分には冷えず、手を離すと髪型が崩れてしまう。
残念、変身失敗。
その後の数日間は、昼にいろいろなアクティビティに参加し、夜はオーロラが見えそうな場所へ出かけた。
まずは個人経営のトナカイ牧場へ。角、でかっ!
聞いた話では、ここのトナカイにはけんか好きな個体がいて、ほかのトナカイを傷つけないように角を切ってあるらしい。切らなくても、ぶつかり合って自分で折ってしまうのだとか。
犬ぞりのツアーにも参加した。ちゃんと長い距離を走る、本格的な犬ぞりだ。犬一匹と板一枚を渡されて、ちょっと引っ張ってもらったら終了、というものではない。来る前に犬ぞりとスノーモービルで迷ったが、最終的には犬ぞりにした。特に深い理由はなく、そっちのほうが珍しい体験になりそうだったからだと思う。
ここも相変わらず、周りには何もなく、携帯の電波もほとんど入らない場所だった。
この数日、車で行く先は大体こんな感じだ。というより、フェアバンクスの自然の中で遊ぶとなると、大体こうなる。ここでも4WDのSUVが存在感を見せつけてきた。
到着すると、スタッフに服装を見られた。ダウンジャケットに防寒のズボンと靴。こちらとしては着込んでいるつもりなのに、向こうからすると薄着らしい。このツアーはものすごく寒いから、もっと防寒が必要だと言う。全員、ズボンの上からさらに大きな防寒ズボンをはき、靴の上にも大きな防寒・防水のオーバーブーツを装着。帽子まで配られた。かくして、僕たちは重装甲の戦車になった。
犬ぞりには、まず犬が必要だ。というわけで、最初は犬たちの飼育場所へ。
犬だらけ!しかも元気すぎる!そしてここ、屋外である。
アラスカのそり犬はすごい。この日はまだマイナス20度くらいだったが、以前の経験からすると、マイナス40度かそれ以下にもなる。それでも外で暮らせるとは。こちらは戦車みたいに着込んでいるのに、向こうは犬のままで平気らしい。
犬たちに引かれて、そりで山奥の森をぐるっと回った。何キロも走ったと思う。ずっとこんな景色だった。
その夜は空が晴れていて雲もなかったので、オーロラを見に出かけることにした。その日のオーロラの強さを予測するサイトがある。信じるかどうかはお好みで。ただ、このサイトは高い数値をなかなか出してくれない。まるで出し惜しみで、よほど強いオーロラでない限り、いつも「弱い」。間違ってはいないのだろうけれど、「弱い」と言われるたびに出かけるのをやめていたら、たぶん永遠に見られない。弱いのが通常運転なのだから。
夜10時過ぎに展望スポットへ着いた。すでに車は結構あって、人もそこそこいた。「そこそこ」なのは、ここが普通の野外の展望スポットで、ツアー客が集まるような施設ではないからだ。最後まで人で埋め尽くされることはなく、なかなか快適だった。
予測サイトは何日も続けて高い数値を出し惜しみしている。僕が以前アラスカに来た時の経験からしても、今回も最後まで弱いオーロラばかりという可能性は十分あった。もういい。予測はともかく、見に行って粘ろう。
夜10時頃から深夜1時まで待っていたら、本当に見られた!11時頃、オーロラが少し勢いを増したのだ。10時の時点では雲が出ていて、一時はかなり怪しかった。でも、その後は少しずつ雲が流れ、晴れた空が見えてきた。
その夜の小さな盛り上がりは、30分ほど続いた。肉眼でもはっきり見えて、普通のスマホでも写真に写るくらいだった。
マジックリアリズムと印象派を融合させたような写真になっているが、そこは気にしないでほしい。スマホでこれだけ撮れれば上出来だと思う。写真からも分かる通り、この夜は空が明るく光っていた。
大満足でホテルへ戻り、眠りについた。
旅の締めくくりは、フェアバンクスからアンカレッジへ向かうAurora Winter Train。雪景色の中を走る列車だ。
景色のいい場所で観光列車に乗るのも、すっかり恒例になってきた。この路線も本当に眺めがよかった。こういう山奥の風景を列車以外で見ようと思ったら、自分たちで車を運転することになる。それはさすがに面倒だ。
見どころもたっぷり。
その夜、アンカレッジの駅に到着。そのまま空港へ直行して、帰路についた。
今回のアラスカ旅行も、これで大満足の締めくくりとなった。
