ブエノスアイレスから始まる南極への旅
ブエノスアイレス, アルゼンチン
長くて不安だらけのビザ申請を乗り越え、南極へ向かう前にブエノスアイレスを3日間歩いた。
旅
ドレーク海峡を越えて南極へ。上陸、クジラ、ペンギン、吹雪、そして最後のフライト遅延まで体験した極地の旅。
2025年1月12日–25日 · ブエノスアイレス · ウシュアイア · キングジョージ島 · +1 · 4件の記事
ブエノスアイレス, アルゼンチン
長くて不安だらけのビザ申請を乗り越え、南極へ向かう前にブエノスアイレスを3日間歩いた。
ウシュアイア, アルゼンチン
船選びとルート計画、ドレーク海峡への覚悟を経て、ついにウシュアイアで南極行きの船に乗り込んだ。
キングジョージ島, 南極
過酷なドレーク海峡を越え、南極で上陸、ペンギンやクジラとの遭遇、雪山登山、カヤック、ポーラープランジ、そして吹雪まで体験した。
プエルト・ナタレス, チリ
南極からの便が約40時間遅れ、船上で必死に旅程を変更。プエルト・ナタレスでチリに入国し、ようやく本当の帰路についた。
長くて不安だらけのビザ申請を乗り越え、南極へ向かう前にブエノスアイレスを3日間歩いた。
今回の南極への旅は、アルゼンチンの首都から始まった。
国際的な慣例に従えば、海外旅行はまずビザから始まる。そして今回、アルゼンチンのビザにまた盛大にやられた。
僕たちが申請した当時の制度では、中国のパスポートでも条件を満たすアメリカやシェンゲン圏のビザ――ほかにも対象国はいくつかあった――を持っていれば、簡略化された入国制度を利用できた。ところがアメリカのグリーンカードは対象外だった。さすがに意味が分からない。アメリカのビザを持つ人はアルゼンチンに居残らないけれど、アメリカ永住者のほうが居残る可能性が高いと思っているのか? 僕にはまったく合理的に見えなかった。
とはいえ制度は制度なので、アルゼンチンのビザを取るしかない。申請自体はそこまで複雑ではない。旅行計画、ホテルと航空券、残高証明など、求められるのはいつもの書類だ。問題は、当時アメリカで申請する僕たちの場合、旅行のおよそ90日前になるまで提出できなかったことだ。飛行機の到着は2025年1月12日なので、実際に申請できるのは2024年10月14日ごろ以降の営業日だった。
それだけならまだよかった。当時ネットで調べたところ、中国国内で申請する場合はもっと早く出せるうえ、半年、場合によっては一年有効のビザが出る可能性もあるらしかった。一方、アメリカでは出発のおよそ90日前にならないと申請できず、ビザそのものの入国用の有効期間も発給日からきっかり90日。一日も長くなく、開始日は必ず発給日だった。これが出発のおよそ90日前になるまで申請できない理由なのかもしれない。もっと早く発給されたら、出発する前にビザが切れてしまう。僕たちは一度、本気で中国へ戻って申請することまで考えた。書類はオンライン提出で、面接もたぶん不要。本人がどこにいるかなど気にされないのでは、と思ったのだ。しかし要件を調べると、中国での収入証明や預金証明などが必要で、僕たちにはそちらのほうが面倒だった。結局やめた。
しかもまだ終わらない。アメリカ国内のアルゼンチン領事館は、場所ごとに仕事の進め方が違うらしい。それぞれ独自のページがあり、ネットの書き込みでは速いところも遅いところもある。僕たちを担当するカリフォルニアのロサンゼルス領事館は特に遅いと、かなり叩かれていた。イリノイ州の領事館はものすごく速いという話もあった。そこで、イリノイに住む友人の住所を書いて、そちらで申請できないか試すことまで真剣に考えた。ただし実行はしていない。結局、その領事館へ送ったメールが二か月たっても返ってこなかったので、「仕事が速い」という評判には疑問が残った。余計なことはしないことにした。
最終的にロサンゼルス領事館へ申請した。そしてこの領事館の効率は、本当に頭を抱えるレベルだった。書類提出メールへの自動返信には、5〜10営業日後に返答すると書いてあった。10営業日たっても返事がないので、もう一度メールした。今度も自動返信で、15〜20営業日待てと言う。さらに5営業日後にまた送ると、今度は20〜25営業日待てという自動返信だった。しかも「11月以降に提出された申請は翌年まで処理されない」という一文まで追加されていた。
いや、この一か月、何も進んでないじゃないか。いつメールしても、待ち時間がさらに10日先へ伸びるだけだった。ネットで読んだ「アルゼンチン領事館が遅すぎて、出発直前までビザが出ず、航空券を変更しかけた」という話は、本当だったのかと実感した。
この状態は11月末ごろまで続いた。僕たちはめちゃくちゃ不安だったが、どうしようもない。メールしても意味のない自動返信だけ。電話がつながったら奇跡である。
11月末、ようやく領事館からメールが来た。12月初めにオンライン面接をしたいので、いつ空いているかと聞かれた。考えるまでもない。いつでも空いている。そちらが日時を決めてください。必要なら仕事を休んででも出ます。また何が起きるか分からないのだから。
申請できる最初の営業日に出しておいて、本当によかった。もし11月まで延ばしていたら――実際にはたった二週間遅らせるだけだが――南極旅行そのものが本気で中止になっていたかもしれない。
そして面接当日、案の定また何か起きた。30分の面接なのに、面接官はきっちり34分遅刻した。ただ今回は以前ほど慌てなかった。WhatsAppのビデオ通話で、すでに面接官の連絡先を追加していたからだ。開始時刻から10分後、かなり丁寧なメッセージを送った。表面上は礼儀正しいが、要するに「どこにいるんですか?」である。もちろん反応はない。それでも待ち続けたかいがあり、最終的には面接官が現れた。前の面接が長引いたらしい。まあいい。僕たちのビザを握っているのは向こうだ。こちらに文句を言う余地などない。