スポーツカーを借りてタホ湖を一周し、二つの峠を遠回りして帰る旅。
秋晴れの気持ちいい季節、レンタカーを借りてタホ湖をドライブすることにした。
今回借りた車の話をするなら、まず今回借りた車の話をしなければならない。借りたのはポルシェ718。話は数か月前にさかのぼる。サービス開始直後の『Neverness to Everness』というスマホゲームがポルシェとコラボし、世界限定生産の最上級スポーツカー、ポルシェ918スパイダーを実装した。それを見て、一度試してみたくなった。でもさすがにこれは高すぎる。100万ドル級では買えないし、レンタルにも出てこない。
そこでポルシェにはほかにどんな車があるのか調べてみたら、エントリーモデルのスポーツカーは驚くほど安かった。一台ほしいかも、と思ったのだが、どうも簡単には買えないらしい。たとえばカイエンなら、ネットで好きな仕様を選び、メーカーにその車を造ってもらえる。でもポルシェのスポーツカーはディーラーの割り当て台数に強く左右されるそうで、公式サイトで一台仕上げたからといって、必ず生産してもらえるわけではない。しかもこの世代の718のガソリン車は2025年に生産終了し、次世代はもともとEVへ移行する計画だった。
つまり買うなら、今市場に出ている中から選ぶしかない。あるものを買うしかないのだ。ポルシェの公式サイトで探してみると、全米に認定中古車が20数台しかなかった。もちろん認定されていない中古車ならもっと多いが、状態や過去の改造については自分で判断しなければならない。
とはいえ718はそこまで高くない。普通の車二台ちょっと分くらいだ。特に718のベースモデルはポルシェの中でも安い部類で、パナメーラやカイエンより安いものさえある。ランボルギーニやフェラーリのように、普通の車十数台、下手をすれば数十台分もする世界を想像していたので、かなり違った。718は見事に僕の知識の穴を埋めてくれた。
次に試乗方法を調べたところ、ネットには「ほぼ無理」と書かれていた。ポルシェディーラーに現車があれば乗れる。なければ乗れない。ただそれだけ。でも全米で数十台しかなく、最寄りの在庫店は100km以上先だった。わざわざそこまで行って10分乗るのも、何をしているのかよく分からない。別のディーラーから希望の店舗へ運んでもらう方法もあるらしいが、そのためには「この特定の一台を本気で買うつもりだ」と伝えなければならない。輸送費は一回1000ドル以上なので、買わないかもしれない客のために運んでくれる可能性はほぼない。担当者の機嫌がよく、将来の顧客だと思ってくれれば可能性はあるらしいが、かなり低い。
というわけで、いちばん現実的な試乗方法はレンタルだった。そこで一台借りた。せっかく借りるなら何かしなければもったいない。こうして、車を試すためだけにドライブ旅行を丸ごと一本組むことになった。完全に順序が逆である。
もっとも、この夏はもともとアイスランド一周ドライブを考えていたものの、いろいろあって行けなかった。今回はその心残りを少し埋める旅でもある。
借りたポルシェ718がこちら。
最初に見たときは、ものすごく格好よかった。見慣れてきても、やっぱりものすごく格好よかった。
まずは運転した感想から。「運転する体験」だけで言えば、かなりよかった。ネットで見かけた、慣れにくいかもしれない点も、実際にはそれほどでもない。
まず車高がとても低く、地面に座って運転しているような感覚になる。正直、これはそれほど気にならなかった。地面に近いことははっきり分かるが、それで運転に何か影響があったかと言われると、僕には特になかった。それより問題なのはフロントの長さだと思う。もともとノーズが長いうえに座る位置も低いので、前の車との距離感を見誤りやすい。ここは少し慣れが必要だった。
次は左右の視界。カリフォルニアの交通ルールでは、車線変更のときにミラーを見るだけでなく、振り返って死角に車がいないか確認する必要がある。でもこの車は、振り返っても後方がとても見づらい。車体に遮られ、運転席から横に見える範囲はほぼ自分の体と同じ位置までで、それより後ろはかなり見えにくい。実際の車線変更では、振り返って確認することに加え、ブラインドスポットモニターとミラーに映る車の位置をいつも以上に頼りにした。車線変更前に振り返る習慣が強い人は、ここにも慣れが必要だと思う。
そしてエンジンの位置。十数時間運転したが、ミッドシップエンジンと後輪駆動が自分の運転にどう影響するのか、最後までまったく分からなかった。雨や雪の厳しい路面、あるいはドリフトでもすれば分かるのかもしれない。エンジン音が前ではなく後ろから聞こえるとも言われていたが、これも体感ではあまりはっきりしなかった。普通に走っていると、どの車でもエンジン音は車内サラウンドで、前後ではなく「車の中」から聞こえる感じがする。音量は普段の車より少し大きい気もしたが、その程度だった。僕の車がもともとうるさいせいで、あまり差を感じなかった可能性もある。
違いを一つ挙げるなら、いちばん分かりやすいのはアクセルを強く踏んだときだ。普通の車なら、小さなブーンが大きなブーンになる。ここで言っているのはガソリン車のこもったブーンで、EVの音ではない。でもこの車は、そんな単純なブーンでは済まない。エンジンがゴロゴロと鳴り、その間に時々、配管が破裂したようなパンパンという音まで混ざる。そのときは、音が後ろから来ているのがはっきり分かる。僕にはかなり気持ちいい音だったが、まあ気持ちいいだけでもある。モータースポーツ好きなら、聞いた瞬間にアドレナリンが急上昇するのだろう。始動時も同じで、火を入れると大きな轟音が一発。ネットで言われていたとおり、駐車場中に到着を知らせる仕様だった。
ステアリングは重く、しかもとても敏感だった。これがいわゆる「ドライビングフィール」なのだろう。敏感すぎて、ほとんどの時間かなり力を入れて握っていたので疲れた。ただ、直進安定性はとても高い。少し力を抜いても真っすぐ走り、簡単に向きが変わったりはしない。これも慣れの問題なのだろう。そうでなければ、ずっと力んで運転することになってしまう。
まとめると、アクセルは力強く、加速は速く、ステアリングは敏感、重心は低く、車体は安定している。「運転する感覚」だけを評価するなら満点で、とても楽しい。『Need for Speed』のように車の流れを抜けていく感覚も確かにあった。
次はネットを見るだけでは分からない体験について。実際にしばらく使わないと見えてこない部分だ。
まずドアの位置。シートが深いため、乗り込むというより穴に潜るような動きが必要で、SUVや大きなセダンのように、足を上げてそのまま腰を下ろせる車ではない――という話はネットで見ていた。これは初めて乗った瞬間に実感した。でも、それをもっと痛感したのは狭い駐車場だった。最終日に食事へ行った店の駐車スペースが小さく、とても混んでいた。停めたあと、ドアは30度ほどしか開かない。降りるときも窮屈だったが、その時点ではまだ問題の深刻さに気づいていなかった。再び乗ろうとするまでは……。
この車はドアを開けると、ほぼコックピット全体が開口部になる。つまりドアの後端はシートより後ろ、運転席後方のボディー部分にある。そこは運転席の後ろからさらに10cmほど離れている。普通の車ならドアの後端は前席の背もたれ中央あたりなので、それより20cm近く後ろにあることになる。ドアが少ししか開かず、後ろ側から体を横向きにして滑り込む必要があると、ここで問題が発生する。片脚を入れたのに、足が床までまったく届かず、危うくシートを踏みそうになった。仕方なく思い切り前へ伸ばし、最後はほとんど縦開脚の姿勢で車内に押し込まれた。
結論。ドアを全開にできないと、乗るのがとても難しい。先に開脚を習得しておくことをおすすめする。ドアの角度次第では縦開脚でだいたい足りるが、極端な場合には横開脚も必要だ。あるいは最初から、ドアを開けられない場所へ行かないこと。
続いて後ろのトランク。エンジンが座席の後ろ、トランクのすぐ隣にあるため、しばらく走ると中がはっきり熱くなる。冷凍が必要なものを入れるのには向いていない。たとえばスーパーでアイスを買って後ろに入れ、そのまま家まで走れば、あっという間にきれいに溶けると思う。