面接そのものはとても順調だった。提出書類はかなりそろっていた。面接官は必要書類と照らし合わせ、「追加はこの二つだけでいい」と言った。似たものはすでに出してあり、僕たちは十分だと思っていたが、今回は必要なものをはっきり指定してくれた。さらに親切なことに、新しい書類の受領確認を待たず、パスポートもすぐ郵送していいと言う。二つを並行して進められる。そこで言われたとおりにした。
面接はすぐ終わり、僕たちは追加書類をメールで送った。すると当然のように、25営業日待つよう勧める自動返信が来た。受け取ったのかどうかさえ分からない。
この期間は前よりさらに不安だった。今度はパスポートまで手元にない。結局、書類はちゃんと届いていた。パスポートを送ってから約二週間後、新しいアルゼンチンビザが貼られて戻ってきた。その日はもう12月23日。出発まで三週間を切っていた。
つまり、アルゼンチンのビザを取るなら絶対に早く動くべきだ。遅れたら本当に終わる。ただ考えてみると、ここの読者は中国人なら中国で申請できてもっと早く始められるし、アメリカ人ならそもそもビザがいらない。僕の忠告、あまり役に立たない気もする。
何はともあれ、無事に出発できた。
ここで、なぜブエノスアイレスへ来たのかを書いておく。南極行きの船はウシュアイアから出る。アメリカから飛ぶなら、どうしてもブエノスアイレスで乗り継ぐことになる。これはもう「せっかくここまで来たんだから、ついでに遊ぼう」だけの話ではなかった。当時僕たちが探した旅程では、ブエノスアイレスで空港を移動する乗り継ぎがかなり多かった。そう、見間違いではない。ブエノスアイレスには空港が複数ある。しかもそこまで遠くはなく、渋滞がなければ車で数十分ほどだった。
だったら、せっかくここまで来たんだから……。
しかも南極ツアーの開始日は水曜日。アメリカを出るなら遅くとも月曜の昼だ。つまり、その週はどうせ丸ごと休まなければならない。それなら前の金曜の夜に出発すればいい。同じ休暇日数で、アルゼンチンに長く滞在できる。どうせ休みを取るのだから……。
そういうわけで、到着日を含めてブエノスアイレスに三日間滞在した。
初日は昼に到着。入国審査で、アルゼンチンの力の抜け具合にさっそく驚かされた。入国審査官がスマホを見ながら僕たちの手続きをしていた。本当に、ちゃんとスマホの動画を見ている。僕たちのパスポートに何か確認事項が出たらしく、僕らをその場に残し、パスポートだけを持って奥の部屋へ行った。その移動中も、片手にパスポート、もう片方に動画を流したスマホ。見ながら歩いていた。僕も20か国以上行ったが、こんな入国審査は初めてだった。
入国自体は順調だった。スマホのせいで待ち時間が延びたかどうかは置いておくとして、問題は何も起きなかった。奥から戻ると、そのまま通してくれた。
空港からホテルまではUberを呼んだ。すると今度は運転手がまた驚かせてくれた。運転しながらスマホを触っている。まあ、僕に何が言える。道路では安全第一。運転中くらいスマホから目を離してほしい。
午後はホテルで休み、夜はアルゼンチンタンゴのディナーショーを予約した。簡単に言えば、小さな会場でステージのタンゴを見ながら夕食を食べる。Viatorで探すと、こうしたタンゴディナーはブエノスアイレスでも特に人気の高い観光体験の一つで、提供しているところが本当にたくさんあった。そこで適当に一つ選んだ。
夕食については特に評価しない。普通の夕食だった。ただ、このタンゴはさすがに本場のアルゼンチンタンゴと呼んでいいだろう。これほど街に根づいた定番のショーまで本場でないなら、何を本場と呼べばいいのか分からない。
二日目は、ブエノスアイレスの人気スポットを一日で巡るツアーに参加した。事前にネットで調べると、ブエノスアイレスはかなり危ないと言われていて、バイクなどで走りながら物をひったくる事件も珍しくないらしかった。そこで旅行前にスマホ用ストラップを二本買い、手首に結びつけた。これならひったくられても、スマホが残るか、手がなくなるかのどちらかだ。ガイドからも、見た目は安全そうでも絶対に金目のものを見せるな、と注意された。たとえば一眼レフをむき出しで手に持つなんて、どうぞ奪ってくださいと言っているようなものらしい。幸い、この日は何も盗られなかった。運がよかったのか、治安がよくなったのかは分からない。
中でも一番有名なのは、たぶんカミニートだ。Caminitoはスペイン語で「小道」くらいの意味らしい。
その後、ブエノスアイレス中心部にあるこの書店にも行った。友人への土産に、スペイン語原版の『百年の孤独』を探した。残念ながらスペイン語力が足りず、結局見つけられなかった。たぶん、どこかには置いてあったと思う。
三日目は、ブエノスアイレス郊外の牧場で一日体験をした。ただ正直、このツアーはちょっと内容が薄かった。一日の大半は車に乗っているか、特に何もせずに過ごしていた。その中で馬術ショーを見たのだが、最初から後ろ向きに馬へ乗る技を披露してきた。人馬一体、まさに人と自然の調和である。
このショーから大きな学びを得た。今後、誰かが「馬に乗れる」と言ったら、まずこれを見せてもらうことにする。
これでブエノスアイレスの日程は終了。次は飛行機で世界の果て、ウシュアイアへ向かう。
船選びとルート計画、ドレーク海峡への覚悟を経て、ついにウシュアイアで南極行きの船に乗り込んだ。
ウシュアイアに到着。いよいよ南極への旅が始まる!