そして前後のトランクを閉める方法。どちらも上から強く押さなければならない。問題は、この「強く押す」という部分だ。今の車、特にSUVなら、後ろのトランクは電動で開閉でき、手で触る必要がない。電動でなくても、内側の取っ手をつかんで勢いよく引き下ろせば、慣性で閉められる。外側のボディーには触れずに済む。
でもこの車では無理だ。前も後ろも、閉めるには外側に手を置き、力を入れて押さなければならない。普段なら大した問題ではないが、二つの状況ではかなり困る。一つ目は、今回のような長距離ドライブ。泥だらけとまでは言わないが、車体には大量のほこりが付く。前後のふたには本当に触りたくなかったが、触るしかなく、大きな指紋まで残った。二つ目は、フェニックスのような猛暑の場所。以前行ったときは日中の気温が45°Cに達し、車体表面は50°C、場合によっては60°Cを超え、卵が焼けるほどになる(実際、ネットにはそんな動画がいくらでもある)。そこで手に力を込めて前後のふたを閉めるとなると……自分の手を焼きたいのか、蒸したいのか、それとも拷問としてじっくり仕上げたいのか、という話になる。
要するに、日常の実用性という点では、この車にはいろいろ問題がある。
そして、全部体験したうえでの最終結論。買うか、買わないか。答えは買わない。購入前の試乗のつもりで借りたのに、試乗した結果、買わないと決めた。実に有意義な試乗だった。
最大の理由はこれだ。この車を運転するうえで最大の問題は、運転しなければならないこと。以上。本当にそれだけだ。長く運転すればするほど、自動運転や運転支援のありがたさが身に染みる。どれだけ「ドライビングフィール」がよくても、そもそも僕は運転したくない。
以前TikTokで見た、マクラーレンを買った人の動画を思い出した。買って非常に後悔していて、価格が10分の1しかないテスラのほうがいい、と言っていた。買うならテスラ、高級車に乗りたければ数日レンタルすれば大した金額ではない、と。当時は完全には理解できず、ただの自慢なんじゃないかと思っていたが、今ならよく分かる。僕に聞かれたら、迷わずEVをすすめる。高級車に乗りたければ、数日だけ借りればいい。
さて、ずいぶん話した結果、せっかくのドライブ旅行が高級車入門になってしまった。今回の旅へ戻ろう。そもそもの目的は単純に車を走らせることだったので、往路も復路もわざと遠回りにした。タホ湖では一周する。それだけの計画だった。それからネットで調べてみると、ここはちゃんとしたリゾート地としてかなり開発され、自然の湖一つだけではなく、いろいろなアクティビティがあるらしい。そこで初日の夜にサンセットクルーズ、翌朝に透明なカヤックで湖を漕ぐ、二つの予定を入れた。
ところが初日の移動中、翌日は湖上の強風が予想されるため、予約したカヤックは中止だという連絡が来た。湖で漕げないのは残念。この透明カヤックはSNSでも人気のアクティビティだったのに。
初日はCA-88を通ってタホ湖へ向かった。道中の景色は……景色と呼べるものがほとんどなかった。少なくとも実際に走った範囲では、特に目を奪われる場所はなかった。だいたいこんな風景である。これを絶景と呼ぶのはなかなか難しい。
夜は船に乗り、食事をしながら夕日を見ることにした。夕日を見るとはいうものの、実際にはほとんど見えない。ここには海の水平線がなく、湖畔には山がある。太陽は山の向こうへ沈むので、完全に見えなくなっても空はまだ明るい。これのどこが夕日なんだ。まあ、湖の景色を楽しむクルーズだと思えばいい。
二日目。本来なら早起きしてカヤックへ行くはずだったが中止になったので、自力で湖を一周することにした。最初からSand Harborの交通事情に圧倒された。もともとカヤックをする予定だった場所で、今度は普通に公園へ入ろうとしたのだ。
反時計回りで一周していた。時計回りなら湖側の車線を走れて展望スポットにも停めやすいからか、多くの人は時計回りで、反時計回りは少ないように見えた。Sand Harborに着くと、こちら側は普通に流れ、左折して入ることもできたが、対向車線は完全に終わっていた。片側一車線しかなく、公園入口へ向かう車の流れが極端に遅い。中で駐車スペースを探す車が少しずつしか動けず、入場する車は15秒に一台ほどのペースだった。でも道路は片側一車線なので、公園へ入りたいかどうかに関係なく、全員そこで渋滞に捕まる。
この様子では中の駐車場もかなり厳しいはずだ。ほかの車が出なければ、入っても意味がない。少し考えて、そのまま立ち去ることにした。ここはいつかカヤックをしに戻ればいい。わざわざ中へ入って混乱に加わる必要はない。
先へ進むと、対向車線の渋滞は何kmも続いていた。いつ解消するのか見当もつかない。この進み方では、最後尾の車は最低でも数時間待つだろう。いったい何をしに来たのか分からなくなる。
というわけで強く警告しておく。朝、時計回りでSand Harborを通ってはいけない。公園へ入るかどうかに関係なく、終わる。
その後は湖を一周しながら、Kings Beach、Sugar Pine Point State Park、D. L. Bliss State Park、Emerald Bay、そして道沿いの適当な展望スポットに立ち寄った。
特定の観光名所にこだわらなければ、道中の景色はかなりよかった。ただし、特別な何かを期待して名所を追いかけると、がっかりするかもしれない。
このパノラマ写真を限界まで拡大すると、裸でボートを漕いでいるおじさんが見える。
なぜこの人は漕げているんだ! この日は確かに風があった。商業カヤックツアーは危険が大きいと判断して中止したのだろうが、自分で漕ぐ人は普通に水へ出ていた。
Sugar Pine Point State Parkでは、水中へ延びる線路を見た。ところが、誰もいない! 中国にあれば、こんなSNS映えスポットは撮影待ちの列が地平線の向こうまで続くはずだ。でもここでは誰も気にしていない。みんな自然のままの砂浜や湖畔のほうが好きらしい。
Emerald Bayでは、岸からタホ湖唯一の島を見た。前日の夜、船でちょうど一周したばかりの島だ。
そして岸辺の家。
これで二日目のドライブは終了!
タホ湖の周回道路は、片側一車線の区間が多い。そのため朝の公園入口のような渋滞にぶつかると、ほぼその場で爆発するしかない。幸い、今日は反時計回りで一周し、最後までそんな目には遭わなかった。
そしてタホ湖の景色は……どう言えばいいのだろう。よくないと言えば、それは絶対に違う。でも、そこまで素晴らしいかと言えば、少し言いすぎにも感じる。いろいろな絶景を見てきた僕にとっては、家から車で行ける観光地の一つであり、まあこのくらいという印象だった。
似たような湖や水景なら、僕は今でも九寨溝を真っ先にすすめる。これまで行ったすべての場所の中でも、九寨溝の景色は世界で別格だと思う。田園風景が絵のように美しいといわれる『ロード・オブ・ザ・リング』のロケ地、ニュージーランドでさえ、あれに並ぶ水景は見つからなかった。
三日目は、長い長い帰り道。大きく南へ回り、まずMonitor Pass、次にSonora Passを通って帰宅した。
この二つは特定の観光地ではなく、どちらも道の一区間だ。理屈のうえでは、ヨセミテで有名なTioga Passと同じ種類の峠道である。当時見たGoogle Mapsの評価とレビュー数で言えば、Monitorがいちばん下、次がSonora、Tiogaが圧倒的トップだった。
さすがにTiogaまで回ったら、今日中に帰れない。実際に走ってみても、Monitorがいちばん微妙で、Sonoraはそれよりずっとよかった。
こちらがMonitor Pass。
その名を永遠に刻め!
道沿いはだいたいこんな景色。本当に人里離れた荒野だが、Google Mapsの写真とは驚くほどよく似ていた。車内から撮った写真が多いので、変な反射が映り込んでいても気にしないでほしい。
Sonora Passに着くと国有林へ入り、両側の景色はかなりよくなった。しかもここは区間がはっきりしていて、両側の入口にゲートがある。もちろん今は開いていて、通行を遮ってはいない。でも冬に雪が降ると閉鎖される。入口の標識にも、冬季閉鎖中は通常の除雪をして通行を維持しないとはっきり書かれていた。
そのまま国有林の中を走り続けた。道の両側はずっと木で、同じような景色が何十kmも続いた。
やがて国有林を抜け、高速道路で帰宅。今回の旅もこれで正式に終了した。