何しろ南極だ。ずっと前から行きたくて仕方がなかった。何年か前にネットで調べたとき、南極行きの船は予約がとにかく難しく、基本的には一年前から押さえる必要があると書かれていた。僕が実際に予約したのは前年の4月。なぜ4月だったかというと、それまではエジプトのことで忙しかったからだ。それに、見ていた旅行代理店のツアーページにはずっと空きがあったので、帰ってから予約すればいいと思っていた。
そして、自分がまだ甘かったことを思い知った。代理店のページにいつまでも空きがあるのは当然だった。あれは外部の販売ページで、実際の船室在庫が自動更新されるわけではない。しかも「申し込む前にお問い合わせください」とはっきり書いてある。満室なら、問い合わせたときに「空いていません」と言えばそれで終わりだ。僕が予約できるかどうかなんて、サイト側には知ったことではない。
その仕組みを理解したのは、4月になって南極旅行の攻略を真面目に調べてからだった。まずは会社を選ばなければならない。自社で船を運航し、そのまま南極まで連れていってくれる会社なら、さらに代理店を挟む必要はない。代理店経由だと、どうしても余計に高くなりそうな気がしてしまう。いちばん安い船室でも1万ドル近いのに、そこからさらに中間マージンまで払ったら、いったいいくら損するのか。
南極へ行ける会社はそれなりに多く、攻略記事を読むと検討項目が次々に出てきた。南極での上陸には、上陸地点の受け入れ人数、グループ分け、上陸やクルーズに使うゾディアックボートの運用など、いろいろな制約がある。一般的には、船が大きく乗客が多いほど、上陸の運営にも制限が出やすい。大きな船は揺れにくく船酔いしにくい代わりに、上陸時間が短くなりがちで、小さな船はその逆。スタッフやガイド、乗組員と乗客の比率も大事で、スタッフが少なすぎるとサービスが落ちる。何日も船で暮らすのだから、これは無視できない。ほかにもあらゆる項目に評価があり、読めば読むほど頭が痛くなった。
最終的には、ある記事のおすすめを信じて Lindblad Expeditions を選んだ。値段は高めらしいが、サービスがとてもよく、かなりプロフェッショナルだという。そして、この会社を選んだ大きな理由がもう一つある。長年 National Geographic と提携していて、プログラムの正式名称が National Geographic-Lindblad Expeditions だったのだ。南極クルーズ会社のことは全然知らない。でも National Geographic なら知っている。名前を聞いただけで一気に信用できそうな気がした。
会社を決めたら、次は出発日を選ぶ。日程はたくさんあり、だいたい週に一本くらい。ただし、日によってルートが少しずつ違う。アルゼンチンから船で出発し、帰りも船でアルゼンチンへ戻るものもあれば、帰りは飛行機でチリへ向かうものもある。中には出発も帰着もチリで、往復とも飛行機というルートまであった。
当時僕たちが聞いていた話では、アルゼンチンと南極の間にあるドレーク海峡はかなり恐ろしく、世界でも特に危険な海域の一つだと言われていた。地図を見ると、その評判の理由も分かる。南米と南極の間にある海の通り道で、南極環流が通過する。南半球の高緯度にはもともと強い偏西風が吹き、南極の周囲にはそれを遮る大陸がほとんどない。強い海流に、強い風とうねりが重なり、ドレーク海峡は荒れることで有名になった。
僕は船酔いがかなりひどいので、できることなら避けたかった。でも、もう避けられなかった。予約した時点で、往復とも飛行機を使う船は都合のいい日程が満室。選べるのは2月末だけだったが、いろいろ考えてやめた。一方、往復とも船のプランは、船で行って飛行機で帰るプランより二日長く、数千ドルも高い。それなら安いほうを選ぶに決まっているし、ドレーク海峡で往復二回も苦しむ必要はない。結局、行きは船で南極へ向かい、帰りは飛行機でチリへ戻るルートにした。
その結果、アルゼンチンのビザが必要になった。往復ともチリから飛行機を使うだけなら、当時の僕の条件――中国のパスポートとアメリカのグリーンカード――では、チリにビザなしで入国できたからだ。
アルゼンチンのビザがどれだけ面倒だったかは前の記事ですでに書いたので、ここではもう繰り返さない。
とにかく、数々の困難を乗り越えて、ようやくウシュアイアに到着した。ツアーのスタッフが迎えに来てホテルまで送ってくれ、そのまま僕たちのパスポートを「没収」した。もちろん本当に取り上げられたわけではなく、渡航や遠征に必要な手続きを進めるため、一時的に預けたということだ。
その夜のウェルカムディナーで、ガイドが堂々と自己紹介した。名前はマイケル・ジャクソン。本人いわく、冗談ではなく本名らしい。彼が生まれたころ、歌手のマイケル・ジャクソンもまだ赤ちゃんだったので、あのスターにちなんで付けられた名前では絶対にない。
翌日は、近くの国立公園を見学した。正直、内容はちょっと薄めだった。
その後、ウシュアイアで有名な Les Éclaireurs 灯台を見に行った。
この島では、すでにたくさんのペンギンを見ることができた。ツアーのみんなもかなり興奮していた。でも二日後には、たぶんこの何十倍どころではない数のペンギンを見ることになるなんて、誰も想像していなかったと思う。
その夜、僕たちは南極へ向かう船、National Geographic Explorer に乗り込んだ。
南極への旅が、正式に始まった!
過酷なドレーク海峡を越え、南極で上陸、ペンギンやクジラとの遭遇、雪山登山、カヤック、ポーラープランジ、そして吹雪まで体験した。
乗船したものの、船はすぐには港を出なかった。風と波が強すぎて、ドレーク海峡を通れないという。当時僕が聞いた説明では、通常の航行時でも波は平均5メートルほど。10メートル未満なら検討の余地はあるが、10メートルを超えるとほぼ無理らしい。その夜はまさにそんな状況だった。本来ならそのまま出発する予定が、翌日の昼間まで延期になった。
そのため、その夜は乗客も船を降り、ウシュアイアの町で遊んでよいことになった。ただし深夜までには戻らなければならない。僕たちは降りなかった。ウシュアイアでほかに何をすればいいのか、本当に思いつかなかったからだ。かなりの人が町のバーへ飲みに行ったらしい。
翌朝になっても、まだ通航できなかった。かなり痛いが、どうしようもない。南極旅行がいきなり一日減ったような気がして、ちょっと損した気分だった。
その日の午後、ようやく船長から出発できるという連絡が入った。午後5時、汽笛が長く鳴り響き、船は港を離れてドレーク海峡へ向かった。
夜7時には、船内でシャワーまで浴びた。まだウシュアイア南側の水道を完全には抜けておらず、波も小さかった。当時の僕は、このあと何が起きるかまったく分かっていない。そのまま寝た。
夜中、部屋の中からガランゴロンと、何か金属が床を転がるような音が聞こえた。見ると、配られていた金属製の水筒が、柵の付いた棚から落ちて床を転がり回っていた。幸い、ベッドから降りなくても手が届いたので、拾ってバッグに押し込んだ。船がかなり揺れ始めていることに気づき、僕たちは酔い止めを飲んで、また眠った。
翌朝、起き上がろうとしたところで完全に限界が来た。その日の波は6メートルほどだったと聞いた。ドレーク海峡ではほぼ平均的なレベルらしい。でも僕たちには、すでに大きすぎた。
ベッドで起き上がっては倒れ、また起き上がっては倒れた。何度か繰り返した末、起床は正式に失敗。体を起こした瞬間にめまいが始まり、数秒耐えるとすぐ吐き気が来る。もう横になるしかない。持参した酔い止めはまったく効かず、ひどく酔ったまま。さらに酔い止めのパッチも用意していたので併用したが、それも何の役にも立たなかった。
もしかして薬が弱すぎるのでは、と疑い始めた僕たちは、一人の決死隊をこの階の受付まで送り、酔い止めをもらうことにした。その役は僕になった。十数秒歩き、5秒立って薬を受け取り、また十数秒かけて戻った。部屋に着いて最初にしたことは、トイレへ直行して吐くことだった。この旅で吐いたのはこれが初めて。でも最後ではなかった。
吐いたあとは少し楽になったが、やはり横になっていなければならない。起きたら即終了。船でもらった酔い止めを飲んでも、やっぱり効かなかった。僕たちは船酔い耐性が低すぎて、もう薬でも救えないらしい。当時の感覚では、横になってさえいればほぼ問題なかった。船が激しく揺れていることは分かるし、さっき自分がなぜ吐いたかも簡単に想像できる。でも起きなければ大丈夫。ところが座った瞬間、すぐに来る。耐えられても一分ほどで、もう吐かなければならない。立っていたら、せいぜい30秒だった。
そのままずっと部屋で、何もできず、ひたすら横になっているしかなかった。朝食を逃し、昼食も逃した。すると新しい問題が出てきた。寝ていれば船酔いはしないが、今度は低血糖になりそうな感じがする。仕方がないので、助けを呼ぶことにした。
電話の横の椅子に座り、船医へ電話した。先生が「こちらまで来られますか?」と聞くので、「一ミリも無理です。そちらから来てください」と答えた。すぐ行きます、と言ってくれた。座っていられる貴重な一分を使い、どうにか電話を終え、そのまままたトイレで吐いた。
戻って横になっていると、数分後に先生が来た。僕たちの状態を見て、「たぶんもう普通の方法ではどうにもならない。眠ってしまう酔い止めを一人一本注射して、ドレーク海峡を寝て越えるしかない」と言った。今回は船酔いした人が多く、その薬ももうすぐなくなるらしい。それでも僕たちは運がよく、少なくとも二本は残っていた。
二人とも一本ずつ注射され、そのまま眠りに落ちた。
翌日目を覚ますと、船はほぼドレーク海峡を抜け、正式に南極海域へ入っていた。いちばん分かりやすい変化は、波が小さくなっていたことだ!
これならもう動ける、と僕たちは起き上がった。正直、波が小さくなったとはいえ、まだ揺れている。船酔いは大幅に軽くなったが、症状は残っていた。
朝食を食べに行った。あまりにも長く何も食べていなかったからだ。一昨日の夜から今まで、昨日ベッドに寝たままクラッカーを二枚食べただけで、そのかなりの部分も吐いてしまった。ここで食べなければ、本当に餓死しそうだった。
レストランへ向かう途中、船内のあちこちにロープが張られていることに気づいた。最初は何に使うのか分からなかったが、レストランに着くと、中はまるでクモの巣。そこら中にロープがあり、みんなそれにつかまって歩いていた。なるほど、こう使うのか。テーブルや椅子の下にもフックがあり、今はロープを掛けて床に固定してある。最初の二日間に食事をしたときは、どれも普通に置かれていた。やはり波は相当ひどかったらしい。食事中も船は揺れ続け、ときどき厨房から大量の食器がぶつかる音がした。割れていないことを祈るしかない。
どうにか朝食を食べ切り、生きて部屋へ戻った。そして最初にすることは、もちろんまた横になること。船酔いはゲームのゲージみたいだった。外へ出て活動すると酔いゲージが増え、横になると減る。100%までたまると一気に減少する。つまり、吐く。
昼になると波はさらに小さくなり、活動できる時間も範囲も広がった。午後にはほぼ波がなくなり、すでに南極海域へ到達していた。この辺りでいちばん穏やかな海が南極海域だなんて、まったく想像していなかった。
あとで知ったのだが、船にはほとんど船酔いしない猛者が何人もいた。前日、波がいちばん激しいときにも外へ出ていて、ラウンジでこの写真を撮っていた。
この揺れ、船内のグランドピアノまで吹っ飛ばしている。というか、こういうものは床に固定しておくべきでは? 本当に『海の上のピアニスト』を再現して、好き勝手に滑らせていたのだろうか。それとも実は固定されていたのに、それでも飛ばされたのか。
僕たちの全行程はこうなっていた。
僕にはどの場所もだいたい同じに見え、正直どう区別すればいいのか分からないので、ここでは全部まとめて書くことにした。それに、図にある「ホエールウォッチング地点」も海上の固定地点ではない。いつ出会えるかはクジラ次第で、会えた場所がそのときの観察地点になる。
僕たちは船で生活していたが、南極へ行くには上陸作戦が必要だった。上陸作戦というのも、そこまで大げさではない。使った上陸艇はこれ。Zodiac(ゾディアック)のゴムボートだ。
上陸時、大きな船は沖に止まり、側面のドアを開ける。そこから直接 Zodiac に降りる。岸辺(そもそも岸辺と呼んでいいのか?)には桟橋など何もなく、完全に天然の海岸だ。まずスタッフが先に向かい、足を置けるプラスチック製の階段など、簡単な仮設設備を作る。そのあと僕たちが Zodiac で岸へ行き、階段を使って浅瀬に足を下ろし、そこから陸へ上がる。本当に上陸作戦そのものだった。
南極では、船を走らせて景色がよさそうな場所を見つけたら、そのまま自由に上陸できるわけではない。多くの南極探検クルーズは IAATO(国際南極旅行業協会)に加盟し、船同士で上陸地点と時間を事前に調整して、同じ場所に集中しないようにしている。一般的には、一つの上陸地点で同時に上陸する船は一隻だけで、陸上にいられる観光客は最大100人。乗客が二百人、三百人いる船なら、何組かに分かれなければならない。一組が陸上で活動している間、別の組は Zodiac でクルーズし、そのあと交代するのがよくある方法だ。
さらに、上陸地点ごとに細かい決まりがある。一日に一、二隻しか受け入れない場所もあれば、滞在時間が制限される場所もある。ペンギン、アザラシ、植生を守るため立入禁止になっている区域もあり、歴史遺産では一度に入れる人数が決められていることもある。乗客500人を超える船は乗客を上陸させることができず、クルーズのみとなる。
こうした予約や調整は、基本的に船会社と探検チームが裏で済ませるので、普通の乗客にはほとんど見えない。僕たちの船では、毎晩マイケル・ジャクソンが翌日の予定地を説明してくれた。ただし、南極の天候と海氷はすぐ変わるので、予約済みでも急に中止になったり、別の上陸地点へ変わったりする。簡単にまとめると、南極上陸は、事前に時間を決め、一地点に一隻、陸上は最大100人、さらに各地点独自の決まりが加わる仕組みだった。
上陸するときは、長い防水ブーツを履き、普段のズボンの上に防水パンツを重ね、ダウンジャケットを着て、さらに救命胴衣を装着する。まさに完全装備だ。南極では生態系の管理も非常に厳しく、ある上陸地点の生物や病原体を別の地点へ持ち込まないよう、特に靴、衣服、装備を通じた拡散を防いでいた。
つまり、ある上陸地点で防水ブーツが何かを踏んだら――いちばん多いのはペンギンのフン――船へ戻る前に必ずきれいに洗わなければならず、洗わなければ乗せてもらえない。もちろんスタッフが手伝ってくれる。靴以外の衣服や装備も、土や生物の残りが付かないようにし、付いた場合は帰船後に清掃する必要がある。そのため船から貸し出されたトレッキングポールも、地面に突いた以上、戻るときにきれいに洗わなければならなかった。
僕たちの探検チームは、さすがプロだけあって、ルールをかなり厳格に守っていた。ただ旅の途中、ルールを守らず勝手に上陸しているように見える船にも出会った。ガイドいわく、「この地点は僕たちが予約していて、同じ時間に別の船が入る話は聞いていない。だから、あの船はたぶん取り決めに違反している」とのこと。環境保護はみんなの責任ということで、僕たちはその船を通報した。
最初の上陸地点では、大量のアザラシを見た。少しオオカミの群れっぽいところがある。普段は地面に寝そべり、だらだら気持ちよさそうにしているのに、一頭が鳴き始めると、何頭も一緒になって空へ向かって吠え始める。聞いた話では、群れのボスの座を争っているらしい。
その後の上陸地点では、大量のペンギンを次々に見るようになった。
南極で撮った最初の記念写真がこちら。
ペンギンがフンをするところを見れば分かるが、あれは噴射式だ。細長い白線が後ろへ飛び出し、優雅な(本当にその表現でいいのか?)放物線を描く。これで、巣の周りにある白い線がどうやってできたか分かっただろう。
ここでは、ペンギン同士が大げんかする最高の動画も撮れた。ただ、ここでは動画を載せにくいので、また今度ということで。
Zodiac に乗り、かなり近くからクジラも観察した。これは完全に運次第だ。まず遭遇できるかどうか自体が分からない。大きな船はクジラが現れた位置に合わせて航路を調整し、彼らがよく活動する海域へ向かう。そうした場所が自然とホエールウォッチング地点になる。それでも、どこまで近くで見られるかはやはり運だった。
僕たちはかなり運がよかった。小舟がクジラの進む方向に合わせてゆっくり動いていると、クジラがちょうど前方の Zodiac の横へ泳いでいき、その周りを回り始めた。
前の船は本当に運がいいな、と感心していたら、そのクジラが今度はこちらへ向かってきた。そして僕たちの小舟のすぐ横に浮上した。船べりから二メートルも離れていなかったと思う。ひれが水面から出て、手を伸ばせば届きそうな距離だった。
動画も撮ったが、中には同行者たちの歓声がずっと入っている。最後の写真はその動画から切り出したので、画質は少し悪い。
正直、ここまで近いホエールウォッチングは、よく考えると少し危なかったのでは? 相手は「ただの」ザトウクジラとはいえ、全長12メートルを超える。僕たちの小舟は長く見積もっても6メートル。その尾びれが一度うっかり動けば、こちらは簡単に吹っ飛びそうだ。まあ、たぶん、おそらく、今までそんな前例はなかったのだろう。
大きな船からはシャチも何度も見た。
ある上陸では、山にも登った。登っている最中は死ぬほど疲れたのに、あとで聞いたら標高は200メートルあまり。友達に話すと、第一声はみんな同じだった。「200メートルで山って呼べるの? それ、ただの大きな土の山では?」
普通ならその通り。でも南極では、普通ではない。
まず、山頂からの全景はこうだった。
山頂で記念撮影。
そして登山道はこうだった。
写真の通り、道などなく、雪の踏み跡が一本あるだけ。ここで登るなら完全装備が必要で、ダウンジャケット、タイツ、防寒パンツなど全部着なければ、凍えてしまう。そんな重装備だから、半袖短パンで歩く普段の登山より体力を何倍も使う。それだけでも大変なのに、この雪道はかなり歩きにくい。長い区間で雪の深さが30センチほどあり、一歩踏み込むたびに、足を引き抜くだけで力が要る。しかも足元に何があるか分からない。踏んだ先の雪の下に氷があれば、そのまま滑って転ぶ。登っている間はずっと警戒し、体幹に力を入れ、無事に歩けるようにしなければならなかった。
とにかく、山頂に着いたころにはもう限界だった。登り始めたときは、マイケル・ジャクソンの後ろに約50人の大集団がいた。山頂に着いた時点では、残っていたのは4人だけ。僕たちが写真を撮って下り始めるころ、後ろからほかの人たちも少しずつ到着した。序盤、ガイドの助言は「もう少しです、頑張って」だった。さらに後ろの区間では、「戻ったほうがいいです。時間に間に合わないかもしれません」に変わっていた。
南極の歴史的な遺構もいくつか見た。ガイドは面白い簡略版で説明してくれた。「1958年より前に残されたものは歴史遺産、1958年よりあとに残されたものはゴミ」。1957〜58年の国際地球観測年ごろを境に、南極での活動が大きく変化したからだという。初期探検時代の小屋、設備、物品などには歴史的価値があるかもしれない。一方、その後に科学基地が大量に作られてから生じた廃棄物は、「南極に残っている」というだけで自動的に遺産になるわけではなく、原則として環境保護のルールに従って片づけるべきものだ。
つまり南極では、ゴミをいつ捨てたかがとても重要。十分昔に捨てれば、ゴミもいつかお宝になる。
いくつかの遺構は、すでにペンギンに占領されていた。
まだペンギンの侵攻を受けていない遺構もあった。
どう考えても、この遺構は危険な建物では? ガイドは「中へ入って自由に見てもいい。でも崩れても責任は取りません」と冗談めかして言った。僕は入った。幸い、南極にはたぶんシロアリがいないし、地震もおそらく少ない。そうでなければ、この家はとっくに崩れていただろう。
船では、カヤックやポーラープランジといった極地アクティビティも用意されていた。
まずはカヤック。これは最高に面白そうだった。南極で、砕けた氷が浮かぶ水の中を二人乗りカヤックで進む。聞いただけでテンションが上がる。
この活動は天候の条件が非常に厳しい。何しろ南極は危険だ。ガイドによると、まず予定地まで行き、天候が許せば実施、駄目なら諦めるしかない。到着してみると、天気は最高。やるしかない!
予定地といっても、固定施設など何もなく、南極大陸沿岸の普通の海域だ。たぶん地形の関係で、昔から穏やかになる確率が高い場所なのだろう。この日は快晴で風もなく、カヤックにぴったりだった。スタッフが先に海へ出て、広い範囲をブイで囲み、「ここから外へ出ないでください」と説明したあと、僕たちも船を降りた。
僕たちのカヤックはこんな形だった。
実際に漕いで砕氷エリアへ入ると、こんな感じ。
記念撮影もした。
次はポーラープランジ。カヤックをした砕氷エリアの近くに、臨時の飛び込み場所を作った。実際には、大きな船の出入口に Zodiac を二隻並べ、その間に十平方メートルもないプラスチック板を、水面から約一メートル下に設置しただけだ。参加者は Zodiac の船首に立ち、思い切って海へ飛び込み、板まで泳いで立ち上がり、Zodiac へ戻って船内へ帰る。
これは泳げる人の場合。泳げない人は、そのまま勢いよくプラスチック板へ飛びついてもいい。全身が海水に入れば成功扱いになる。
聞くだけでも刺激的だ。案の定、参加するために追加で二枚の免責同意書へ署名した。もはや生死状みたいなものだ。この活動は高血圧や心臓病などとは明らかに相性が悪そうなのに、乗客140人あまりのうち、約70人が参加した。僕が見る限り、船内で僕と同じくらいの年齢の人は極端に少なく、一桁しかいなかったと思う。ほぼ全員が少なくとも10歳、場合によっては20歳以上年上で、白髪の人も大勢いた。この50代、60代の探検家たちは、本当に僕よりずっと強い。
海水温は約2℃。僕は水へ飛び込む瞬間がいちばんきついと思っていたが、実際は全然違った。水に入るのは一瞬で、戻るまで全部合わせても20秒ほど。我慢すれば終わる。最もつらいのは順番待ちだった。水着一枚で南極の冷たい風にさらされながら立って待つ。これ自体はまだよく、数分なら耐えられる。列の最初ではサンダルを履けるが、Zodiac のそばでは船内に置かなければならず、しかも前にはまだ何人かいる。足元にはタオルが敷かれているものの、氷水をたっぷり吸っていた。僕はその上に裸足で二分間立ち、足が凍って取れそうになった。
最終的に、無事飛び込み成功。残念ながら証拠写真はない。
船へ戻ると、先生がそばにいて、体をすぐ温めるための特製コーヒーを一人ずつ渡してくれた。結局、風邪もひかず、何事もなかった。
上陸先の景色だけでなく、船から見る風景も驚くほど美しかった。雲が晴れ、月が明るく、澄み切った空と海には何の飾りもいらない。これほど透き通った海と青空に、何が勝てるだろう。
景色だけでなく、船内生活もかなりすごかった。船は相当豪華だ。ラウンジのバーは毎日午後に開き、夜は無限に営業する。客がいる限り、ずっと開いている。しかも飲み物はすべて飲み放題。唯一残念だったのは、僕が目をつけていたノンアルコールドリンクがずっと品切れで、下船するまで補充されなかったことだ。見るからにおいしそうな飲み物は、やはり売り切れるのも早い。さらに船内にはサウナ、スパ、ガラス張りのパノラマジムまであった。設備が強すぎる。
やがて旅も終盤に入った。船はキングジョージ島へ戻った。そこには空港があり、飛行機でチリへ向かう予定だった。
そして当然のように、また問題が起きた。
ここの空港は非常に簡素で、普段イメージする民間空港とはまるで違う。滑走路も普通の舗装路には見えず、僕が見た限りでは全部砂利でできていた。ここで離着陸するのはかなり難しそうだ。施設は簡素で、南極の天気は急変する。そのためフライトには高い視程と適切な天候が必要で、晴れているか、少なくとも視界が一定以上確保できなければ運航できない。
ガイドによると、過去の経験では、一日に飛べる時間帯が数時間しかないこともあるらしい。だから最終日はずっと船で待機し、運航できると確定した時点で Zodiac に乗って空港へ向かう予定だった。
ところが、出発予定の日は一度も運航可能な時間帯がなく、飛べなかった。それだけでなく、その時点の観測では翌日も飛べない可能性があった。本来ならそのまま待つところだが、当面は確実に無理だと分かったので、船長がもう一度上陸することを決めた。おかげで、追加の上陸機会が手に入った。
そして、さらにたくさんのペンギンを見た。
よく見ると、これらの写真はそれまでのものと大きく違う。以前の写真は全部、晴天だった。そう、ここ数日、南極では船上でも上陸中でもずっと快晴で、天気は最高だった。運がよかったのか悪かったのか分からない。活動するには間違いなく非常に便利だったが、まったく南極らしくない。
今日は違う。完全な吹雪だ。寒く、体感温度はそれまでよりずっと低い。冷たい風が骨まで刺さり、南極の厳しさを本当に感じた。
船の多くの人も同じことを言っていた。「これこそ南極だ」。それまでの晴天で、南極は穏やかな場所なのだという現実離れした幻想を抱いていたらしい。
船へ戻ると、みんなさらに満足していた。これで南極の吹雪まで体験した。南極旅行は完全にやり切った感じだ。
その夜、ガイドが「明日の朝は、おそらく飛べます。とりあえず寝てください。飛べるようなら起こします」と言った。
翌朝4時、僕たちは叩き起こされた。急いで朝食を食べ、Zodiac でキングジョージ島へ向かい、上陸作戦をして、空港へ行き、飛行機を待った。
前にも書いた通り、ここを空港と呼ぶのは少し難しい。周囲には一応「建物」と呼べるものがあり、飛行機が着陸する直前まで中で待った。そして、この場所は清掃が非常に大変だと説明された。環境保護のため、必要がなければトイレは使わないでください。中身はチリまで持っていってください、と。
そのあとバスで搭乗地点の近くまで運ばれ、待合所で飛行機を待った。待合所といっても、プラスチック製の大きなテントが二つあるだけ。外では冷たい風がうなり、テントの中までゴーゴーという音が聞こえた。そしてここまで来ると、トイレという概念そのものが消滅していた。
それでも飛行機は無事に来た。一機は白黒の塗装で、ガイドから「ペンギン飛行機」と呼ばれていた。その飛行機が離陸すると、周りの人たちが大騒ぎして「ペンギンが飛んだ!」と叫んだ。こうやって自分たちで盛り上がる理由を作るのも、昔から変わらない伝統らしい。
僕たちは二便目の飛行機に乗り、チリへ向かった。
これで、南極への旅は正式に終了した。
南極からの便が約40時間遅れ、船上で必死に旅程を変更。プエルト・ナタレスでチリに入国し、ようやく本当の帰路についた。
大変な帰宅の旅は、チリから始まる。
いや、本当はもっと前から始まっていた。航空券を取ろうとした瞬間から、このややこしい一連の出来事はもう始まっていたのだ。
南米の航空券は本当に取りにくい。行きのブエノスアイレスはまだよかった。アルゼンチンの首都だし、「どうせ行くなら」の精神で乗り継ぎを分解し、先に二日ほど観光することにしたからだ。そのおかげで便の選択肢が増え、予約もかなり楽になった。もしウシュアイアまで一気に飛ぼうとしていたら、行きの時点ですでに相当面倒だったと思う。
一方、チリ側では、アメリカへ帰る乗り継ぎ便をプエルト・ナタレスという小さな町から始める必要があった。南極のキングジョージ島からチリ本土へ戻るチャーター便が最初に着くのがここなので、その先の帰路もここからつなぐしかない。
そして、この航空券がまた……。
事前にネットで調べると、Expediaのような旅行サイトについてかなり強い悪評がいくつか出てきた。予約したはずなのに、現地へ行ったら実は発券されていなかった、という体験談まであった。さすがに話が極端すぎて本当かと思ったが、ネット上にそういう事例があったのは確かだ。少し怖くなり、航空会社の公式サイトから直接買うことにした。
当時見つけられた中南米系の選択肢は、主にCopa AirlinesやLATAM Airlinesなどだった。一社ずつ確認し、United AirlinesやDelta Air Linesといったアメリカの大手も全部見て、ようやく条件に合うルートをいくつか見つけた。
ただし、そのどれにも同じ問題があった。僕たちが見つけた範囲では、チリのプエルト・ナタレスからアメリカ国内まで、全区間を一社だけで運航するルートが一つもなかった。どの案も、中南米内――正確にはアメリカ国外――は中南米の航空会社が運航し、アメリカに入ってからアメリカの航空会社へ切り替わる。
それ自体は合理的だし、もともと乗り継ぎ航空券として買うのだから、理論上は大きな問題ではないはずだった。しかし……。
座席指定の時点で嫌な予感がした。中南米側の公式サイトで買うと、アメリカの便の座席が選べない。逆も同じだった。今回の旅程は中南米区間のほうが長く、そちらを優先したかったので、最終的に中南米系航空会社のサイトで買うことにした。アメリカ国内の席はランダムでも仕方ない。
ところが、座席指定だけならまだよかった。指定せず次へ進み、最後の画面まで行って購入しようとすると、注文エラー。何度試しても、どうやってもエラー。完全に詰んだ。
結局どうしようもなく、Expediaで予約することになった。最初からそうしておけばよかった。早く諦めれば早く楽になれたのに。
しかし、これはまだ災難の始まりにすぎなかった。約四か月前に予約した全旅程は、プエルト・ナタレスを出発し、チリの首都サンティアゴで乗り継ぎ、アメリカに入ってロサンゼルスでさらに乗り継ぎ、最後にサンフランシスコへ戻るというものだった。
予約してからというもの、この旅程は一度も落ち着かなかった。僕たちの便は、二週間に一度くらいの勢いで時間が変わった。一回ごとの差は一時間程度の微調整でも、回数が多すぎて、だんだん時刻がおかしなことになっていく。最初は毎回ネットで確認していたが、そのうちもう無理だと諦めた。変更されすぎである。ただし、一つだけありがたい点があった。当時のシステムでは、変更を受け入れなければ、全旅程を無料で変更できたのだ。
これが本当に命綱になった。
前の南極の記事にも書いたが、南極からチリへ飛ぶ予定だった飛行機が予定時刻に出発できず、約40時間遅れた。その結果、その先の便をすべて取り直す必要が出た。僕たちの船を運航する旅行会社にも航空券の手配サービスがあり、こういう状況ではそこに任せたほうがずっと楽だったと思う。僕は利用していないので質は分からないが、たぶんサービス自体はよかったのだろう。ただ、値段が……。チリからアメリカまでの全区間をエコノミーで買っても合計1,000ドル台なのに、手配サービスだけで500ドル。僕には無理だった。
そこで南極の船上で、飛行機の遅延が確定したあと、この無料変更の権利を使った。しかも小さな変更ではない。日程を丸一日後ろへずらし、アメリカへの入国地点まで変えた。ロサンゼルス経由の元のルートは、変更を重ねて時刻があまりにもひどくなっていたので、そこにこだわる理由もなかった。
ただし、変更作業もかなり大変だった。ネット上の操作自体は簡単だ。ネットさえあれば。船ではStarlinkを使っていた。無料Wi-Fiもあったが、実質ないのと同じ。午前3時にほかの誰も使っていない時なら、Googleのトップページがぎりぎり開くかもしれない、というレベルだった。有料Wi-Fiはいくつかプランがあり、僕たちは一番高いものを買った。すごく速いわけではないが、普通のネットとしては使えた。
ところが、今度は状況が変わった。飛行機が遅れ、全員が予約を変更しなければならなくなったため、船が全員にネットを開放した。その結果、全員にネットがあるということは、誰にもネットがないということになった。スタッフは船内で何度も、「もう変更が終わった人、あるいは変更が必要ない人は、今はネットを使わず、必要な人に譲ってください」と案内していた。
午後10時ごろ、翌日も飛べないと確定したところで作業を始め、午後11時ごろには何とかすべて変更できた。
僕たちは一日しか後ろへずらさなかった。かなり攻めた判断だったと思う。もし翌々日にも飛べなければ、もう予測するのは諦め、飛べるようになってから一度だけお金を払って全部変更しよう、と考えていた。しかし実際には、翌日も飛べなければ船そのものがアルゼンチンへ戻る予定だった。そうなれば、もう日付変更どころではない。チリ発の航空券を、どうやってアルゼンチン発に変えろというのか。
そして三日目、無事に飛行機が飛び、僕たちはチリへ到着した。船に乗っていた側は、実はそこまで落ち込んでいなかった。特に白髪の年配客たちは、見たところまったく気にしていない。むしろ南極にもう数日いられるなら歓迎、という雰囲気だった。追加された一日には船長が上陸をもう一回組んでくれたので、みんなかなり満足していた。
でも、チリで待っていた次のツアーの人たちは、当然そんな気分ではなかった。僕たちの次には、以前書いた、チリから飛行機で往復するツアーが続く予定だった。もともと長くない日程なのに、いきなり二日短縮である。飛行機で往復すればドレーク海峡を避けられると思っていたが、まさかこんな落とし穴があるとは思わなかった。
僕が聞いた案内では、提示された選択肢の一つは、短縮後のツアーに参加しない場合、全額返金に加えて、次回の予約で使える約1,000ドル分のクレジットを受け取る、というものだった。ないよりはましだと思う。ただ、1,000ドルは大きく見えても、チリまで往復する航空券代すら賄えないことが多い。今回は完全に来ただけで終わるし、休暇の日数もきっちり消費している。
最終的に僕が聞いた話では、140人以上いた乗客のうち、返金を選んだのは4人だけで、残りは短縮された日程でも出発したらしい。二日減った旅で十分楽しめたのかは分からない。さすがに少しかわいそうだった。
僕としては、予約時にこの日程が満席で本当によかった。空いていたら、僕もそちら側だった。これも運だったということだろう。
ここは真面目に注意しておきたい。南極へ飛行機で往復するツアーを予約するなら、最終的に予定どおり出発できない可能性も考えておいたほうがいい。多くの場合は数時間の遅れで済み、僕たちの時ほど極端にはならないのかもしれない。それでも長時間飛べない状況に当たれば、旅程は完全に崩壊する。
僕たちは午前10時ごろ、プエルト・ナタレスに到着した。ここでチリの入国審査を受ける。空港はとても小さく、かなり簡素だった。もちろん入国審査自体はあるが、普段の国際空港で見るような、閉じられた審査エリアではなかった。
飛行機を降りると、全員まとめて空港の大きな部屋へ案内され、入国審査の列に並んだ。ただ、一列では収まりきらず、列が部屋の中をぐるっと回り始めた。そこで問題が起きる。入国審査を終えた先、つまり空港内部へ入るためのドアには、見たところ目の前に係員が立っているわけでもなく、近づけば勝手に開く自動ドアがあるだけだった。そして、ぐるっと回った列がそのドアのすぐ前を通る。
少なくともその場で僕の目に見えた範囲では、誰かがその気になって自動ドアを通れば、すぐには誰にも止められなさそうに見えた。一瞬、「これ、ここで密入国成立じゃない?」という妙な錯覚に陥る。
でも、次の問題は、そもそもなぜチリへ密入国する必要があるのか、ということだ。この空港に南極発のチャーター便以外の国際線があるのか、僕は知らない。もしないのなら、南極を経由してチリへ密入国しようと思いつく時点でもうすごい。そこまで本気なら、もう好きに入ってくれ、という気分である。
とはいえ、考えてみれば、南極からこのチャーター便で戻る乗客については、船側が事前に情報を確認し、提出していた。少なくとも通常なら、全員の渡航書類はもっと前にチェックされていたはずだ。そうでなければ、アルゼンチンで船に乗せてもらえなかっただろう……。
次の飛行機は午後2時発だった。町はとても小さく、空港から中心部まで車で約5分。少し考えたが、結局町へは行かなかった。26インチの大きなスーツケースを引いて歩くのは面倒だし、知らない土地で言葉も通じない。わざわざ自分から問題を増やす必要はない。
その後、僕たちは無事に帰りの飛行機へ乗った。最後の最後で、ようやく新しいトラブルは起きず、そのまま家へ帰ることができた。これで南極旅行は本当に完結した。